本ブログにおいて、2025/12/30、2026/1/13、2026/6/21の3回に亘って、弥生時代における瀬戸内海沿岸部と日本海沿岸部との陸路での往来について論じました。
 そこで説いたことは、中国山地の三次盆地(みよしぼんち)こそが、この往来を中継する最重要拠点であったことです。その上で、弥生時代後期に備中南部で製作された特殊器台・特殊壺は三次盆地を通るルートで出雲西部に運ばれたと推定しました。

 私は今年の夏に広島県と島根県とに旅行しました。その主な目的は、実際に現地を訪れて私説を確かめることです。本ブログにて数回に分けてこの旅を振り返ります。
 本稿では、山陰と三次盆地との交通について述べます。山陽と三次盆地との交通については後日に回します。

 話を進める前に、過去記事の内容をおさらいしましょう。
 出雲西部には西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)という墳丘墓群があります〔注1〕。そのうち、弥生時代後期後半の西谷3号墓〔島根県出雲市大津町〕から特殊器台・特殊壺が出土しました。吉備南部で製作され、遠路はるばる出雲西部まで運び込まれたものです〔注1、頁66〕。それでは、それはどういうルートで運ばれたのでしょうか?

 島根県の考古学者である渡辺貞幸氏は曰く、「こうした分布状況(引用者注:立坂型葬祭土器の分布状況)からすると、吉備の葬祭土器は、吉備南部から備中を経て山陰に至るルートを通って運ばれたのではないかと想像できよう。具体的には、高梁川沿いを上り日野川沿いを下って山陰に出る。つまり、現在のJR伯備線に近いルートが、当時の吉備と出雲を結ぶメインストリートだった可能性が強い」〔注1、頁66~67〕と。
 高梁川(たかはしがわ)は瀬戸内海に注ぐ一級河川です。日野川(ひのがわ)は日本海に注ぐ一級河川です。特殊器台の運搬者は、高梁川水系、続いて日野川水系に沿って歩くことで中国山地を越えます。こうして瀬戸内海沿岸から日本海沿岸に出ます。次に、中海(なかうみ)そして宍道湖(しんじこ)を右手に見ながら西に進むと出雲西部に到着します。渡辺氏は、西谷3号墓の特殊器台が運ばれたのはこのルートである、というのです。

 2026/1/13の記事にて、この渡辺説を紹介し、その上で私説を提示しました。それは備後の三次盆地を経由するルートです。

 岡山県の古代史学者である今津勝紀氏は、2026/8/1に刊行された著書にて、これらとは異なる説を唱えています〔注2、頁44~49〕。

 今津氏は、「吉備は令制下に美作(みまさか)・備前・備中・備後へと分割されるのだが、その空間を全体としてみた際に、吉備の骨格をなしたのが、備前では吉井川(よしいがわ)と旭川(あさひがわ)、備中では高梁川(たかはしがわ)、備後は芦田川(あしだがわ)と江の川(ごうのかわ)であった」〔注2、頁44〕と述べます。この点では、私は今津氏と認識を共にします。
 そして今津氏は、「このように高梁川の源流は中国山地にあり、南流したものが吉備に注ぐのだが、中国山地から北流するのが伯耆(ほうき)の日野川(ひのがわ)であり、出雲の斐伊川(ひいかわ)であった」〔注2、頁45〕と言います。この点においても、異論はありません。

 私が今津氏と見解を異にするのは次の点です。
 今津氏は曰く、「つまり吉備と出雲は高梁川と斐伊川で繋がっていたことになる」〔注2、頁45〕と。そして曰く、「吉備中枢と出雲を最短で結ぶルートは高梁川・斐伊川ルートである。おそらく出雲の西谷三号・四号墓に吉備から運び込まれた特殊器台はこうしたルートを辿ったのではなかったろうか」〔注2、頁45~46〕と。
 つまり、今津氏は、高梁川水系から斐伊川水系へ移動することで、備中南部で製作された特殊器台が出雲西部へ運ばれた、というのです。
 私はこの今津説に全く首肯できません。なぜなら、紙の上ではともかく、現実の世界では、「吉備と出雲は高梁川と斐伊川で繋がって」いないからです。高梁川水系と斐伊川水系とは近接していません。両者は高い山々により完全に隔たっています。高梁川水系から斐伊川水系に移動するには、険しい山々を越えなければなりません。特殊器台・特殊壺は大きくて重いものです。土器という性質上、破損しやすいものです。たとえ「吉備中枢と出雲を最短で結ぶルートは高梁川・斐伊川ルート」であるとしても、この山岳ルートが特殊器台の運搬にとって理にかなう選択肢とは思えません。今津説は机上の空論です。

 以上、備中南部から出雲西部への特殊器台・特殊壺の運搬について、渡辺説、今津説、私説の三つを整理すると次のようにまとめられます。
 渡辺説は、水系でいえば、高梁川水系から日野川水系への移動です。令制国でいえば、備中、伯耆(ほうき)、出雲の順に進みます〔写真1〕。
 今津説は、水系でいえば、高梁川水系から斐伊川水系への移動です。令制国でいえば、備中から概ねダイレクトに出雲へ進みます(厳密には、備中国と出雲国とは国境を接していません。両国の間には伯耆国および備後国の端がはさまります)〔写真1〕。
 私説は、水系でいえば、芦田川水系から江の川水系への移動です。令制国でいえば、備中、備後、石見(いわみ)、出雲の順に進みます〔写真1〕。

〔写真1〕広島県立歴史民俗資料館 展示パネル(2023/5/28撮影)

〔写真1〕

 繰り返しになりますが、私説は中継地点としての備後の三次盆地を重視するものです〔写真1〕。
 過去記事(2026/1/13)で示したように、広島県において遺跡が集中する地が三次盆地です〔写真2〕〔写真3〕。

〔写真2〕広島県立歴史民俗資料館 展示パネル(2023/5/28撮影)

〔写真2〕

〔写真3〕広島県立歴史民俗資料館 展示パネル(2023/5/28撮影)

広島県立歴史民俗資料館 展示パネル
〔写真3〕

 実は、三次盆地には、なんと旧石器時代にして既に人がいました〔写真4〕。彼らホモ・サピエンスは食用の植物や動物を求めて中国山地の内陸深くに分け入ったのでしょう。その遺跡分布からすると、おそらく、江の川(ごうのかわ)に沿って遡上したのでしょう〔写真5〕。

〔写真4〕広島県立歴史博物館 展示パネル(2026/8/7撮影)

〔写真4〕

〔写真5〕広島県立歴史博物館 展示パネル(2026/8/7撮影)

〔写真5〕

 〔写真4〕〔写真5〕中の「下本谷遺跡」(しもほんだにいせき)〔広島県三次市西酒屋町〕とは、三次盆地に所在する後期旧石器時代の遺跡です〔注3〕。

 ちなみに、〔写真4〕中の嵌め込み写真は、冠遺跡(かんむりいせき)〔広島県廿日市市吉和〕です。旧石器時代でもその中期に当たる42300年前という途方もない大昔の地層から、多数の石器が出土したことで全国ニュースになっている遺跡です〔注4、頁175〕〔2026/10/3共同通信の配信〕。

 私が宿泊したホテルにて、出張中と思われる会社員の方を多数見受けました。おそらく中国地方を南北に移動中なのでしょう。中国山地を旅する人が立ち寄る地として栄えることにおいて、三次は今も昔も変わりがないのです。

 前述したように、本稿では山陰と三次盆地との交通を取り上げます。話の進行は、山陰から三次盆地に向かうものとします。

 島根県大田市と広島県三次市とを繋ぐ陸路が、国道375号です。過去記事(2026/6/21)で述べたように、この国道沿いに鎮座するのが、石見国の一宮、物部神社〔島根県大田市川合町川合〕です。中央の大豪族・物部氏ゆかりの神社のうちで最上の格式を誇る神社です。石見国にあって、やや内陸部に鎮座するこの神社は、この道によって、今も昔も吉備と繋がっているのです〔写真6〕。

〔写真6〕三次方面に向かう国道375号

〔写真6〕

 石見国から備後国に向かうこの道路は途中で出雲国とも繋がります。それが、島根県道40号線です。
 過去記事(2026/1/13)にて次のことを述べました。

 『出雲国風土記』によれば、備後国と出雲国とをつなぐ小径がありました。
 出雲西部の内陸部にあるのが飯石郡(いいしぐん)です。飯石郡の「通道」(かよいぢ)の条に次の記述があります。

 「波多径、須佐径、志都美径、以上の三径は常には剗なし。但、政ある時に当たりて権に置くのみ。並、備後国に通ふ」
 (現代語訳:波多径、須佐径、志都美径、以上の三径には常設の剗がない。ただし、政治的な事情がある時に限って臨時に設置される。みな備後国に通じる)

 これによれば、飯石郡には、「波多径」(はたのみち)、「須佐径」(すさのみち)、「志都美径」(しつみのみち)という三つの小径がありました。これを「三径」といいます。この「三径」には普段は「剗」(せき)がありませんでした。ところが、政治的事情が生じると、かり(権)の剗が設置されました(権剗)。この「三径」は備後国に至る道でした。

 中村太一氏は「志都美径」を現在の島根県道40号線に当たるとしました〔注5〕。中村説によるルートとは、出雲国飯石郡から南に下って直に備後国に入る道ではなくて、出雲国飯石郡から西に進んで一旦石見国に入り、そこから備後国に入る道です。これは出雲から備後に行く上で、大きく西に迂回する道程となります。
 島根県道40号線を西に次に西南に進むと島根県邑智郡美郷町で江の川(ごうのかわ)にぶつかります。そこから江の川を遡っていけば広島県の三次市の市街地に入ります。これは国道375号に概ね重なります。ここでは、これを「県道40・国道375ルート」と呼びます。

 律令時代、西出雲から備後の三次盆地に行く方法の一つとして、このルートがあったというのが中村説です。
 私はこの説を支持します。その上で、このルートの存在は律令時代にとどまらず、弥生時代に遡ると考えます。のみならず、県道40・国道375ルートが、弥生時代における西出雲と備後との往来、ひいては出雲と吉備との往来の主要な交通路であったと考えます。

 今回の旅行でこのルートを実際に走ってみました。
 〔写真7〕〔写真8〕は島根県道40号線を西に向かっているものです。これらは雲南市の掛合町波多(かけやちょうはた)で撮影したものです。この「波多」(はた)という地名は、先述の「三径」の一つ、「波多径」(はたのみち)に当たると考えられます。

〔写真7〕邑智郡美郷町方面に向かう島根県道40号線

〔写真7〕

〔写真8〕邑智郡美郷町方面に向かう島根県道40号線

〔写真8〕

 この県道40号線を更に進んだところで撮影したのが〔写真9〕です。これは飯石郡飯南町(いいしぐんいいなんちょう)の志津見(しつみ)で撮影したものです。この「志津見」(しつみ)という地名は、先述の「三径」の一つ、「志都美径」(しつみのみち)に当たると考えられます。

〔写真9〕邑智郡美郷町方面に向かう島根県道40号線

〔写真9〕

 ちなみに、この近くに「志都見の名水」という湧き水があります〔写真10〕。

〔写真10〕志都見の名水

〔写真10〕

 その案内板は、この「しつみ」が『出雲国風土記』の「志都美径」に当たると記しています〔写真11〕。

〔写真11〕志都見の名水にある案内板

〔写真11〕

 島根県道40号線を更に進むと、邑智郡美郷町久保(おおちぐんみさとちょうくぼ)にて国道375号と合流します〔写真12〕。

〔写真12〕三次方面に向かう国道375号

〔写真12〕

 国道375号を更に三次方面に進むと右手に江の川(ごうのかわ)が見えます。この先、国道は概ね江の川沿いに走ることになります。

 〔アイキャッチ画像〕は、邑智郡美郷町長藤にて、江の川の下流に向けて撮影したものです。見えている道路が国道375号です。写真の下方向が三次方面です。見えている線路は、かつてのJR三江線(さんこうせん)です。これは既に廃線となっています。
 〔写真13〕は、同じ地点から、江の川の上流に向けて撮影したものです。

〔写真13〕三次から流れ来る江の川

〔写真13〕

 国道375号を更に進むと島根県から広島県に入り、三次市の市街地に到着します。
 ここでは、江の川〔可愛川(えのかわ)とも呼ばれる〕、馬洗川(ばせんがわ)、西城川(さいじょうがわ)の三つの川が合流します。そうして形成されるのが、ここまで見てきた江の川です。
 〔写真14〕は、西城川が馬洗川に流れ込む地点です。手前が西城川、その向こうが馬洗川です。写真に向かって左から右へと川は流れています。

〔写真14〕西城川と馬洗川

〔写真14〕

 〔写真15〕は、江の川(可愛川)と馬洗川とが合流する地点です。写真の真ん中を流れるのが江の川(可愛川)です。遠方に見えるのが馬洗川です。川の下流に向けて撮影したものです。

〔写真15〕江の川(可愛川)と馬洗川

〔写真15〕

 以上、山陰(石見と出雲)から三次盆地までを実際に走ってみました。現在の道路名でいえば、島根県道40号線と国道375号です。その道中に険しい山越えはなく、傾斜がゆるやかであり、概ねなだらかな道のりでした。
 古の人の健脚ならば、たいした苦労もなく歩き通せたはずです。大きな荷物や壊れやすい器物を運搬できたはずです。改めて、この県道40・国道375ルートこそが、弥生時代における、山陰と三次盆地との主たる交通路であると確信しました。そして、吉備から出雲へ特殊器台・特殊壺を運んだのもこの道であると思いました。

〔注1〕渡辺貞幸 2018『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』新泉社

〔注2〕今津勝紀 2026『歴史文化ライブラリー643 吉備の古代史 神話・古墳・渡来文化』吉川弘文館

〔注3〕戸田正勝・三枝健二 2009「広島県北東部における後期旧石器時代初頭の石器文化について 下本谷遺跡範囲確認調査資料の再検討から」『広島県立歴史民俗資料館 研究紀要』第7集:広島県立歴史民俗資料館

〔注4〕国武貞克・佐藤宏之 2025『南回り、北回りの遭遇、列島のホモ・サピエンス 新・日本旧石器文化の成立』朝日新聞出版

〔注5〕中村太一 2022「『出雲国風土記』の通道記事とその路線復原 ―推定復原図作成に関する覚え書き―」島根県古代文化センター(編)『島根県古代文化センター研究論集 第27集 山陰における古代交通の研究』島根県教育委員会