『古事記』孝霊天皇段に、「大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国を言向へ和しき。」とあります。
 これを現代語に訳すると、「大吉備津彦〔大吉備津日子命〕と若建吉備津彦〔若建吉備津日子命〕との兄弟が、共同して、播磨〔針間〕の氷河(ひかは)の岬に忌瓮(いはひへ)を据えて、播磨を道の入り口として、吉備国を制圧し、平定した。」となります。
 これは、『日本書紀』崇神天皇十一年四月二十八日条の「四道将軍、戎夷を平けたる状を以ちて奏す。」(四道将軍が地方の王化に浴さぬ者どもを平定したことを奏上した)に当たります。すなわち、崇神天皇〔第10代〕の御代に、四道将軍の一人である「吉備津彦」(きびつひこ)が「西道」(にしのみち)を平定しました。この「西道」とは具体的には吉備のことです。これは、大和政権が全国を統一することを決定づけた出来事です。

 私説では、『三国志』魏志倭人伝のうち、「倭国」の都・邪馬台国が吉備であり、「倭国」と敵対する狗奴国の都が大和です〔注1〕。吉備の「倭国」政権は大和の狗奴国政権により滅ぼされました。その時の「倭国」王は、卑弥呼を後継した台与です。それは260年代末のことです。上記の『古事記』『日本書紀』の記事はこの出来事に当たります。すなわち、魏志倭人伝のいう「狗奴国の男王・卑弥弓呼」とは崇神天皇のことです。

 本稿では、先の『古事記』の記事を取り上げます。
 吉備津彦の兄弟率いる大和政権軍が奈良盆地を出て、山陽道を西へ進軍しました。目的地は吉備国の中心、すなわち備前の西南部および備中の東南部です。現在の岡山市、倉敷市ならびに総社市です。その道中にあるのが播磨国です。現在の兵庫県の南半です。

 「針間の氷河之前」のうちの「針間」とは播磨(はりま)のことです。問題は、「氷河之前」(ひかはのさき)です。これは一体どこのことでしょうか?
 国文学者の西宮一民氏は、「兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘(ひおか)の下を流れる加古川が氷川(ひかわ)といわれ、その氷丘が岬になっていたので『氷河岬』(ひかわさき)という。氷丘には日岡(ひのおか)神社がある」〔注2、頁128・頭注〕と解説しました。
 その後のテキストもこれを踏襲して、「『氷河』は、今の加古川のこと。加古川が兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘(ひおか)の下を流れ、氷丘が岬になっているので、氷丘のあたりを『氷河之前』と呼んだもの」〔注3、頁171・頭注〕と注釈します。
 現在、そこは日岡山公園として整備されています〔アイキャッチ画像〕
その展望台から西に目を向けると加古川(かこがわ)が見えます〔写真1〕。吉備津彦の兄弟もまた、日岡山(ひおかやま)の頂から西を流れる加古川を目にし、次にその先を遠望したことでしょう。

〔写真1〕日岡山公園展望台から望む加古川

写真1

 「忌瓮」とは、本居宣長によれば、「忌瓮(イハヒベ)は、神祭に用る器にて、齋忌(イハヒ)て物する故の名なり。さて居(スエ)とは、地を掘て、下方をやや埋て置を云」(『古事記伝』二十一之巻・黒田宮巻)〔注4、頁491〕ものです。
 これを受けて、「神祭りのための甕で、酒を盛り、木綿などをとりつけて吉事を祈ったらしい。(中略)。忌瓮は祭器一般であり、出陣のさいも用いられたということだろう。そしてその酒はみんなしてわかちあって共飲されたに相違ない」〔注5、頁133~134〕と見られています。

 要するに、これから臨む吉備での戦いの勝利を祈願するとともに、軍団の結束と戦意高揚を図るために、軍団挙げて酒盛りの儀式が執り行われた。それに用いた酒甕が忌瓮(いはひへ)なのです。
 そうして吉備津彦の軍は一斉に日岡山を駆け下り、加古川を渡って西に進軍し、抵抗する播磨の勢力を蹴散らし、吉備に入って、台与政権を滅ぼし、吉備を平定したのです。

 話は変わりますが、日岡山の頂上には、宮内庁指定の御陵である日岡陵があります〔写真2〕。景行天皇の皇后である播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)の陵とされます。

〔写真2〕日岡御陵

写真2

 日岡山の麓には、日岡神社(ひおかじんじゃ)〔兵庫県加古川市加古川町大野〕が鎮座します〔写真3〕。延喜式神名帳に、播磨国の「賀古郡一座」として「日岡坐天伊佐々比古神社」があります。この式内社がこの社です。

〔写真3〕日岡神社

写真3

 日岡神社の由緒によれば、景行天皇の皇后である播磨稲日大郎姫がご懐妊された時、この神社の主神である天伊佐佐比古命(あめのいささひこのみこと)がひたすら安産を祈願したところ、皇后は無事に双子の皇子を出産されました。その双子が大碓命(おおうすのみこと)と小碓命(おうすのみこと)です。このうち小碓命が、後の日本武尊(やまとたけるのみこと)です。
 このため、この神社は安産の神様として人々の厚い信仰を集めています。

 日岡山を訪れたならば、姫路の観光もお勧めします。JRで日岡駅から加古川駅まで行き、そこから西に20分程度乗ると姫路駅に着きます。目的は、言わずと知れた、国宝・姫路城です〔写真4〕

〔写真4〕姫路城

写真4

 姫路は交通の要衝です。兵庫県にあって北の但馬と南の播磨を結ぶ道があります。それの南の端が姫路です。これは、但馬の生野銀山(いくのぎんざん)の銀を姫路港まで運ぶ道でもありました。これが、日本遺産「播但貫く、銀の馬車道、鉱石の道」〔story 45〕です〔写真5〕

〔写真5〕姫路市内のポスター

写真5

〔注1〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

〔注2〕西宮一民(校注) 1979『新潮日本古典集成 古事記』新潮社

〔注3〕山口佳紀・神野志隆光(校注・訳) 1997『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館

〔注4〕大野晋(編) 1968『本居宣長全集 第十巻』筑摩書房

〔注5〕西郷信綱 1988『古事記注釈 第三巻』平凡社

 2026年5月19日 投稿