前回の投稿で、隅田八幡神社人物画像鏡(以下、「隅田八幡鏡」と略す)の48文字からなる銘文について、先学の研究に基づき、その文字を次のように読み取りました。

 癸未年八月日(曰)十大王年弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟中費直濊人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟

 その上で、これを次のように解釈しました。

 癸未年八月、今上陛下の御世にて「弟王」が忍坂宮にいる時にあたって、私すなわち斯麻は陛下に末長くお仕えすることを念願するものです。そこで、辟中の人である費直ならびに濊人である今州利という二人の重臣を陛下のもとに派遣しました。二百旱の極上の銅でこの鏡を作りましたので、ここに献上いたします。

 「癸未年八月」とは西暦503年8月のことです。「今上陛下」とは、その時点での天皇のことであり、それは武烈天皇〔第25代〕です。「斯麻」とは百済の武寧王です。この銘文は、武寧王が武烈天皇に奏上するものです。
 すなわち、隅田八幡鏡とは、503年に武寧王が百済で製作し、その後に武烈天皇に献上した鏡です。百済から朝廷にそれを運んだ使者が、辟中の費直と濊人・今州利の二人です。

 以上が前稿の内容です。以下、これの続きです。

 『日本書紀』武烈天皇六年十月条に、
 「百済国、麻那君を遣して進調る。天皇の以為はく、百済、年を歴て貢職を脩らずとおもほしめす。留めて放したまはず。」

 とあります。
 現代語訳すると、「百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢した。天皇は、百済が何年も貢ぎ物を納めていないと思われていた。そのため麻那君を留めて百済に帰さなかった」となります。

 武烈天皇六年十月とは、西暦504年10月です。
 私は、この朝貢が隅田八幡鏡銘文に当たると考えます。すなわち、鏡が百済で製作されたのが503年8月であり、実際にそれが朝廷に貢納されたのが504年10月です。隅田八幡鏡を含む貢ぎ物を武寧王から託された使者「麻那君」とは、鏡の銘文に登場する辟中の費直か濊人・今州利かのどちらかです。

 なお、古鏡を専門とする考古学者は、隅田八幡鏡を仿製鏡(ぼうせいきょう)〔中国鏡を模倣して作った鏡〕と見る点で一致しています。ただし、その製作地にはコンセンサスがありません。日本製という見方と百済製という見方とがあります〔注1〕
 岡村秀典氏は、隅田八幡鏡について、「考古学ではこれを倭鏡とみるのが通説だが、(中略)、武寧王が忍坂宮のフト(継体)王のためにつくったと考える百済製説も一考に値しよう」〔注2〕と述べます。
 より明確な見解を表すのが福永伸哉氏です、福永氏は、隅田八幡鏡について、倭製鏡の特徴(①厚みが薄い、②四つの乳が整った正方形に配置される)を欠くことを指摘した上で、「人物画像鏡が古墳時代倭製鏡の作鏡原則からかけ離れた特徴を持っていることは、これが中国系でも倭系でもない第三の工人によって製作されたことを強く示唆している。この時期の東アジアの国際関係を勘案すれば、それは銅鏡製作がほとんど行われていなかった朝鮮半島三国時代の工人の手になったと考えるのが最も妥当である」〔注3〕と説きます。
 福永氏は隅田八幡鏡の製作地を特定しているわけではありません。とはいえ、「朝鮮半島三国時代の工人」が実際の製作者ならば、その工人が来日して鏡を作るというのは不自然です。よって、福永氏の見解を是とするならば、百済の工人が百済で製作したと見るべきです。
 私は、この鏡を百済から倭国への朝貢品とする立場から、百済で製作されたと考えます。

 残った問題は「弟王」です。これは一体誰のことでしょうか?

 これを解明するための第一歩は「〔番号11〕の文字が何であるかを見定めることです。これまでの研究で最も多く採られてきたのが「男」です。この場合、件の三文字は「男弟王」となります。これに対して、石和田秀幸氏は「予」という説を出しました〔注4〕。堀大介氏はこれを支持しました〔注5〕。この場合、「予弟王」となります。
 後述するように、銘文の文脈からすると「予」の方が相応しいと言えます。そこで本稿では、「〔番号11〕を「予(男)」と表記します。これは、「予」なのか「男」なのかを決めがたいものの、どちらかというと「予」の可能性が高いことを示すものです。

 〔A〕「予(男)弟王」は当て字なのか?

 銘文の中に「意柴沙加宮」〔番号15~19〕とあります。ここにおいて、最初の四文字「意柴沙加」と最後の一文字「宮」とは、漢字としての使われ方が全く異なります。銘文の作者は、「宮」をその漢字本来の意味で使っています。ところが、「意」、「柴」、「沙」、「加」はそうではありません。漢字を借りて、日本語の仮名を表しています。オを「意」、シを「柴」、サを「沙」、カを「加」という漢字で代用させているのです。これを当て字といいます。
 こうした用法は隅田八幡鏡銘文に限りません。たとえば、『三国志』魏志倭人伝に「卑奴母離」という表記があります。そこでは、各々の漢字はその語義とは無関係です。「卑」はヒ、「奴」はナ、「母」はモ、「離」はリという仮名を表すに過ぎません。三世紀前半の倭国には、ヒナモリという官職がありました。その本義は、鄙(ひな)を守るということです。魏志倭人伝ではそれが「卑奴母離」という当て字で表記されたわけです。
 近代でも当て字はあります。アメリカを亜米利加と記す類いのことです。我々がアメリカを米国と呼ぶのは、それがコメの生産国だからではありません。この「米」はコメの謂いではなくて、メという仮名を表しています。

 それでは、「予(男)弟王」はどうなのでしょうか?
 従来の研究の多くが番号11を「男」としてきたことは既に述べました。「男弟王」〔番号11~13〕というわけです。そこで今日通説となっているのが、前々回の記事で言及した、「男弟王」=「男大迹王」説です。この説では、「男弟」を「をおと」の当て字と見なします。その上で、それを「をほど」すなわち「男大迹」のこととするのです。男大迹王とは即位前の継体天皇の名です。こうして、継体天皇は即位前に既に大和にいたと説かれるわけです。しかし、この説が成り立たないことは前々回の記事で述べた通りです。

 国語学者の沖森卓也氏は、「『男弟王』は字義そのまま男子の弟の王と見るべき」と説きます〔注6、頁50〕。つまり、「男弟王」は当て字ではないというわけです。
 私もこれと同意見です。番号11が「予」であろうと「男」であろうと、「予(男)弟王」の三文字はそれぞれ漢字本来の意味を表していると見ます。

 〔B〕「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とは同一人物なのか?

 番号11から13までの三文字を当て字と見るならば、「予弟王」なのか「男弟王」なのかは大違いです。なぜなら、「予」の読みと「男」の読みとは全く異なるからです。
 それに対して、それらを字義通りと見る場合はどうでしょうか?
 魏志倭人伝に、「男弟有りて国を佐け治む」(弟がいて国の統治を補佐している)という一節があります。卑弥呼には「男弟」がいたというのです。この場合の「男弟」とは弟のことです。これと同じとすれば、「男弟王」とは「弟である王」という意味になります。
 一方、「予」とは「私」の謂いです。とすると、「予弟王」とは「私の弟である王」という意味になります。
 よって、「男弟王」であろうと「予弟王」であろうと大意に変わりないことになります。どちらにしても、「予(男)弟王」とは、銘文の語り手である「斯麻」の「弟である王」になります。この場合、単に弟王というより、私の弟王という方が文章として自然です。よって、番号11は「男」よりも「予」の方が可能性が高いと思います。

 ここに至って漸く、隅田八幡鏡銘文とその解釈文とが定まりました。それは次の通りです。

 (原文)
 癸未年八月日(曰)十大王年予(男)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟中費直濊人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟

 (解釈文)
 癸未年八月、今上陛下の御世にて私の弟である王が忍坂宮にいる時にあたって、私すなわち斯麻は陛下に末長くお仕えすることを念願するものです。そこで、辟中の人である費直ならびに濊人である今州利という二人の重臣を陛下のもとに派遣しました。二百旱の極上の銅でこの鏡を作りましたので、ここに献上いたします。

 ところが、です。まさにここで壁に突き当たるのです。
 「斯麻」を武寧王であるとすると、その弟の王が誰なのかが分からなくなるのです。
 以下、この難問を紐解いていきましょう。

 最初に考えるべきは、「日(曰)十大王」〔番号6~9〕と「予(男)弟王」〔番号11~13〕との関係です。両者は同一人物なのか、別の人物なのかが問われなければなりません。

 両者を別人とするのが、「男弟王」=「男大迹王」=「即位前の継体天皇」という通説に立つ研究者です。彼らにとって、「斯麻」は百済の武寧王であり、「日(曰)十大王」とは503年当時の天皇であり、「男弟王」とは男大迹王すなわち即位前の継体天皇です。「日(曰)十大王」は継体天皇の先代の天皇です〔注7〕。つまり、「斯麻」と「日(曰)十大王」と「男弟王」との三人は皆別人です。この場合、銘文の語り手である「斯麻」は誰に向けて鏡を製作し、使者二人を派遣したのでしょうか?それは「日(曰)十大王」に向けてではありません。それは「男弟王」すなわち「男大迹王」に向けてです。百済王・斯麻は、忍坂宮で政務を執る「男大迹王」すなわち即位前の継体天皇にこの鏡を献上したというのが彼らの解釈です。
 503年当時、「日(曰)十大王」は名ばかりの天皇に過ぎなかった。国政の実権を握っていたのは、忍坂宮にいる「男弟王」であった。彼は天皇ではないものの、次の天皇となることが既定路線となっていた。そのことを知る百済王・斯麻は、「日(曰)十大王」ではなくて、「男弟王」に朝貢した。彼らはこう考えるわけです。
 古代史家の大橋信弥氏は曰く、「継体はすでに仁賢の在位中から、その後継者として認められ、大和の忍坂に拠点をかまえるとともに対朝鮮外交にもかかわっていることが判明する」〔注8、頁168〕と。
 古市晃氏は曰く、「この時、倭王の地位にあったのは曰十大王、つまり仁賢天皇だが、武寧王はわざわざ一王族にとどまる継体に鏡を贈っているのである。継体は、すでに東アジア国際世界の中で認知される存在に成長を遂げていた」〔注9、頁237〕と。
 しかし、繰り返しますが、この説は成り立ちません。

 それに対して、「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とを同一人物とするのが、「予(男)弟王」を字義通りに「(私の)弟である王」と読み取る研究者です。
 石和田秀幸氏は曰く、「そうであれば、『大王』『弟王』を二人の王と分けて考える必要はなく、『曰十大王』と『弟王』は同一人物であり、王統に連なる弟王が『曰十』という名の大王となって『意柴沙加宮』で政治を執ったものと見ればよい」〔注4〕と。
 堀大介氏は曰く、「斯麻の弟王は曰十大王であった可能性が高い」〔注5〕と。
 つまり、彼らの見立てでは、「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とは同一人物であり、「斯麻」はその兄です。兄である「斯麻」が、忍坂宮で政務を執る弟の王すなわち「日(曰)十大王」に長く仕えることを願って鏡を製作し、そのもとに使者を派遣した、というのが彼らの解釈です。この場合、「斯麻」は百済の武寧王ではありません。百済王が天皇の兄であるはずはないからです。
 なぜ、彼らは「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とを同一視するのでしょうか?それは、両者が別人であるとすると、「斯麻」がどちらに向けて奏上しているのかが分からなくなるからです。もし「日(曰)十大王」に奏上しているのならば、自分の弟の王が忍坂宮にいることに言及する理由が分かりません。もし「予(男)弟王」に奏上しているならば、王であるとはいえ天皇ではない弟に長く仕えることを願い、立派な鏡を自ら製作し献上する「斯麻」とは誰なのでしょうか?それが分かりません。苦し紛れに「予(男)弟王」を即位前の継体天皇のこととするならば、「斯麻」は継体天皇の兄ということになります。しかし、『記』『紀』に継体天皇の兄なる人物は登場しません。こうしたことから、彼らは「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とが同一人物であると見るのです。彼らによれば、「斯麻」は、503年当時の天皇である「日(曰)十大王」の兄であることになります。少なくとも言えるのは、「斯麻」は百済の武寧王ではないことです。

 そこで彼らが妙策と思って飛びつくのが次のことです。
 『古事記』『日本書紀』によれば、顕宗天皇〔第23代〕と仁賢天皇〔第24代〕とは、同母の兄弟です。先に弟が即位して顕宗天皇となり、次に兄が即位して仁賢天皇となりました。ちなみに、武烈天皇〔第25代〕は仁賢天皇の御子です。
 石和田秀幸氏と堀大介氏とは、この兄弟こそが隅田八幡鏡の登場人物であると説きます〔注4〕〔注1〕〔注10〕。すなわち、「斯麻」が即位前の仁賢天皇であり、「日(曰)十大王」が顕宗天皇であるというのです。顕宗天皇の御代に、兄(後の仁賢天皇)が天皇である弟(顕宗天皇)に贈ったのが隅田八幡鏡であるというのです。

 しかし、この説には重大な問題があります。それは年代です。この説によれば、西暦503年8月は顕宗天皇の御代であることになります。ところが、『日本書紀』によれば、顕宗天皇は485年1月に即位し、487年4月に崩御されました。よって503年は顕宗天皇の御代ではありません。503年は武烈天皇五年であり、武烈天皇の御代です。仮に鏡の製作年代を干支一運遡って443年としても、これまた顕宗天皇の御代ではありません。
 以上から、「日(曰)十大王」=顕宗天皇という説は成立しません。よって、「斯麻」が即位前の仁賢天皇では有り得ません。

 〔C〕「弟」とは誰なのか?

 私は2025年10月1日に刊行した拙著において3世紀後半から6世紀前半までの倭国を考察しました〔注11〕。その第八章の〔注13〕にて隅田八幡鏡に言及し、次のように述べました。「隅田八幡神社人物画像鏡銘の『男弟王』とは武烈天皇のことであり、この銘文と継体天皇とは無関係であると見る。従って、継体天皇の大和入りに関する『日本書紀』の記述は真実であると考える」〔注11、頁641〕と。
 これは、継体天皇が即位前にして既に大和にいたという通説について、それが根拠とする隅田八幡鏡銘文の解釈が間違っていることを指摘することで、その通説を否定するために注記したものです。ここで私は、「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とを同一人物と捉え、それを武烈天皇としました。

 今回、このテーマをブログで取り上げるに当たって、改めて銘文を深く考えてみました。それでもやはり、「予(男)弟王」を即位前の継体天皇とする通説が誤りであるとの見解に変わりありません。しかし、「日(曰)十大王」と「予(男)弟王」とは別人であると考えるに至りました。「予(男)弟王」は、「日(曰)十大王」ではないということ、すなわち武烈天皇ではないということです。
 よって、「隅田八幡神社人物画像鏡銘の『男弟王』とは武烈天皇のことであり」という上記の拙文をここに撤回いたします。

 銘文の語り主である「斯麻」が百済の武寧王であるという基本線は不動です。問題はその「弟」〔番号12〕とは誰のことか、です。

 そこで目を向けるべきは武寧王の出自です。これについては過去の記事(2026/1/6)で触れました。それは次のような内容です。

 ・『日本書紀』雄略天皇五年四月条:
 百済の「蓋鹵王」(がいろおう)には弟がいました。それが、「軍君」(こにきし)です。別の表記は「崑支」(こにき)です。蓋鹵王はこの弟に「日本へ行って天皇に仕えよ」と命じました。それに対して軍君は、王妃を自分に降嫁して欲しいと要望しました。そこで蓋鹵王は、自らの子を妊娠した王妃を弟と結婚させ、「私の子を身籠もった妃はすでに臨月を迎えている。もし道中で出産したら船に乗せて帰国させよ」と指示しました。軍君とその妊婦は蓋鹵王に暇乞いをし、日本に向かいました。

 ・『紀』雄略五年六月条:
 蓋鹵王の子を身籠もった妊婦が「筑紫の各羅嶋」(つくしのかからのしま)にて出産しました。そこでこの子を「嶋君」と名付けました。軍君はこの子を船に乗せて百済に帰国させました。この子が後の百済の「武寧王」(ぶねいおう)です。

 ・『紀』雄略五年七月条:
 軍君が大和に入りました。軍君にはやがて五人の子が生まれました。

 ・『紀』雄略五年七月条・割注:
 『百済新撰』に「辛丑の年に、蓋鹵王は王弟の琨支君(こにききし)を遣わして、大倭に参向させて天皇に仕えさせ、兄王の好誼を修めた」とあります。

 上記のうち五年七月条・割注にある『百済新撰』とは、いわゆる百済三書のうちの一つです。百済三書とは、『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』の三つのことであり、いずれも百済人の手による史書です。その成立時期および成立経緯には諸説あり、定まっていません。百済三書は『日本書紀』が引く逸文だけが残り、他はすべて失われています。

 『日本書紀』の紀年では、雄略天皇五年は西暦461年に当たります。
 蓋鹵王の在任時期(西暦455年~475年)中の「辛丑の年」は西暦461年に当たります。つまり、『日本書紀』による引用によれば、西暦461年に蓋鹵王が王弟を大和朝廷に派遣したと『百済新撰』に記されていたわけです。
 つまり、『日本書紀』本文にしろ、『日本書紀』が引く『百済新撰』にしろ、一致して、461年に百済の蓋鹵王が弟を大和朝廷に派遣したと記しています。そして、この年に武寧王が生まれたわけです。1971年に大韓民国忠清南道公州市で発見された武寧王の墓誌は『日本書紀』による武寧王の誕生年の正しさを裏付けました。とともに、武寧王の生前の名が「斯麻王」であることが確かめられました。

 武寧王の諱が「斯麻王」であることは『日本書紀』の記事にあります。
 武烈天皇四年「是歳」条に、「嶋王立つ。これが武寧王である」とあります。これは武寧王の即位記事です。武烈天皇四年とは西暦502年です。これが武寧王の即位年です。それは王が40歳または41歳の時です。
 この記事には割注があり、『百済新撰』からの引用として、「武寧王を立てました。諱は斯麻王といいます」とあります。それに続けて、「琨支が倭に赴いた時に、筑紫嶋に到着して斯麻王を生みました。そこで筑紫嶋から送還されました。都に到着しないで嶋で産みました。それに因んで名付けたのです。今、各羅の海中に主嶋があります。王が産まれた嶋です。そこで、百済の人はその嶋を主嶋と名付けました」とあります。

 これ(武烈天皇四年「是歳」条の記事)は、雄略天皇五年六月条と同内容ですが、この記事の独自性は、武寧王の諱が斯麻王であり、その由来が筑紫の島にあることを教えていることです。つまり、斯麻王とは「嶋王」であり、その読みは「しま」王なのです。このことは、武寧王が「筑紫の各羅嶋」で産まれたという雄略天皇五年六月条の記事の真実性を補強します。

 上の一連の『日本書紀』記事における登場人物のうちで、隅田八幡鏡銘文を読み解く上でキーパーソンとなるのは、蓋鹵王の弟です。『紀』にてこの人物は、「軍君」、「崑支」、「琨支君」、「琨支」、「琨支王」と様々に表記されます。以下、混乱を避けるため、「琨支」の表記で統一します。

 さて、そこでです。斯麻王の父親は誰でしょうか?『紀』雄略五年四月条を読めば、それは蓋鹵王であることが分かります。これを生物学上の父と呼びます。ところが、別の考え方も有り得ます。というのも、斯麻王が「筑紫の各羅嶋」で生まれた時、出産した女性の夫は琨支でした。だから、斯麻王の父は琨支であるとも言えます。これを形式上の父と呼びます。
 そこで俄然注目すべきは、上記の『紀』雄略五年七月条の記事です。そこに、琨支にやがて五人の子が生まれたとあります。
 斯麻王にとって、この五人はどういう関係にあるでしょうか?斯麻王の父を蓋鹵王とするならば、従兄弟(いとこ)です。斯麻王の父を琨支とするならば、兄弟です。

 実を言うと、この五人はその後の雄略『紀』にて再登場します。

 ・『日本書紀』雄略天皇二十三年四月条:
 百済の「文斤王」(もんこんおう)が亡くなった。雄略天皇は、「昆支王」(こんきおう)の五人の子のうちの第二子である「末多王」(またおう)が幼年ながら聡明であるので、勅して内裏に召し出して、自らその頭を撫でて懇ろに訓戒を与えて、百済国の王にされた。そうして兵器を賜い、あわせて筑紫国の兵士五百人を遣わして、百済国まで護衛して送り届けられた。これが「東城王」(とうせいおう)となったのである。

 雄略天皇二十三年四月とは479年4月です。この時、百済の「文斤王」が亡くなりました。朝鮮の史書『三国史記』百済本紀によれば、百済王は第21代が蓋鹵王、第22代が文周王、第23代が三斤王、第24代が東城王、第25代が武寧王です。
 「文斤王」とは、おそらく『三国史記』の三斤王に当たると思われます。479年4月の時点では、斯麻王は17歳または18歳です。生後すぐに百済に戻されたことから、斯麻王は百済にいました。いよいよ出番が回ってきたかと思いきや、そうではなくて、王位を継いだのは、我が国にいた百済の王子です。決めたのが雄略天皇だからです。天皇は、琨支の五人のうちから、第二子である末多王を新たな百済王に選び、百済に送り込みました。それが東城王です。

 そこで考えるべきは、琨支の五人の子はいつ、どこで生まれたのか、です。琨支が百済から同行させた子なのか、それとも来日後に生んだ子なのか、です。
 それを明記する史料はありませんが、我々はそれを知ることができます。手がかりは、上記の雄略天皇二十三年四月条の中にあります。それは西暦479年であり、琨支が461年に来日してから18年後です。その時、五人のうちの第二子は幼年であり、雄略天皇自らがその頭を撫でました。だとすると、この子が18歳以上であったはずはありません。つまり、五人のうちの第二子以降は、461年以後に我が国で生まれた子なのです。そして、第一子も同様であったと見て間違いありません。つまり、件の五人の子は、その母が百済の女性なのか我が国の女性なのかは分かりませんが、いずれにせよ、琨支が来日後に我が国で生んだ子なのです。だとすると、その五人は全員、斯麻王より年下であることになります。
 ちなみに、末多王が斯麻王より年下であることは、後述する『紀』武烈四年「是歳」条・割注でも確かめられます。そこに、斯麻王が末多王の「異母兄」とあります。

 そこで改めて斯麻王とこの五人の関係について考えてみましょう。

 ・『日本書紀』武烈天皇四年「是歳」条:
 百済の「末多王」は道理に背き、人民に対して暴虐な行いをしました。国民は遂に末多王を排除して、「嶋王」を立てました。これが「武寧王」です。

 武烈天皇四年とは502年です。この年、我が国から百済に渡った「末多王」すなわち百済の東城王は、素行不良を理由に百済人により殺害されました。百済王となって23年後のことです。そして百済人が新たな王に擁立したのが斯麻王すなわち武寧王です。この時、斯麻王は40歳または41歳です。

 さて、ここで決定的に重要な記事に出会います。それは、この武烈四年「是歳」条に付く割注です。

・『紀』武烈天皇四年「是歳」条・割注:
 『百済新撰』に次の記事があります。「末多王は道理に背き、人民に対して暴虐な行いをしました。人民はみな末多王を排除し、武寧王を立てました。諱は斯麻王といいます。琨支王子の子です。そして末多王の異母兄です。琨支が倭に赴いた時に、筑紫嶋に到着して斯麻王を生みました。そこで筑紫嶋から送還されました。都に到着しないで嶋で産みました。それに因んで名付けたのです。今、各羅の海中に主嶋があります。王が産まれた嶋です。そこで、百済の人はその嶋を主嶋と名付けました」と。
 今考えるに、嶋王は蓋鹵王の子です。一方、末多王は琨支王の子です。そのため、これを異母兄というのは未詳です。

 ここに、隅田八幡鏡銘文の最大の謎である「弟」〔番号12〕への答えがあります。
 『日本書紀』の編者の認識では、斯麻王は蓋鹵王の子であり、末多王は琨支の子です。従って、この二人は従兄弟であって、兄弟ではありません。ところが、その編者の手元にある『百済新撰』には不可解な記述がありました。そこには、斯麻王が琨支の子であり、よって末多王の兄(異母兄)であると記されていたのです。これは編者の認識とは異なります。そのため編者はその理由が分からないと率直に述べるのです。

 この記事から次のことが分かります。我が国では、当然の如く、生物学上の父を斯麻王の父と考えていました。ところが、『百済新撰』では形式上の父を斯麻王の父としていたのです。『百済新撰』の記述は、百済の公式見解です。つまり、当時の百済王室および百済王・斯麻は、少なくとも我が国に対しては、斯麻王の父は琨支であると説明していたのです。
 この百済の認識によれば、琨支が来日後に生んだ五人のうちの男性は、斯麻王の弟になります

 〔D〕なぜ「王」なのか?

 斯麻王が件の五人を己の弟としていることは分かりました。次に検討すべきは、彼ら五人が「王」なのかどうかです。
 この五人のうちで百済王に就いたのは、第二子である末多王だけです。それでは他の四人は王ではなかったのでしょうか?
 我が国の史料を見ると、百済の王族は百済王でなくても「王」と称されていたことが分かります。具体的に見てみましょう。

 上記の『日本書紀』雄略天皇二十三年四月条に「昆支王」とあります。
 『新撰姓氏録』河内国諸蕃に「飛鳥戸造。百済国主、比有王の男、琨伎王より出づ」(飛鳥戸造。百済国主である比有王の子、琨伎王より出た)とあります。
 琨支は百済の蓋鹵王の弟ではあっても、百済王ではありません。ところが、これらの記事には「王」とあります。

 時代は下りますが、『日本書紀』天智天皇三年三月条に「百済王善光王」とあります。
 『続日本紀』天平神護二年六月二十八日条に「禅広王」とあります。
 善光(禅広)は、百済の義慈王の子であり、舒明天皇三年三月に人質として我が国に渡来しました。その後百済に帰国することはありませんでした。よって百済王に就いていません。ところが、これらの記事には「王」とあります。
 なお、上記の「百済王善光王」のうちの「百済王」とは、百済の王という文字通りの意味ではありません。ここでいう「百済王」とは、大和朝廷から賜与された氏の名です。『新撰姓氏録』右京諸蕃下に「百済王。百済の国の義慈王より出づ」とあります。『続日本紀』天平神護二年六月二十八日条に、禅広王の曾孫である百済王敬福の薨伝があり、そこに「禅広は因て国に帰らず。藤原朝廷、号を賜ひて百済王と曰ひ、卒して正広参を贈る」とあります。これによれば、藤原朝廷すなわち持統朝にて、禅広王が「百済王」という名を賜りました。つまり、『紀』天智三年三月条のいう「百済王善光王」は、百済の王でもなければ、天智三年三月時点で百済王という名を持ってもいませんでした。ここでいう「百済王」とは『日本書紀』による追記とみられています。

 『日本書紀』雄略天皇二十三年四月条を改めて見てみましょう。そこに、「昆支王」の五人の子のうちの第二子である「末多王」が幼年ながら聡明であった、とあります。この末多王が百済に戻って東城王になるわけですが、我が国にいた時に既に「王」と呼ばれていたことがこの記事から窺えます。つまり、百済王になる前に既に「末多王」だった、ということです。であるならば、他の四人についても、男性ならば「王」と称されていたことになります。

 先述したように、百済の見解に従えば、琨支が来日後に生んだ五人の子は、男性ならば、百済王・斯麻の弟です。そして、ここで見たように、彼らは王です。つまり、斯麻王にとって、彼らは「私の弟王」なのです。

 以上から、隅田八幡鏡銘文の「予(男)弟王」〔番号11~13〕とは、琨支が来日後に生んだ男子であると結論します。
 ただし、第二子である末多王は除かれます。なぜなら、この鏡が百済で製作された503年8月の時点では既に末多王は亡くなっているからです(502年に百済で殺されているからです)
 この私説では、琨支が来日後に生んだ男子は、武烈天皇の御世において大和国の忍坂宮で暮らしていたことになります。

 〔E〕昆支王の後裔である飛鳥戸氏

 『日本三代実録』貞観五年(863)八月十七日条に、「飛鳥戸造豊宗」らについて「其の先は百済国の人、琨伎より出でしなり」とあります。
 ここに「飛鳥戸造」という氏の名の人物が登場します。この記事によれば、この人物は百済人である琨支の後裔です。
 ということは、琨支が来日後に生んだ五人には後裔があり、それが飛鳥戸造であることになります。

 『新撰姓氏録』河内国諸蕃に「飛鳥戸造。百済国主、比有王の男、琨伎王より出づ」(飛鳥戸造。百済国主である比有王の子、琨伎王より出た)とあります。ここでは、これを「飛鳥戸造A」と呼びます。
 これに続いて、「飛鳥戸造。百済国の末多王の後なり」(飛鳥戸造。百済国の末多王の後裔である)とあります。ここでは、これを「飛鳥戸造B」と呼びます。

 なぜ二つの飛鳥戸造が続けて記されているのでしょうか?それは「飛鳥戸氏に二派が存在していたことがわかる」〔注12〕と解釈されます。
 ここで問題となるのが飛鳥戸造Bです。なぜならこの一派は末多王の後裔とされるからです。先述したように、末多王は幼年期に雄略天皇によって百済に送り込まれました。だから、我が国にいる時に子を生んだ可能性は低いはずですが、実際には子がいたのでしょうか?あるいは、百済王に就いた後に生んだ子が我が国に人質として送られたのでしょうか?飛鳥戸造Bが本当に末多王の後裔ならば、この二つのうちのどちらかになりますが、真相は判然としません。

 それに対して飛鳥戸造Aは、我が国に残った四人のうちの誰かの子孫であると考えられます。つまり、「予(男)弟王」には後裔があり、それが飛鳥戸造Aなのです。

 『延喜式』神名帳の河内国安宿郡に「飛鳥戸神社」があります。なんと名神大社(みょうじんたいしゃ)です。河内国の式内社のうちで名神大社は四つの社しかなく、飛鳥戸神社はそのうちの一つです。
 これが、現在の大阪府羽曳野市飛鳥の地に鎮座する飛鳥戸神社です〔アイキャッチ画像〕。この神社の祭神が百済の琨支です〔注12〕〔写真1〕。古代において、この神社一帯が飛鳥戸氏の拠点であり、彼らが奉斎した社がこの神社なのです。それが名神大社であることは、古代における彼らがいかに繁栄していたかの表れです。

〔写真1〕飛鳥戸神社の案内板

〔写真1〕

 ちなみに、『日本書紀』雄略天皇九年七月条に河内国「飛鳥戸郡」とあり、『和名類聚抄』河内国の「安宿」に「安須加倍」の訓があります。これが上記の河内国安宿郡に当たります。

 考古学的には、羽曳野市飛鳥およびその周辺に集落が確認され始めるのは六世紀後半とされます〔柏原市立歴史資料館ホームページの記事による〕。六世紀後半から七世紀にかけて飛鳥千塚古墳群が造営されました。これらが飛鳥戸氏に関わる遺跡および墳墓であると見られています〔同ホームページの記事による〕
 だとすると、飛鳥戸氏がこの地に移り住んだ時期が六世紀後半であることになります。
 ここで先述の私説に戻ると、琨支の後裔一族は六世紀前半までは現在の奈良県桜井市忍阪(忍坂宮の所在地)で暮らしていたが、六世紀後半に現在の大阪府羽曳野市飛鳥の地を朝廷から与えられ、そこに移り住んだと推定されます。これが飛鳥戸氏の起こりです。

 飛鳥戸神社は戦国時代には衰え、明治時代には近隣の神社に合祀されました。昭和になって現在地に戻って再建され、今に至っているとのことです〔注12〕〔写真2〕

〔写真2〕飛鳥戸神社

〔写真2〕

 飛鳥戸神社は近鉄南大阪線の上ノ太子駅から北に徒歩約10分の地に鎮座します。上ノ太子という駅名から分かるように、聖徳太子ゆかりの地です〔写真3〕

〔写真3〕上ノ太子駅ロータリー内の聖徳太子像

〔写真3〕

隅田八幡鏡銘文についての上記の解釈は、私の知る限り、新説です。この私説が多くの方々の耳目に届くことを期待します。

 〔F〕なぜ「弟王」が言及されるのか?

 ここで改めて隅田八幡鏡銘文に戻りましょう。
 (原文)
 癸未年八月日(曰)十大王年予(男)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟中費直濊人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟
 (解釈文)
 癸未年八月、今上陛下の御世にて私の弟である王が忍坂宮にいる時にあたって、私すなわち斯麻は陛下に末長くお仕えすることを念願するものです。そこで、辟中の人である費直ならびに濊人である今州利という二人の重臣を陛下のもとに派遣しました。二百旱の極上の銅でこの鏡を作りましたので、ここに献上いたします。

 この銘文をよくよく読むと、「私の弟である王が忍坂宮にいる時にあたって」〔予(男)弟王在意柴沙加宮時〕という文言が余計であることに気づきます。寧ろこれが無い方が文章として引き締まります。
 百済の武寧王は何故この余分なフレーズを入れたのでしょうか?
 私は、実はこれこそが武寧王がこの銘文で最も強調したかったことだと考えます。本稿が長くなったので、これについての考察は次の投稿に回すこととします。

 つづく

 注:

〔注1〕堀大介 2024 「隅田八幡神社人物画像鏡銘文の新解釈」『鷹陵史学』第50号:鷹陵史学会

〔注2〕岡村秀典 2011「東アジアのなかの古墳文化 東アジア情勢と古墳文化」広瀬和雄・和田晴吾(編)『講座日本の考古学7 古墳時代(上)』青木書店

〔注3〕福永伸哉 2011「継体大王と今城塚古墳をめぐって 考古学からみた継体政権」高槻市立今城塚古代歴史館(編)『三島と古代淀川水運Ⅱ―今城塚古墳の時代―』平成23年秋期特別展:展示図録

〔注4〕石和田秀幸 2001「上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘 ―『男弟王』と『斯麻』は誰か―藤井俊博・田中励儀(編)『同志社国文学』第54号:同志社大学国文学会

〔注5〕堀大介 2024「隅田八幡神社人物画像鏡銘文の再検討」『佛教大学 歴史学部論集』第14号:佛教大学歴史学部

〔注6〕沖森卓也 2024『日本漢字全史』(ちくま新書)筑摩書房

〔注7〕『古事記』『日本書紀』によれば、継体天皇〔第26代〕の先代は武烈天皇〔第25代〕です。
 ところが、不可解にも、「男弟王」=「男大迹王」=「即位前の継体天皇」という通説に立つ研究者は武烈天皇の存在を無視します。
 大橋信弥氏や古市晃氏によると、「日(曰)十大王」は仁賢天皇〔第24代〕であるのだそうです〔注8、頁168〕〔注9、頁77~78〕
 恣意的に特定の天皇を架空の人物にしてしまうのは古代史学者の得意技です。

〔注8〕大橋信弥 2020『継体天皇と即位の謎<新装版>』吉川弘文館(旧版は2007年に発刊)

〔注9〕古市晃 2021『倭国 古代国家への道』(講談社現代新書)講談社

〔注10〕堀大介 2025「隅田八幡神社人物画像鏡銘文の新解釈と諸問題」佛教大学研究推進機構会議・歴史学部論集編集会議(編)『歴史学部論集』第15号:佛教大学

〔注11〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房

〔注12〕古田実 2000「飛鳥戸神社」谷川健一(編)『日本の神々 神社と聖地 第三巻 摂津・河内・和泉・淡路(新装復刊)』白水社

 2026年4月20日 投稿