物部氏(もののべし)といえば、古代史を学ぶ者ならば誰もが知る畿内の大豪族です。そのうちで有名な人物を挙げるとすれば、その筆頭は、高校教科書に載る物部守屋(もののべのもりや)です。587年、蘇我馬子(そがのうまこ)との争いに敗れて滅ぼされました。これにより蘇我氏の専横が始まりました。物部氏の拠点の一つが、河内国の渋川郡(しぶかわのこおり)です。現在の大阪府のうちの、大阪市生野区(一部)、八尾市(一部)、東大阪市(一部)などに当たります。物部守屋の終焉の地です。
 時代を遡れば、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)がいます。528年に筑紫国造・磐井の乱を鎮圧するという特大級の功績を挙げました。
 更に時代を遡れば、垂仁朝すなわち三世紀第4四半期に活躍した物部十千根(もののべのとほちね)がいます。『先代旧事本紀』第五巻・天孫本紀によれば、垂仁天皇〔第11代〕の御代に「物部連公」の姓を賜りました。これが物部氏の起こりです。麁鹿火にしろ、守屋にしろ、十千根の子孫です。十千根こそが物部氏の公式の元祖です。物部十千根の後裔一族をここでは狭義の物部氏とします。

 『古事記』(『記』)、『日本書紀』(『紀』)、『先代旧事本紀』(『旧事紀』)によれば、物部氏の祖先神は「ニギハヤヒのミコト」です。その表記は、『記』では「邇芸速日命」、『紀』では「饒速日命」、『旧事紀』では「饒速日尊」です。
 ニギハヤヒの御子が「ウマシマヂのミコト」です。その表記は、『記』では「宇麻志麻遅命」、『紀』では「可美真手命」、『旧事紀』では「宇摩志麻治命」または「味間見命」または「可美真手命」です。

 ウマシマヂに始まり物部十千根を経る一族をここでは広義の物部氏と呼びます。つまり、広義の物部氏はウマシマヂから十千根に至るまでの父系一族も含みます。本稿で単に物部氏という場合、それは広義の物部氏を指します。

 <第一節> 大和の石上神宮

 物部氏ゆかりの神社といえば、誰もの脳裏に真っ先に浮かぶのが大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)〔奈良県天理市布留町〕です〔写真1〕。『延喜式』神名帳の大和国山辺郡の名神大社「石上坐布都御魂神社」に当たります。「石上坐布都御魂」は「いそのかみにますふつのみたま」と読みます〔注1〕

〔写真1〕石上神宮

〔写真1〕石上神宮

 石上神宮が発行する冊子に、「当神宮は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち」との説明があります〔注2〕〔石上神宮公式ホームページ〕。物部氏が果たして「武門の棟梁」なのかには議論の余地がありますが、ここではそれは脇に置きましょう。ここで気になるのは、石上神宮が「物部氏の総氏神」という記述です。
 石上神宮の主たる祭神は、「布都御魂大神」(ふつのみたまのおおかみ)、「布留御魂大神」(ふるのみたまのおおかみ)、「布都斯魂大神」(ふつしみたまのおおかみ)です〔注2〕〔石上神宮公式ホームページ〕〔注3〕
 これらの神々は物部氏の祖先神ではありません。古代史家の平林章仁氏が「石上神宮が物部氏の氏神社であったとは言えない」〔注4、頁228〕と主張する所以です。

 それでは、いかなる経緯で物部氏は石上神宮に関わるようになったのでしょうか?『日本書紀』および『先代旧事本紀』にその端緒が記されています。

 『旧事紀』天孫本紀に「磯城瑞垣宮で天下を治められた天皇の御世に、大臣に詔して神の幣を頒布させた。天社、国社を定めて、多人数の物部が作った祭祀用品を用いて、八十万の神々を祀った時に、建布都大神の社を大和国山辺郡の石上邑に遷した。その際に、天祖が饒速日尊に授けて、天から受け継いだ天璽瑞寶を共に収蔵して、名付けて石上大神と言った。それを以て、国家のため、また氏神のために崇め祀って鎮守とした。こうした経緯により皇后と大臣とが石上神宮を奉斎申し上げた。」とあります。

 これには解説が要ります。「磯城瑞垣宮で天下を治められた天皇」とは崇神天皇〔第10代〕のことです。「大臣」とは、「イカガシコヲのミコト」のことです。この人物は、『記』では「伊迦賀色許男命」、『紀』では「伊香色雄」、『旧事紀』では「伊香色雄命」と表記されます。『旧事紀』によれば、イカガシコヲは先述した物部十千根の父です。『紀』崇神天皇七年八月条にて「物部連が祖伊香色雄」と記される所以です。「皇后」とは「イカガシコメのミコト」のことです。この女性は、『記』では「伊迦賀色許売命」、『紀』および『旧事紀』では「伊香色謎命」と表記されます。『旧事紀』によれば、イカガシコメはイカガシコヲの姉です。つまり、「皇后と大臣とが石上神宮を奉斎申し上げた」とあるのは、イカガシコメとイカガシコヲとの姉弟が石上神宮をお祀りした、ということです。
 この記事によれば、崇神天皇の御代に、イカガシコヲが「建布都大神の社を大和国山辺郡の石上邑に遷し」ました。これが石上神宮の創建です。2019年の拙著で述べた通り、イカガシコヲは三世紀前半に活躍し、250年頃に世を去った人物です〔注5、下巻・頁303〕。ちなみに、私見では、イカガシコヲはホケノ山古墳〔奈良県桜井市箸中〕の被葬者です〔注5、下巻・頁303〕。崇神天皇の即位は240年頃です〔注5、上巻・頁314〕。よって、石上神宮の創建は240年代であると推定します。

 それでは、「石上邑」に遷る前の「建布都大神の社」とは何でしょうか?
 神武天皇が東征の途上の紀伊半島にて「熊野の高倉下」(くまののたかくらじ)という人物から大刀を献上されました。『古事記』神武天皇段の細注に、「この大刀の名は佐士布都神(さじふつのかみ)という。またの名は甕布都神(みかふつのかみ)という。またの名は布都御魂(ふつのみたま)。この大刀は石上神宮に鎮座している。」とあります。
 これによれば、神武天皇がこの時に得た刀が布都御魂であり、その後それは奈良盆地のどこかに保管されていました。それが「建布都大神の社」です。崇神天皇の御代にイカガシコヲがそれを「石上邑」に遷座しました。これが石上神宮の始まりであると共に、物部氏とこの神宮との関わりの始まりです。

 『日本書紀』垂仁天皇八十七年二月条によれば、石上神宮の管理が、垂仁天皇〔第11代〕の皇子である「五十瓊敷命」(いにしきのみこと)から、その妹である「大中姫」(おほなかつひめ)を経て、物部十千根に委ねられました。「故、物部連等、今に至るまでに石上の神宝を治むるは、是其の縁なり」(『日本書紀』)とあります。物部氏が石上神宮を治めるに至ったきっかけがこの一件であるとのことです。
 これは、石上神宮の運営権が名実ともに皇室から物部氏に完全に移行したことを示すものです。それは、垂仁朝の晩期すなわち三世紀末のことと推定されます。

 かくの如く、イカガシコヲと物部十千根との親子二代で、物部氏が主宰する石上神宮という形が出来上がったのです。

 <第二節> 石見の物部神社

 石見の物部神社(もののべじんじゃ)〔島根県大田市川合町川合〕〔写真2〕は石見国の一宮です。『延喜式』神名帳の石見国安濃郡の「物部神社」がこれに当たります。
 その祭神はウマシマヂのミコトです〔注6〕〔物部神社社務所発行の由緒書〕。物部神社のホームページの表記では「宇摩志麻遅命」です。まさに、物部氏の元祖を祀る神社なのです。これが、同じ物部氏ゆかりの神社とはいえ、大和の石上神宮とは決定的に異なる点です。

〔写真2〕物部神社

〔写真2〕物部神社

 物部氏を題名に含む書籍が私の手元に六冊あります。その著者は、出版年順に、黛弘道氏〔注7〕、篠川賢氏〔注8〕、宝賀寿男氏〔注9〕、前田晴人氏〔注10〕、平林章仁氏〔注4〕、篠川賢氏〔注11〕です。
 このうち黛氏の著作を除いた五書は、濃淡の差こそあれ、大和の石上神宮について論考します。ところが、石見の物部神社には、一書を除いて、本文で全く触れません。わずかに宝賀氏の著作が言及するのみです〔注9、頁209~211〕。古代史のアカデミーにおいて、この神社への関心がいかに薄いかが、この一事をもってしてもよく分かります。

 それでは、石見の物部神社は物部氏を考察するに当たって取るに足らない存在なのでしょうか?そんなことはありません。宝賀氏は曰く、「氏族名の『物部』を冠した物部神社は全国で十七の式内社があり、なかでも格式が高かったのが石見一宮の物部神社である。その社家は長田・金子などを名乗り、神主の金子家は『石見国造』と呼ばれて、この地域の物部氏の長とされ、長く続いて明治には社家華族として男爵に列した。ただ、石見は中央の物部氏から遠く、創祀事情は不明である」〔注9、頁209~210〕と。

 『日本三代実録』によると、貞観十一年(869)三月二十二日に「石見国従五位上物部神」が正五位下を、貞観十七年(875)十月十日に「石見国正五位下物部神」が正五位上を、元慶三年(879)九月四日に「石見国正五位上物部神」が従四位下を授けられました。平安時代において石見の物部神社は中央政府から高い社格を認められ、相応に処遇されていたのです。
 時代は下って明治時代。華族という特別な身分が制度化され、大東亜戦争の敗戦まで続きました。公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵です。旧摂家、徳川宗家、旧藩知事、国家に勲功ある者などが叙せられました。その中に「神職華族」がいます。神職であることを理由に華族に列せられた者です。すべて男爵です。以下に、爵位授与の年月日順に列挙します〔注12、付録・華族一覧〕。なお、個人の敬称は略します。

 ①熊本県の阿蘇神社神職・阿蘇国造:阿蘇惟敦
 ②大分県の宇佐神宮神職・宇佐国造:到津公誼
 ③島根県の日御碕神社神職:小野尊光
 ④島根県の物部神社神職・石見国造:金子有卿
 ⑤三重県の伊勢神宮神職:河辺博長
 ⑥和歌山県の日前・国懸両神宮神職・紀伊国造:紀俊尚
 ⑦島根県の出雲大社神職・出雲国造:北島脩孝
 ⑧島根県の出雲大社神職・出雲国造:千家尊福
 ⑨愛知県の熱田神宮神職:千秋季隆
 ⑩福岡県の英彦山天台修験座主:高千穂宣麿
 ⑪大阪府の住吉神社神職:津守国美
 ⑫島根県の名和神社神職:名和長恭
 ⑬福岡県の太宰府神社神職:西高辻信厳
 ⑭三重県の伊勢外宮神職・伊勢国造:松木美彦
 ⑮大分県の宇佐神宮神職:宮成公矩
 ⑯三重県の伊勢神宮神職:荒木田泰圀

 神職華族は、以上の十六名に過ぎません。叙爵には政治的な事情も絡んでいたでしょう。とはいえ、伊勢神宮、出雲大社、宇佐神宮、熱田神宮など大神社の神職がその多くを占めるのは事実です。そのうちの一人が石見の物部神社の神職です。この神社の格式がいかに高いかの一つの証左と言えましょう。

 宮中祭祀の一つに鎮魂祭(みたましずめのまつり)があります〔注13、頁250~251〕。これは大嘗祭および新嘗祭の前日に執り行われる祭祀です。『延喜式』にあることから平安時代の宮中で行われていました。今の宮中でも然りです。その目的は何でしょうか?「鎮魂祭は天皇陛下を始め皇后陛下、皇太子同妃両殿下の御魂を鎮祭し、御寿の万歳長久をお祈り申しあげる呪的な祭儀であり、新嘗祭の前の晩に綾綺殿にて行はれます。この祭儀は古く初代神武天皇の御時に物部氏の祖宇摩志麻治命が十種の神宝を以て天皇の鎮魂をしたのをはじめとします。(中略)。このやうに鎮魂祭は、陛下の御霊力を鎮め、さらに振るひ立たせ、倍増する神秘的な祭儀であります」〔注14、頁80~82〕とのことです。
 ここに「この祭儀は古く初代神武天皇の御時に物部氏の祖宇摩志麻治命が十種の神宝を以て天皇の鎮魂をしたのをはじめとします」とあります。
 これは『先代旧事本紀』によるものです。その巻第七・天皇本紀に「十一月丙子朔庚寅、宇摩志麻治命が御殿の内に天璽瑞寶をお祭り申し上げた。帝と后のために御魂を崇め鎮め申し上げた。長寿をお祈り申し上げた。いわゆる御鎮魂祭はこの時に始まった。」とあるのがそれです。

 鎮魂祭は物部氏ゆかりの神社においても執行されています。
 石見の物部神社の公式ホームページ〔2026/6/18時点〕によると、「鎮魂祭は物部神社の起源ともいえる祭典で、当社の御祭神・宇摩志麻遅命様が神武天皇御即位のときに、天皇のために鎮魂宝寿を祈願されたのが始まりとされ、以降連綿と神代より受け継ぎ現代まで続いている物部氏最大最古の神秘の祭です」。
 そして、「この鎮魂祭を古くから伝承し斎行しています神社は奈良県石上神宮(物部の鎮魂法)・新潟県弥彦神社(中臣の鎮魂法)・島根県物部神社(物部・猿女の鎮魂法)の三社です。特に物部神社の鎮魂祭は宮中において斎行される鎮魂祭に最も近いものです」とのことです。
 物部氏ゆかりの神社は数あれど、最も重大な神事である鎮魂祭を実践しているのは限られているのです。元祖ウマシマヂの伝統を2000年以上に亘って灯し続けているのが石見の物部神社なのです。

 <第三節> 二世紀の倭国王は物部氏である

 ここで大いなる疑問が湧き上がります。中央の大豪族である物部氏ゆかりの神社、しかもその内で最高の格式を誇る神社、尚且つ、宮中祭祀の鎮魂祭を古式ゆかしく執り行う神社が、なぜ石見に在るのでしょうか?
 その鎮座地は石見国の中心部ですらありません。石見国の国府は、『和名類聚抄』によれば、那賀郡(なかのこおり)にありました。現在の江津市西部および浜田市全域に当たります。一方、物部神社は、『延喜式』神名帳によれば、安濃郡(あののこおり)に所在しました。
 畿内から遠く離れた石見の地に物部神社が鎮座すること。このことが古代史アカデミーで話題にのぼることはありませんが、私は古代史最大の謎の一つであると考えます。

 私は2019年に上梓した拙著〔注5〕において次のことを主張しました。
 第一に、『後漢書』倭伝のいう「倭国」は広域的な国家であること〔第四章・第九節〕
 第二に、倭国王・帥升の都は吉備であること〔第四章・第十節〕
 第三に、帥升は物部氏であること〔第十四章・第九節〕
 第四に、石見の物部神社の一帯は物部氏のルーツであること〔第十四章・第九節〕
 第五に、物部氏の祖であるウマシマヂは大和で生まれ、石見で育ったこと〔第十四章・第九節〕
 この私説の詳細については拙著をお読みください。

 私説の立場からは、石見の物部神社が物部氏ゆかりの神社の中でとりわけ格式が高い理由は明らかです。それは、ウマシマヂおよびその子孫が暮らしていた地であるからです。
 紀元後50年頃、ウマシマヂの御子の一人が王として吉備に迎え入れられました。かくして彼は石見の物部神社周辺から備中の南部に移住し、初代の吉備王に就きました。紀元後100年頃、倭国が誕生しました。初代の倭国王に推戴されたのが、その子すなわちウマシマヂの孫である第二代・吉備王です。それが、『後漢書』倭伝のいう倭国王・帥升です。

 私説によれば、弥生時代、石見と吉備との関係が密であったことになります。両国の間を人や物や情報が行き来していたことになります。それでは、それはどのルートをとったのでしょうか?
 本ブログの2026/1/13投稿記事「弥生時代における吉備と出雲との交通の中継拠点は備後の三次盆地である」にて、私は次のように述べました。

 「島根県道40号線を西に次に西南に進むと島根県邑智郡美郷町久保で江の川にぶつかります。そこから江の川を遡っていけば広島県の三次市の市街地に入ります。これは国道375号に概ね重なります。律令時代、西出雲から備後の三次盆地に行く方法の一つとして、このルートがあったというのが中村説です。ここでは、これを江の川ルートと呼びます。
 私はこの説を支持します。
 その上で、このルートの存在は律令時代にとどまらず、弥生時代に遡ると考えます。のみならず、江の川ルートが、弥生時代における西出雲と備後との往来、ひいては出雲と吉備との往来の主要な交通路であったと推定します」と。

 本稿との関わりで重要なのは、島根県邑智郡美郷町から江の川(ごうのかわ)を遡ると広島県三次市(みよしし)の中心部、すなわち三次盆地(みよしぼんち)に至ることです。このルートは国道375号と概ね重なります。島根県邑智郡美郷町は石見国であり、広島県三次市の中心部は備後国です。

 実をいうと、島根県邑智郡美郷町に達する道は、上記した、出雲からの島根県道40号線だけではありません。もう一つ重要な道があります。それが、島根県大田市(おおだし)と広島県三次市を結ぶ国道375号です。そして、物部神社はまさにこの国道375号沿いにあるのです。
 つまり、物部神社がある島根県大田市川合町川合から国道375号を南下すると、島根県邑智郡美郷町を経由して、広島県三次市の中心部に至るわけです。

 先述したように、大田市川合町川合で暮らしていたウマシマヂの子の一人が、吉備国の招聘に応じて備中南部に移住し、初代の吉備王に就いたというのが私説です。その移動は備後の三次盆地を経由する道程であったと私は考えます。故郷である大田市川合町川合を発った彼は国道375号を南に進んで三次盆地に入ったのです。
 それでは、三次盆地から備中南部へはどのルートをとったのでしょうか?それを知るには後述する石見銀山街道が参考になります。
 石見銀山(いわみぎんざん)〔アイキャッチ画像〕は、16世紀前半に博多の商人が灰吹法(はいふきほう)による銀生産を始めたのを機に日本屈指の銀山となりました。その後、大内氏、尼子氏、毛利氏らの戦国武将による争奪戦が繰り広げられました。物部神社はこの戦に巻き込まれ、兵火などにより三度消失しました〔物部神社発行の由緒書による〕

 17世紀初頭の日本は世界全体の銀の約1/3を供給していました。その大部分が石見銀山〔島根県大田市大森町〕で生産された灰吹銀(はいふきぎん)です。当時の世界経済システムを支えていたわけです。そのことが評価されて、2007年に石見銀山はユネスコの世界遺産に登録されました。

 1600年の関ヶ原の戦いの後、石見銀山は江戸幕府の直轄地となりました。その銀は中国山地を越えて、瀬戸内海に面する備後国の尾道(現在の広島県尾道市)まで運ばれました〔注15〕。これを石見銀山街道と言います。尾道からは瀬戸内海を船で大阪まで運ばれました。

 以下、成書〔注15〕をもとに、石見銀山街道を詳しく見てみましょう。
 灰吹銀の輸送隊は銀山のある大森(大田市大森町)を出立して東に進み、現在の島根県邑智郡美郷町別府で国道375号に合流しました。そこから「やなしお道」という難所を越えて邑智郡美郷町粕渕の宿に着き、続いて375号を南に下り、三次盆地に入って三次宿に着きました。
 つまり、国道375号は石見銀山の銀を江戸幕府へ上納するための運搬ルートの一部となったのです。
 輸送隊は、三次宿を発った後、馬洗川(ばせんがわ)に沿って三次市の吉舎町(きさちょう)に到って吉舎宿で一休みしました。三次宿から吉舎宿までの道は概ねJR福塩線に沿うものです。吉舎宿からは宇賀峠を越えて三次市の甲奴町(こうぬちょう)に到りました。
 甲奴からは道が二手に分かれます。江戸時代の銀の輸送隊がとったのは、広島県世羅郡世羅町に向かう道です。そこに甲山宿がありました。甲山宿を出た一行はそこから歩んで広島県尾道市に到着したのです。

 古代における三次盆地から備中南部までのルートについて、上記の銀山街道のうちで三次宿から甲奴までは同じであったと思われます。すなわち、これが、紀元後50年頃にウマシマヂの子が通った道です。
 問題は甲奴から先です。古代の道は江戸時代の銀山街道とは異なると私は見ます。なぜなら、古代に三次盆地から南に下って瀬戸内海に出た場所は、広島県福山市であると考えるからです。
 この考えが正しければ、古代の人々は広島県三次市甲奴町から広島県府中市上下町(じょうげちょう)に向かいました。上下町から川に沿って南に下り、矢多田川(やただがわ)に合流してから矢多田川に沿って進み、芦田川(あしだがわ)に合流してから芦田川に沿って進んで福山市に出たのです。三次市甲奴町から府中市上下町を経て福山市に行く道はJR福塩線に概ね沿うものです。これが紀元後50年頃にウマシマヂの子が通った道です。それから彼は陸路または海路で東に進んで備中の南部に到着し、そこで吉備王に就いたのです。

〔注〕

〔注1〕「石上坐布都御魂神社」のうちの「布都」を「布留」と表記する写本があります。この場合「石上坐布留御魂神社」です。「石上坐布留御魂」は「いそのかみにますふるのみたま」と読みます。本稿では「布都」をとります。

〔注2〕石上神宮(編集・発行)『石上神宮』(平成十一年初版発行、平成十九年全面改訂)

〔注3〕小田基彦 2000「石上神宮」谷川健一(編)『日本の神々 神社と聖地 第四巻 大和』〔新装復刊〕白水社

〔注4〕平林章仁 2019『物部氏と石上神宮の古代史 ヤマト王権・天皇・神祇祭祀・仏教』和泉書院

〔注5〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

〔注6〕白石昭臣 1985「物部神社」谷川健一(編)『日本の神々 神社と聖地 第七巻 山陰』白水社

〔注7〕黛弘道 2009『物部・蘇我氏と古代王権』吉川弘文館

〔注8〕篠川賢 2009『日本古代氏族研究叢書① 物部氏の研究』雄山閣

〔注9〕宝賀寿男 2016『古代氏族の研究⑧ 物部氏 剣神奉斎の軍事大族』青垣出版

〔注10〕前田晴人 2017『物部氏の伝承と史実』同成社

〔注11〕篠川賢 2022『歴史文化ライブラリー545 物部氏 古代氏族の起源と盛衰』吉川弘文館

〔注12〕小田部雄次 2006『華族 近代日本貴族の虚像と実像』(中公新書)中央公論新社

〔注13〕皇室事典編集委員会(編著) 2009『皇室事典』角川学芸出版

〔注14〕中澤伸弘 2010『宮中祭祀 連綿と続く天皇の祈り』展転社

〔注15〕道重哲男・相良英輔(編) 2005『街道の日本史38 出雲と石見銀山街道』吉川弘文館

 2026年6月21日 投稿