『日本書紀』景行天皇段・二十七年十二月条に、「その後、海路にて大和に向かい、吉備に至って穴海を渡られた。そこには悪神がいた。これを退治した」(現代語訳)とあります。
これは、日本武尊(やまとたけるのみこと)が南九州の熊襲(くまそ)の首領を倒した後、海路で大和に凱旋するときの記事です。瀬戸内海を東に進んで吉備に至り、「穴海」(あなのうみ)を渡ったといいます。この穴海とは吉備のどこを指すのでしょうか?
これについては、岡山の古代史学者である今津勝紀氏による解説が大いに参考になります。長くなりますが引用します。
「吉備の穴海については、十八世紀の岡山藩士である土肥経平が著した『寸簸之塵』(きびのちり)によれば、『吉備の穴海・穴済・穴門という穴門は、今児島郡天城村の藤戸(ふじと)をいう』とあり、その根拠として『海東西へ通じて甚狭小なる故に、穴門とも穴戸ともいう』のであり、(中略)。児島の北岸の藤戸の渡を穴門とする説は十八世紀末に岡山藩士の大沢惟貞が編纂した『吉備温故秘録』にもみえており、この頃の備前の国学者には共通の認識だったようで、この解釈が現在の岡山県内でも広く流布している。
しかし備後ではまったく逆で、儒者の管茶山が編纂に加わった福山藩の地誌『福山志料』(巻一四 安那郡)は今の福山湾を吉備の穴海としていた。福山湾は旧の備後国深津郡に接しているのだが、深津郡は養老五年(七二一)に安那郡を分割して成立した郡であり、それ以前の地名としては安那であった。(中略)。吉備の穴海は安那郡が接する海と考える方が合理的である(遠藤慶太「備後国の領域編成」)。江戸時代以来の思い込みはそう簡単には拭えないかもしれないが、吉備=黍説とともに、これも根拠のない俗説なのである」〔注1、頁93~94〕。
ここでは吉備の穴海について二つの説が紹介されています。一つが備前・備中説であり、もう一つが備後説です。今津氏によれば、現在の岡山では備前・備中説が半ば常識化しているとのことです。しかし、これは「江戸時代以来の思い込み」であり「根拠のない俗説」であって、正しいのは備後説である、というのです。
現在の岡山の地形では、児島(こじま)は本土と陸続きであり、児島半島として瀬戸内海に突き出ています。ところが、弥生時代においては児島は文字通り島でした。そして、本土との間に内海を形成していました。備前・備中説は、この内海こそが吉備の穴海であるとするものです〔図1〕。
古代史学者の門脇禎二氏は、『紀』景行天皇二十七年十二月条の「穴海」の所在地が備後であることを認めつつも、「どうして“穴海(戸)”にこだわるか。ほかでもない。吉備には、右述の“吉備穴済”(引用者注:備後の穴海のこと)の他にも、“穴海(戸)”があったのではないか、と思うからである。(中略)。そこには、吉井川・砂川・旭川・笹ヶ瀬川・足守川の河口と児島との間に、まさに大きな“穴海”があった。すぐ西方の高梁川の河口も同様である。これらの穴海は、がんらいは“吉備の穴海”とか“児島の穴海”といわれたかもしれないが、吉備の在地首長たちは、この海を見はるかすところにあいついで古墳を築いている」〔注2、頁17~18〕とも述べています〔図1〕。
〔図1〕備前・備中説による「吉備の穴海」〔AIにより作成〕

弥生時代~古墳時代前期に本土と児島との間に内海があったことは確かです。ただし、その当時に、それが「吉備の穴海」と呼ばれていたかどうかは分かりません。
はっきりしているのは、「穴海」と呼ばれる海が備後にあったことです。『先代旧事本紀』の「国造本紀」に「吉備穴国造」がいます。これは備後国安那郡を本拠とする豪族であり、この「穴」すなわち「安那」こそが『紀』景行天皇二十七年十二月条の「穴海」に当たる、というのが古くからの定説です〔注1、頁93~94〕〔注3、頁207~208〕〔注4 ①頁300頭注、②頁368頭注、③頁487〕。
私はこの定説を採ります。
ちなみに、安那郡の「安那」は、『和名類聚抄』では「夜須奈」すなわち「やすな」と訓じられています。しかし、本居宣長は「此の郡の名もとは、アナなる」〔注3、頁207〕と説きました。安那郡の元々の読みは「あな郡」であるというのです。これは今では定説となっています〔注1、頁93〕〔注4 ②頁368頭注、③頁487〕。
令制の備後国にあって安那郡は臨海地ではありません。にもかかわらず、なぜそこが穴海に当たるのでしょうか?本居宣長はこれについて、「さて此の安那郡には、今は海無けれども、其の南なる深津郡は、養老五年に分れたるにて、旧は、海までみな安那郡なりき」〔注3、頁208〕と説明しています。深津郡は安那郡の南にあり、瀬戸内海に臨んでいます。深津郡は養老五年(721年)より前には安那郡の一部でした。だから、安那郡は元々は臨海地であった、というわけです。
それはそうとして、そもそもなぜ安那郡が穴海なのでしょうか?
「“穴海”は、島で囲まれた沿岸部が袋穴のように入り込んだ海峡をいう」〔注2、頁17〕とされます。穴海の「穴」とは文字通り袋状の穴のことです。ところが、安那郡・深津郡には決して海が袋穴ように入り込んでいません。
ところが、遠い昔においては違いました。
広島県の埋蔵文化財調査室(当時)の伊藤実氏によると、福山市北部の平野部〔神辺平野〕まで海が入り込み、それが「穴海状の入り江になっていたことはほぼ間違いない」〔注5〕とのことです。
福山市のホームページでは、「古代の福山は、現在の市の中心部のほとんどが海の中であり、芦田川流域は新市町、府中市あたりまで深く入り込んだ海で、『穴の海』と呼ばれていました」〔トップページ>福山のあゆみ>100周年までのあゆみ>【福山のあゆみ】古代~市制施行100周年〕と解説されています。
〔写真1〕は備後南部の地形模型です。このうち、平野部(淡いオレンジ色の地帯)は弥生時代~古墳時代前期において海だったわけです。それはまさしく袋状の入り江であり、「穴海」の名に相応しい海だったのです。〔図2〕は当時のイメージ図です。
〔写真1〕広島県立歴史博物館 展示パネル (2026/8/7撮影)〔一部改変〕

〔図2〕弥生時代~古墳時代前期の備後南部の景観〔AIにより作成〕

潮崎山古墳(しおざきやまこふん)は、福山市新市町相方に所在する、前方後円墳〔推定〕です。それは、芦田川(あしだがわ)中流域の右岸の丘陵にあって、川に臨む小山の頂にあります。
この夏の旅行でその丘陵を訪れました。古墳がある山頂まで登ろうとしましたが、その山道が草深かったため断念しました。登り口付近で撮影したのが〔写真2〕および〔写真3〕です。
〔写真2〕潮崎山古墳への登り口 (2026/8/7撮影)

〔写真3〕登り口付近から垣間見る芦田川 (2026/8/7撮影)

〔写真1〕中に潮崎山古墳の場所をプロットしました。ここで、上記の福山市ホームページ中の「芦田川流域は新市町、府中市あたりまで深く入り込んだ海」という記述に注目してください。弥生時代~古墳時代前期には、神辺平野(かんなべへいや)において新市町まで海だったのです。それはまさにこの古墳があるところです。つまり、その当時、潮崎山古墳は芦田川の河口付近にあったのです。
〔アイキャッチ画像〕はこの古墳地点の芦田川です。写真に向かって左側が下流です。弥生時代~古墳時代前期、この辺りが河口付近であったわけです。
潮崎山古墳は、前方後円墳集成編年1期〔注6〕、広域編年Ⅱ期〔注7、頁382〕、神辺平野において最も早く出現した前期古墳です〔注8〕〔写真4〕。
〔写真4〕潮崎山古墳への登り口に立つ案内板 (2026/8/7撮影)

従って、この古墳の被葬者は邪馬台国の卑弥呼および台与と同時代を生きた人物です。
注目すべきは、ここから一面の三角縁神獣鏡〔三角縁天・王・日・月・獣文帯三神四獣鏡:目録47〕が出土していることです(原資料は個人蔵)〔写真5〕。
〔写真5〕広島県立歴史民俗資料館展示の潮崎山古墳出土三角縁神獣鏡〔複製〕 (2023/5/28撮影)

これは、福永編年〔注9〕の舶載B段階、岩本編年〔注7〕の舶載第2段階であり、西暦240年代に製作されたものです〔注9、頁94〕〔注7、頁171〕。
卑弥呼または台与がこの鏡を生前の古墳被葬者に下賜したと推定されます。それは、この人物が芦田川下流域を統治していたからです。前稿(2026/10/15)で述べたように、今も昔も芦田川は備後の内陸の通交にとっての要です。すなわち、この人物は吉備の穴海の西側を押さえることで、備後の海上交通および陸上交通を支配する一人であったのです。卑弥呼・台与政権は、この人物が備後のキー・パーソンであったからこそ厚遇したのです。その証が件の三角縁神獣鏡なのです。
〔注1〕今津勝紀 2026『歴史文化ライブラリー643 吉備の古代史 神話・古墳・渡来文化』吉川弘文館
〔注2〕門脇禎二 1992『吉備の古代史 王国の盛衰』日本放送出版協会
〔注3〕大野晋(編) 1969『本居宣長全集 第十一巻』筑摩書房
〔注4〕①坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注) 1993『日本古典文学体系新装版 日本書紀 上』岩波書店(原本は1967年に刊行)、②小島憲之ら五名(校注・訳) 1994『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、③神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝(訳・校注) 2021『新釈全訳 日本書紀 上巻』講談社
〔注5〕伊藤実 2018「ひろしまで発見された邪馬台国時代の遺跡(集落と船) 御領遺跡(福山市)」広島県教育事業団埋蔵文化財調査室(編集・発行)『瀬戸内から考える邪馬台国とその時代 魏の使いは瀬戸内海を通ったか?』平成29年度「ひろしまの遺跡を語る」(2018/1/27に広島県民文化センターにて開催)資料集
〔注6〕寒川史也 2018「<地域報告> 山陽東部」中国四国前方後円墳研究会(編)『前期古墳編年を再考する』六一書房
〔注7〕岩本崇 2020『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』六一書房
〔注8〕古瀬清秀 2000「潮崎山古墳」葛原克人・古瀬清秀(編)『吉備考古ライブラリー⑤ 吉備の古墳 下 備中・備後』吉備人出版
〔注9〕福永伸哉 2005『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会
2026年11月4日 投稿