このたび、『秦の始皇帝の末裔である秦氏が我が国の京都を開発した』〔一粒書房 2026年7月19日発行〕を上梓しました〔アイキャッチ画像〕。amazonにて販売しています(定価:700円+税)。
この新著を世に出すに至った事情を説明します。
秦氏を扱う本書は元々構想していたものではありません。実を言うと、昨年秋に出した前著のスピンオフとして生まれたものです。
前著とは、『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』〔一粒書房 2025年10月1日発行〕のことです。現在、amazonにて販売中です(定価:1200円+税)。
そこにおいて『日本書紀』の或る記事を取り上げました。それは、応神天皇の御代に「百済」から「弓月君」(ゆづきのきみ)が来朝したことです。その論考本文の注として秦氏に言及することにしたのが事の始まりです。当初は秦氏のことは単なる余談に過ぎませんでした。そもそも古代の渡来系氏族に特に興味があったわけではありません。だから、応神朝の歴史の一齣として軽く触れてお仕舞いにするつもりだったのです。ところが、書き始めると話がどんどんと膨らんでしまい、とても注の範疇に収まるものではなくなりました。そのため、それは別立てでまとめることにしたのです。そうして出来たのが本書というわけです。
以下、本書の要旨を記し、目次を示します。
『新撰姓氏録』などの第一級の本邦史料によれば、渡来系氏族の雄である秦氏は秦の始皇帝の末裔である。ところが、今日の古代史アカデミーはそれを虚構と決めつける。それは秦氏が自称し上表した粉飾であるというのだ。それに対して本書はそれを史実と捉える。
司馬遷の『史記』によれば、始皇帝は世を去る直前に長男・扶蘇を後継者に指名した。ところが、奸臣がその遺言を握りつぶして偽の詔書を作成した。受け取った扶蘇はそれを真に受けて自ら命を絶った。やがて秦帝国は大混乱に陥り滅んでいった。その渦中で唯一亡命できた始皇帝の子孫がいた。それが扶蘇の子である。朝鮮半島の馬韓の地に安住した彼は、そこで新たな秦国を建てた。それが中国史書のいう「辰国」であり「辰王」である。漢帝国の逆鱗に触れるのを恐れて、外交上は「秦」ではなくて「辰」の字を用いたのである。四世紀後半に伯済国が馬韓を統一した。それが百済である。居場所を失った辰王すなわち秦王は我が国に亡命した。それが応神天皇の御代に渡来してきた「弓月君」である。その後裔が秦氏である。
『日本書紀』等の史料は異彩を放った秦氏の面々を記す。本書は、これまで誤解されてきた、あるいは見逃されてきた彼らの足跡に新たな光を当てて、その真実を明らかにするものである。
①雄略天皇に仕えた秦造酒は各地に分散していた秦氏を束ねることを許された。その称号が「太秦」(うずまさ)である。彼はその初代である。京都の太秦の地の語源である。
②雄略天皇の崩御後、秦氏は大和(やまと)から山背(やましろ)に移住した。そして、持ち前の土木技術を駆使して未開の地を豊かな大地に作り変えた。
③継体天皇の皇子の一人に仕えた秦大津父はその即位実現に貢献した。それが欽明天皇である。大津父はその甲斐あって大きな富を築いた。そのことが後世において伏見稲荷大社の創建に繋がった。
④蘇我氏に仕えた秦造河勝は東国に養蚕業を広めた。ところが、その絶頂期に政変が起こり、その運命は暗転した。乙巳の変である。主君である蘇我氏本宗家の滅亡を知るや否や、彼は京都盆地を後にした。向かった先が今の大阪府寝屋川市である。
⑤天武天皇の時代に秦氏は復権した。その後、桓武天皇による長岡京遷都、つづく平安京遷都において、秦氏はその卓越した土木技術を買われて新都建設の陰の立て役者となった。
⑥平安時代以降も秦氏の後裔は文武両面で活躍した。明法家の惟宗氏、薩摩の島津氏、対馬の宗氏などである。
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2026年7月19日 投稿