『新撰姓氏録』は平安時代に撰ばれた氏族の系譜録です。これは、各氏族が朝廷に提出した文書と古記とを基に、中央政府が編纂した公式文書です。それによれば、秦氏は秦の始皇帝の末裔です。
『日本書紀』応神天皇十四年「是歳」条によれば、秦氏の祖である「弓月君」は百済から渡来しました。百済は朝鮮半島にあってその西部に位置します。
よって、秦の始皇帝の子孫は中国大陸の混乱を避けて朝鮮半島西部に逃げ延び、それから長年月の後に日本列島に渡来しました。これが、我が国の公式記録から読み取れる歴史です。
ところが、この話を真に受ける古代史専門家はいません。彼らによると、秦氏の故地は新羅なのだそうです。新羅は朝鮮半島にあってその東部に位置します。
今日、この説の影響は絶大です。
試しに、秦氏ゆかりの社の代表格である松尾大社(まつのおたいしゃ)〔京都市西京区嵐山宮町〕の公式ホームページ(https://www.matsunoo.or.jp)を見てみましょう。そこに、「五世紀の頃、秦の始皇帝の子孫と称する(近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている)秦(はた)氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住すると、その首長は松尾山の神を一族の総氏神として仰ぎつつ、新しい文化をもってこの地方の開拓に従事したと伝えられております」〔「松尾大社について」の「歴史・由緒」の項〕とあります。
秦氏が「近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている」ことが、秦氏に深く関わる神社の公式見解で言及されているのです。今やこの学説がいかに広く深く浸透しているかが、この一事を以てしても分かります。
秦氏のルーツを新羅の豪族とするのは、秦氏の遠祖を秦の始皇帝とする『新撰姓氏録』と異なります。のみならず、それは、秦氏の祖が百済から渡来したとする『日本書紀』とも異なります。
この二つの公式文書の記事を斥ける以上、「秦氏の故地=新羅」説には余程確たる論拠があるかに思われるでしょう。ところが、そうではないのです。私見では、その根拠たるや全くのこじつけです。有り体に言えばそれはトンデモ説です。ところが、それが学界で大手を振っているのが現状です。そこに、敗戦後の我が国の迷妄の深さを見ないわけにはいきません。
このたび、『秦の始皇帝の末裔である秦氏が我が国の京都を開発した』〔一粒書房 2026年7月19日発行〕を上梓しました。amazonにて販売しています(定価:700円+税)。
そこにおいて、秦帝国末期の動乱の渦中にあって、中国大陸から朝鮮半島に亡命することが可能であった始皇帝の子孫がいたことを論証しました。そして、その末裔が何故我が国に渡来したかを説明しました。『新撰姓氏録』ならびに『日本書紀』の記事は史実なのです。
拙著は、信頼できる史料ならびに考古学に依ることで、秦氏がもたらした養蚕や土木技術が古代の我が国の発展に如何に寄与したかを描くものです。
以下に、拙著の冒頭の一節を紹介します。
京都の広隆寺(こうりゅうじ)〔京都市右京区太秦蜂岡町〕〔アイキャッチ画像〕は、仏像好きならば誰もが知る国宝・弥勒菩薩半跏像(みろくぼさつはんかぞう)〔宝冠弥勒〕を安置する、山城国きっての古刹である。『日本書紀』によれば、推古天皇十一年(六〇三)十一月、聖徳太子が秦造河勝(はだのみやつこかはかつ)に尊い仏像を授けられた。その礼拝のために建立されたのが広隆寺である。『上宮聖徳法王帝説』によれば、これは聖徳太子が起こされた七つの寺の一つである。その後、この名刹は秦氏の氏寺となった。
今の広隆寺には、その本堂の斜め手前に寺の由緒を記す石碑が立つ。その銘文の冒頭に「廣隆寺は推古天皇十一年(六〇三)聖徳太子が□□□□□□□秦河勝に尊像を授けて創建せられた山城国最古の寺で太子建立日本七大寺の一つである」とある〔写真〕。不可解なことに、この碑文では「聖徳太子が」と「秦河勝に」との間の七文字が跡形もなく消えている。何らかの事情によりその文字列が人為的に削り取られ、それを繕うために、出来た窪みに縦長の薄い板石が嵌め込まれたことが容易に見て取れる。その事情とは何であろうか?実を言うと、皆の目を引くこの作為にこそ、我々の時代の実相が見事に映し出されている。このことは本書の最後で触れる。
〔写真〕広隆寺の石碑

2026年7月28日 投稿