私は2025年10月1日に『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』と題する書籍を上梓しました〔注1〕。それは、『日本書紀』などの史料をもとに、三世紀後半から六世紀前半にかけての我が国の歴史を論じたものです。そこにおいて、今日の定説の数々を厳しく批判しました。
その後の2026年3月26日に、神野志隆光氏らによる『日本書紀』の現代語訳・注釈書〔アイキャッチ画像(AIによる加工画像)〕が講談社から出版されました〔注2〕。これは、仲哀天皇〔第14代〕から崇峻天皇〔第32代〕までの御代、すなわち四世紀後半から592年までの時代を対象とするものです。この新刊書は、上・中・下の三巻のうちの中巻です〔以下、「講談社『紀』中巻」と呼ぶ〕。上巻は2021年3月23日に刊行されています。次の中巻の完成が長らく待たれていましたが、五年ぶりに漸く刊行されたわけです。今後は下巻の刊行が待たれます。
拙著と講談社『紀』中巻とは、目指す方向、用いる方法、論じる内容のすべてにおいて、全く異なるものです。前者は『日本書紀』を始めとする史料を基に歴史を描くものです。後者は『日本書紀』というテキスト自体に解釈を施すものです。とはいえ、扱う時代が部分的とはいえ重なります。どちらも、世に言う「空白の四世紀」を含む、大和政権が我が国を統一していく時期を対象とします。それはまさに天皇を戴く我が国の揺籃期です〔注3〕。
かくも重要な時代の歴史についての私説を昨年に公にしたこともあり、斯界の権威によるテキストが出たことを知るや早速それを入手しました。現時点ですべてを読了したわけではありません。私が論点と思う箇所を選んで、そこを興味を持って読んだところです。本稿では、そのうち一点に絞って私見を述べます。
<論点> 「卓淳」の比定地
『日本書紀』の神功皇后段に、朝鮮半島の地名として「卓淳」(とくじゅん)が現れます。これは当時の倭国にとって重要な場所でした。367年に倭国は百済と国交を開きましたが、そのきっかけとなったのが「卓淳国」です。369年に倭国は慶尚道(朝鮮半島南東部)で軍事活動を行いましたが、その際に全軍の集結地となったのが「卓淳」です。
それでは、「卓淳」とはどこでしょうか?
かつての定説では、卓淳は、内陸に位置する、慶尚北道の大邱(テグ)〔大韓民国大邱広域市〕に比定されていました〔注4、頁47〕。
ところが、朝鮮古代史家の田中俊明氏は、1992年の著書にて「卓淳は海岸にあったとみるべきである」として、卓淳を「現在の昌原市街というより、昌原から馬山(マサン)にかけての馬山湾に面した地方であり、いちおう昌原地方としておく」と説きました〔注5、頁233~235〕。昌原と馬山とは大韓民国慶尚南道昌原(チャンウオン)市内の地であり、朝鮮半島の南岸部に位置します。
〔図1〕朝鮮半島(南部)と対馬 【文献〔注1〕の図を転載】

田中氏は戦後における朝鮮古代史学の権威とされるため、その影響は絶大でした。この田中説を採る史学者が続々と現れたのです。具体的には、2001年に熊谷公男氏〔注6、頁35〕、2006年に森公章氏〔注7、頁24~25〕、2017年に倉本一宏氏〔注8、頁24〕などの錚々たる史学者です。
田中氏は2023年の著作の中で次のように述べます。曰く、「卓淳の位置は実は明確ではないのであるが、馬山湾に面したどこかで、西側の昌原市鎮東面県洞あたりが中心であった可能性が高い」〔注9、頁71〕と。三十年経てもなお田中氏が卓淳=昌原・馬山説を固守することに変わりはないようです。ただし、1992年の言説よりもトーンダウンしている印象は否めません。
新進気鋭の朝鮮考古学者である高田貫太氏は、2025年の著作の中で、考古学の立場から田中説を支持します。曰く、「行岩湾を出て、航路を沿岸に沿って西北に取る。七キロメートルほど進むと、次の目的地、馬山湾の湾口にいたる。北へ細長く入りこんだ内湾で、その奥の東には昌原盆地(昌原市の中心市街地)がひろがっている。第一章2節で紹介した、百済と倭の修好を仲介した卓淳国の有力な候補地だ。その理由を解説しよう。昌原盆地は、馬山湾の湾岸をのぞいて、まわりを急峻な丘陵に囲まれている。けれども、陸上交通の要衝である。(中略)。そして倭の人びともこの地域をおとずれていた。たとえば、盆地の南には城山貝塚(昌原市城山区外洞)があり、今は史跡として整備されている。ここで四世紀前半ころの土師器系土器が出土した。山陰地域でよくみられる二重口縁壺とよばれる土器だった。鍛冶炉もみつかっているので、鉄を求めた倭人がいたのだろう。交通の要衝という地勢や、墓地や貝塚からうかがえる集団の動向を考えあわせると、南の行岩湾もふくめた昌原盆地の一帯に、金官加耶を構成した有力な国のひとつ、卓淳国が位置していた可能性は高い」〔注10、頁235~236〕と。
ただし、すべての学者が卓淳=昌原・馬山説を採っているわけではありません。例えば、古代史家の水谷千秋氏は2025年の著書にて「卓淳」は大邱(テグ)とします〔注11、頁31〕。古代文学者の寺田惠子氏は2025年の著書にて、「卓淳は、現在の慶尚北道大邱の古名で、この国は新羅に近いところにありました」〔注12、頁222〕と述べます。
このように、かつての定説である卓淳=大邱説に立つ学者は今なおいます。ただし、私が知る限り、彼らはなぜ卓淳=昌原・馬山説が誤りであるのかについて語っていません。
卓淳の場所がどこであるかは、決して枝葉末節の問題ではありません。〔図1〕を見れば分かるように、大邱は半島の内陸に位置します。一方、昌原・馬山は半島の南岸部に位置します。よって、卓淳がどちらであるかとは、当時の倭国の朝鮮半島への影響が内陸にまで及んでいたのか、はたまた南岸部に留まっていたのかという問題なのです。
試みに、AIに、“日本書紀の「卓淳」は今のどこですか?”と尋ねてみました(2026/7/3)。
ChatGPTによれば、「現在の研究では、『卓淳=現在の韓国・慶尚南道昌原市一帯(あるいはその周辺)』という理解が最も一般的ですが、学術的には『比定地は未確定』とされています」とのことです。一方、大邱説には一切言及ありません。
Google Geminiによれば、慶尚南道昌原(チャンウオン)市説と慶尚北道大邱(テグ)広域市説との二つがあるが、「現在の古代史・考古学のトレンドとしては、海に近い『慶尚南道昌原市』の周辺とする見方が有力です」とのことです。
かくの如く、AIは卓淳=昌原・馬山説に軍配を上げています。
私は、2025年の拙著において、卓淳=慶尚北道の大邱(大韓民国大邱広域市)説を支持しました。その上で、卓淳=昌原・馬山はあり得ないと主張しました〔注1、頁370~373〕。それは、「卓淳」の記事すなわち『日本書紀』の当該記事をきちんと読めば明白です。①卓淳国は内陸に位置すること、②百済が倭国への接近を初めて試みた364年の時点で卓淳国は倭と正式に通交した経験がなかったこと。この二点がそこから容易に読み取れます。つまり、卓淳国の所在地は昌原・馬山ではないのです。
上記のように364年に百済は倭国へ使者を送りました。ところが、その途中の卓淳国に至ったものの、その先の道の見通しが立たず、百済に引き返しました。その際、「百済の使者は陸路で卓淳国に辿り着いた」〔注1、頁371〕のです。ちなみに、倭国と百済との国交が開いたのは、その三年後の367年のことです。
先述したように、朝鮮考古学者の高田氏は、四世紀前半の昌原・馬山が倭と交流していたことを理由にして昌原・馬山が卓淳に当たるとします。しかし、それは話が逆さまです。昌原・馬山は半島の南岸部に位置し、太古の昔から倭との関わりが深いからこそ、それは『日本書紀』のいう「卓淳」ではあり得ないのです〔注1、頁372〕。
講談社『紀』中巻もまた卓淳=大邱説を採ります〔注2、頁694~697〕。曰く、「したがって、神功摂政四十六年条の語る百済からの使者は、半島西部から南部を通る海路によるものではなく、都の置かれた漢城から漢江水系を遡り、洛東江水系に入る内陸の経路で卓淳まで至ったものと解される。洛東江沿いの伽耶諸国の中で北部に位置する卓淳は、対百済関係の玄関先として相応しい。また、神功摂政四十九年三月条で、卓淳に軍勢を集めてそこから新羅を討ったというのも、洛東江から東に新羅の首都金城方面へ向かう支流の分岐点に卓淳が位置し、新羅攻略の拠点となり得た(それゆえ反対に新羅の勢力下に組み込まれるのも早かった)ものと見るべきではないか」〔注2、頁697〕と。
ちなみに、引用文中の「神功摂政四十六年条の語る百済からの使者」とは、先述した364年の百済の使者のことです。「神功摂政四十九年三月条で、卓淳に軍勢を集めてそこから新羅を討った」とは、先述した369年の倭国による慶尚道(朝鮮半島南東部)での軍事行動のことです。
講談社『紀』中巻のこの説明は全くその通りです。〔図1〕および〔図2〕を見てください。
〔図2〕日本列島と朝鮮半島 【文献〔注1〕の図を転載】

当時の百済の首都「漢城」は、現在の大韓民国の首都ソウルに当たります。
卓淳=昌原・馬山説は、漢城から卓淳までの道程すなわちソウルから昌原・馬山までの道程として海路を想定します。すなわち、ソウルを発った使者は、船に乗って、朝鮮半島の西岸を南に進み、続いて南岸を東に進んで昌原・馬山に至ったというわけです。それが「半島西部から南部を通る海路」です。
それに対して、卓淳=大邱説に立つ私や講談社『紀』中巻は陸路を想定します。朝鮮半島南部は、その真ん中を小白(ソベク)山脈が南北に走ることで、西の平野部と東の平野部とに分かれます。そこで、西のソウルを発った使者は、小白山脈を超えて東の大邱に至ったわけです。
それが、私の言う「百済の使者は陸路で卓淳国に辿り着いた」〔注1、頁371〕であり、講談社『紀』中巻が言う「都の置かれた漢城から漢江水系を遡り、洛東江水系に入る内陸の経路で卓淳まで至った」〔注2、頁697〕という記述です。
私と講談社『紀』中巻とは、卓淳が昌原・馬山ではないとする点で一致します。とはいえ、そう考える理由を異にします。
講談社『紀』中巻は卓淳=昌原・馬山説の問題点を三点挙げています。ここでは、その概略とそれへの私見を述べます。
第一に、「久斯牟羅」(くしむら)という地のことです。これは「昌原の地に比定」〔注2、頁696〕されるが、『日本書紀』がそれを「卓淳と関連づけて述べることがない」〔注2、頁696〕のは不可解である、というのです。私は、このことを卓淳=昌原・馬山説にとっての不利な材料とするのは、根拠として弱いと感じます。
第二に、「久礼牟羅」(くれむら)という地のことです。その所在地論を軸にして、卓淳=昌原・馬山説に無理があることを指摘します。しかし、私見では、それは間違った認識に基づくものであり、よってその指摘は誤りです。
ちなみに、「久礼牟羅」はどこにあるのかは、どうでもよい問題ではありません。これは、任那に関する重大事に関わることです。これについては拙著で触れました〔注1、頁232~233〕。別の機会に「久礼牟羅」について更に掘り下げたいと思っています。
第三に、「新羅安羅両国之境」にある「大江水」についてです。ここに卓淳=昌原・馬山説の弱点を見るのですが、私見では、その説明は論理的に隙だらけです。
結局、講談社『紀』中巻が卓淳=昌原・馬山説を誤りとする論拠は、説得力に乏しいか、ないしはそれ自体が誤りです。私の見るところ、それは有効な批判になっていません。
私は卓淳=昌原・馬山説が成り立たないことを論述しました〔注1、頁370~373〕。そこで挙げた論拠は先述の通りであり、それこそが的を射るものと考えます。詳しくは拙著をお読みください。
注:
〔注1〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注2〕神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝(訳・校注) 2026『新釈全訳 日本書紀 中巻(巻第八~巻第二十一)』講談社
〔注3〕私説では、西暦100年頃から260年代末までの我が国は吉備を中心とする国家です。『後漢書』倭伝や『魏志』倭人伝のいう「倭国」とはこのことです。今の国体はそれに替わって成立しました。詳しくは、若井正一(著)『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』(一粒書房 2019年)をお読みください。
〔注4〕末松保和 1956『任那興亡史』吉川弘文館〔初版:大八洲出版 1949〕
〔注5〕田中俊明 1992『大加耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った』吉川弘文館
〔注6〕熊谷公男 2001『日本の歴史 第3巻 大王から天皇へ』講談社
〔注7〕森公章 2006『戦争の日本史1 東アジアの動乱と倭国』吉川弘文館
〔注8〕倉本一宏 2017『戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)講談社
〔注9〕田中俊明 2023「加耶と倭」佐藤信(編)『古代史講義 【海外交流篇】』(ちくま新書)筑摩書房
〔注10〕高田貫太 2025『渡来人とは誰か 海を行き交う考古学』(ちくま新書)筑摩書房
〔注11〕水谷千秋 2025『なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか 古代日本と韓国の謎をさぐる』(宝島社新書)宝島社
〔注12〕寺田惠子 2025『日本書紀 全現代語訳+解説<三>ひろがるヤマト』グッドブックス
2026年7月5日 投稿