1974年のことです。長野県松本市内の或る丘陵が地ならしされる運命にありました。運動場にするためです。その整備が進められる過程で、その頂上に古墳があることが分かりました。そこで同年に緊急の発掘調査が実施され、その石室から、銅鏡、鉄剣、銅鏃、鉄鏃、ガラス小玉などが出土しました。そこでこの古墳を保存すべきとの声が高まりました。それを受けて、市がその土地を買い取り、国が史跡に指定して、永久に保存されることになりました。それが、弘法山古墳(こうぼうやまこふん)です〔注1〕。
この時まで古墳の存在が知られていなかったこと、故に盗掘を免れていたこと、その状態で学術調査が実施されたこと、調査終了後に古墳が保存されたこと。これらの内のどれを欠いても、その学術的価値は損なわれ、あるいは失われていました。それが今あるのはまさに奇跡的なことです。
私は以前からこの古墳に注目していました。そこで、2016年7月に現地を訪れました〔アイキャッチ画像〕。古墳後方部の墳頂に埋葬施設があります。そこから松本市街地を眺望することができます〔写真1〕。
〔写真1〕古墳の後方部からの眺望(2016/7/29撮影)

前方部は後方部より低い位置にあり、そのため後方部から前方部を見下ろすことができます〔写真2〕。
〔写真2〕後方部から見る前方部(2016/7/29撮影)

1974年の発掘調査の約半世紀後に再調査・再検討が実施されました。
今年2026年にその結果が発表されて、松本市のローカルニュースになっています。ただし、私の知る限り、本稿執筆時点で、全国新聞の全国版紙面や、NHKならびに民放キー局の全国放送では、この話題は未だ取り上げられていません(私が知らないだけかもしれませんが)。
再調査・再検討により、この古墳が墳丘長61.7㍍の前方後方墳であることが確定しました。ただし話題の肝はそれではありません。
ニュースの核心は、「弘法山古墳は、“古墳時代の始まり”とされている箸墓古墳よりも古い、3世紀前半から半ばの築造だと判明」〔松本市公式note 2026/6/24付け記事〕したことにあります。
ここでのポイントは、この古墳が「3世紀前半から半ばの築造」であることです。『三国志』魏志倭人伝によれば、卑弥呼は二世紀末に倭国王に「共立」され、248年頃に世を去りました。つまり、この古墳の被葬者は卑弥呼と同時代を生きた人なのです。
1978年発行の発掘調査報告書において、弘法山古墳調査団長の斉藤忠氏は、この古墳の築造年代を「四世紀の中葉前後」〔注2〕と目しました。
一方、出土土器を検討した大塚初重氏は、「東海地方西部との関係の濃さを示す土器がほとんどである」〔注3〕こと、そして「弘法山古墳出土の土師器は、現在までのところ長野県は勿論のこと、北関東・南関東各地域の中では、最古の段階にあるもの」〔注3〕であることを指摘し、その上で、「西暦四世紀代も前半期には弘法山古墳の出現はあったものと、土師器の実態から推定している」〔注3〕ことを件の報告書の中で述べました。
その後の1993年に、出土品を再検討した直井雅尚氏は、弘法山古墳の「実年代は矢部遺跡や廻間遺跡の年代比定にそのままあてはめると3世紀の末から4世紀の初頭、となる」〔注4〕としました。
こうした経緯により、近年では、その築造年代は三世紀末と推定されていました〔写真3〕。
〔写真3〕弘法山古墳の案内板(2016/7/29撮影)

この度の再調査・再検討により示された新たな年代観は、控えめに言って、古墳時代研究史を画するものです。それは、卑弥呼の時代の東国において古墳が築かれていたことを示すからです。
事はそれだけにとどまりません。松本市公式noteは、「3世紀半ばまでに築かれた弘法山古墳は、大和政権が広めた前方後円墳の文化とは異なる、東日本独自の特色をもつ古墳であると考えられます」〔松本市公式note 2026/6/24付け記事〕と説きます。私はこれと見解を同じくします。
西暦100年頃に始まり260年代末まで続いた倭国とは一体いかなるものであったのか?今回の再調査・再検討結果はこの謎を解明するための大きなピースであると私は見ます。その意味で、今回の発表は、信濃のローカルニュースに留まるべきものではなくて、全国的に最大級の考古学ニュースであると私は考えます。
弘法山古墳などからの出土品を展示するのが、松本市立考古博物館です〔写真4〕。
〔写真4〕松本市立考古博物館(2016/7/29撮影)

弘法山古墳から一面の銅鏡が出土しました。それが、上方作浮彫式一仙三獣鏡という中国鏡です〔注5〕〔写真5〕。
〔写真5〕弘法山古墳出土鏡〔松本市立考古博物館展示品〕(2016/7/29撮影)

弘法山古墳の近くに、それと近接した時期の古墳がありました。それが中山36号墳です。この古墳は、弘法山古墳とは異なり、削平されて失われてしまいました。ここからも一面の銅鏡が出土しました。それは弘法山古墳出土鏡に類似したものです。それが、上方作浮彫式六獣鏡という中国鏡です〔注5〕〔写真6〕。
〔写真6〕中山36号墳出土鏡〔松本市立考古博物館展示品〕(2016/7/29撮影)

私は2019年の拙著にて弘法山古墳および中山36号墳に言及しました〔注6〕。そこで取り上げたのが銅鏡です。実は、松本市からは三角縁神獣鏡が出土していません。すなわち、これら二つの古墳から出た二つの鏡に後続する鏡がありません。これらの古墳はいわば孤立した状態にあるのです。弘法山古墳の被葬者は生前に中国鏡を入手しました。中山36号墳の被葬者もまた生前に中国鏡を入手しました。ところが、彼らを後継した松本の首長は中国鏡を入手しなかった、あるいはできなかった可能性が高いのです。
そこで私は、「これらの地域の有力者は公孫氏政権時代に上方作系浮彫式獣帯鏡を獲得した。ところが、その後継者は、次代の中国鏡すなわち舶載三角縁神獣鏡などの魏晋鏡を入手できなかったことになる。それは何故なのだろうか?」〔注6、下巻・頁48〕という問題を提起しました。
弘法山古墳が三世紀前半~半ばの築造であることが判明した今、2019年に発した私の問題提起は色褪せるどころか、むしろそれが放つ光は強まっていると感じます。
実は、弘法山古墳の出土遺物の中で、鏡以上に注目しているものがあります。それが、ガラス小玉です〔写真7〕。
〔写真7〕弘法山古墳出土ガラス小玉〔松本市立考古博物館展示品〕(2016/7/29撮影)

本ブログの過去の投稿記事〔2026/2/22記事〕〔2026/2/16記事〕で述べたように、奈良盆地の古墳において、ガラス小玉を含めて玉類が副葬されるのは、270年代まで待たねばなりませんでした。ところが松本市においては、250年以前の古墳にガラス小玉が副葬されたのです。不可解なことに今日の考古学者はこのことを全く意に介していませんが、私はこの事実が意味するところは大であると考えています。
現時点で再調査・再検討の報告書を目にしていないので、本稿は速報に留めます。その詳細が分かり次第、本ブログにて改めて稿を起こすつもりです。そこにおいて、弘法山古墳が有する歴史的意義について私見を述べたいと思います。
注:
〔注1〕斉藤忠(編) 1978『弘法山古墳』松本市教育委員会
〔注2〕斉藤忠 1978「弘法山古墳の年代と前方後方墳の意義」斉藤忠(編)『弘法山古墳』松本市教育委員会
〔注3〕大塚初重 1978「弘法山古墳出土の土師器について」斉藤忠(編)『弘法山古墳』松本市教育委員会
〔注4〕直井雅尚 1993「弘法山古墳出土土器の編年的位置」『松本市文化財調査報告 No111 弘法山古墳出土遺物の再整理 ―新発見資料を中心とした土器とガラス製小玉の整理―』松本市教育委員会
〔注5〕鏡式名は、下垣仁志(著)『日本列島出土鏡集成』(同成社 2016年発行)に依ります。
〔注6〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房
2026年7月12日 投稿