これまでに、十代、八人の女性天皇がいます。代数と人数とが違うのは、二度の重祚(ちょうそ)があるからです。重祚とは、一人の天皇が退位した後、再度即位することです。 さて、女性天皇は以下の通りです。
・推古天皇(すいこてんのう)〔第33代〕
・皇極天皇(こうぎょくてんのう)〔第35代〕 ・斉明天皇(さいめいてんのう)〔第37代〕(重祚)
・持統天皇(じとうてんのう)〔第41代〕
・元明天皇(げんめいてんのう)〔第43代〕
・元正天皇(げんしょうてんのう)〔第44代〕
・孝謙天皇(こうけんてんのう)〔第46代〕 ・称徳天皇(しょうとくてんのう)〔第48代〕(重祚)
・明正天皇(めいしょうてんのう)〔第109代〕
・後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)〔第117代〕
このうち、推古天皇から称徳天皇までの八代六人は古代の天皇であり、明正天皇と後桜町天皇との二代は江戸時代すなわち近世の天皇です。称徳天皇の崩御は770年(宝亀元年)です。明正天皇の即位は1629年(寛永六年)です〔注1〕。この間の859年は女性天皇の空白期間です。すなわち、称徳天皇と明正天皇との間に大きな年代的ギャップがあるのです。
推古天皇が女性として初めて皇位に就いたのが592年です。称徳天皇が皇位に就いたのが764年(天平宝字八年)です。その間の172年に十六代の天皇がいますが、そのうち八代が女性です。かくの如く、この時期、女性天皇が頻出していました。ところが、その後、ピタリと止まったのです。
しかも、古代の女性天皇と江戸時代の女性天皇とは存在感を異にします。推古天皇にしろ、斉明天皇にしろ、持統天皇にしろ、称徳天皇にしろ、政治的に重きをなしていました。決してお飾りの天皇ではありません。一方、明正天皇にしろ、後桜町天皇にしろ、幼い弟または甥が成長するまでの中継ぎという意味合いが濃厚でした。
つまり、政治的な権力を有する女性天皇としては、称徳天皇が最後なのです。それは何故でしょうか?それは、称徳天皇の御代に、称徳天皇が深く関与する、驚天動地の事件が起きたからです。おそらく、そのことが女性を天皇に戴くことへの負の教訓となり、苦い記憶として宮廷内に定着したのです。女性の天皇はもう懲り懲りという思いが皇族や公家の脳裏に深く堅く根を下ろし、時を経てもそれがなかなか風化しなかったのです。称徳天皇の後に女性皇族が天皇に担がれなくなった理由はそこにあると思われます。
その天下の大事件とは何でしょうか?それが「宇佐八幡宮神託事件」(うさはちまんぐうしんたくじけん)です。本稿では、簡略のため、これを「道鏡事件」と呼称します。これは、仏教界の僧が、皇族ではないにもかかわらず、あやうく天皇になりかけたという、驚愕すべき事件です。その僧こそが道鏡(どうきょう)です。
この事件の主役、すなわち道鏡の即位を阻止した功労者が、和気清麻呂(わけのきよまろ)です。〔アイキャッチ画像〕は、岡山県和気郡和気町藤野に鎮座する和気神社(わけじんじゃ)の前に立つ「和気清麻呂公像」です。この地が清麻呂の故郷です。
この人物は、戦前においては、紙幣の肖像画となる程にポピュラーな歴史上の人物でした。しかし、戦後においては、人口に膾炙することが殆どない、影の薄い人物になりました。
例えば、高等学校日本史教科書の代表格、山川出版社の『詳説 日本史 日本史探究』〔佐藤信ら25名(著)〕(2023/3/5発行)では、「769(神護景雲3)年には、称徳天皇が宇佐神宮の神託によって道鏡に皇位をゆずろうとする事件がおこったが、この動きは和気清麻呂らの行動で挫折した」〔頁47〕とあるのみです。
この教科書では、重要な事項や人物が太字で表記されていますが、和気清麻呂のそれは太字ではありません。のみならず、この道鏡事件は奈良時代の数ある政争の一つとして記されているに過ぎず、それが如何に特異な事件であったかが全く説明されていません。これは他の教科書でも同様です。
戦後の歴史教育は和気清麻呂の功績の歴史的意義を意図的に隠蔽しているのではないか?そう疑わざるを得ません。戦後歴史学がこの大人物を敢えてぞんざいに扱っていることは、この学問を蝕む病弊の一症状であると私は見ています。
ただし例外もあります。作家の竹田恒泰氏が発行する中学校歴史教科書〔『検定合格 市販版 国史教科書 第7版 中学校社会科用』令和書籍 2024/7/15発行)〕では、この事件の重大性が特筆され、和気清麻呂が大きく取り上げられています〔頁94~96〕。
日本史上の英雄を五人挙げるとしたら、誰を選ぶでしょうか?卑弥呼、聖徳太子、源頼朝、徳川家康、伊藤博文など多くのビッグネームが頭に浮かびます。人の好みや歴史観は様々なので、どう絞り込むかは人によりまちまちでしょう。とはいえ、その最終リストに和気清麻呂が挙がることは、おそらくないはずです。しかし私は、和気清麻呂を、五指に入って然るべき人物であると高く評価しています。
私は、2025年の拙著の中で「卜部と和気清麻呂」と題する論考を公にしました〔注2〕。そこにおいて、道鏡事件のあらましと、和気清麻呂の偉業について語りました。
本稿では、この旧稿をもとに、今日の皇位継承を取り巻く問題が、奈良時代の道鏡事件と、その構造において相通ずるものであることを指摘します。
結論を先に言えば、道鏡事件は決して称徳天皇の個人的資質だけに帰して済むものではありません。道鏡事件にしろ、今日の皇位継承にしろ、グローバリゼーション(Globalization)において天皇はいかにあるべきかを我々日本人に問いかけているのです。
詳しくは拙著をお読みください。
前置きはここまでとして、以下、道鏡事件を見てみましょう。
女帝である孝謙天皇〔第46代〕は、淳仁天皇〔第47代〕に譲位して太上天皇(上皇)となりました。看病禅師(かんびょうぜんじ)〔天皇などの病気平癒を任務とする僧〕である道鏡は、孝謙上皇の病気を癒やし、それにより上皇の寵愛に与りました。元気を取り戻された上皇は、淳仁朝で権力をほしいままにする藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)を倒し、764年(天平宝字八年)十月、淳仁天皇を廃して重祚しました。皇位への返り咲きです。それが称徳天皇〔第48代〕です。それに伴い道鏡は、大臣禅師(だいじんぜんじ)、次に太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)、次に法王(ほうおう)に任命され、称徳朝の大実力者にのし上がりました。
そうした政治状況下のことです。769年(神護景雲三年)、道鏡に媚びるため、大宰主神(だいさいのかむつかさ)〔太宰府における祭祀を司る職〕の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)〔「中臣習宜朝臣阿曾麿」とも表記される〕が、豊前国宇佐郡に鎮座する宇佐八幡宮(宇佐神宮)の神託を朝廷に報告しました。「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」(道鏡を皇位に就かせれば、天下は太平となるであろう)〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕という神託です。皇族ではない僧・道鏡を次の天皇にするという前代未聞の提言です。
その神託の真偽を確かめるために、称徳天皇は勅使を宇佐神宮(うさじんぐう)〔大分県宇佐市南宇佐〕に派遣することにした〔写真1〕。そこで白羽の矢が立ったのが、備前国藤野郡(和気郡)(岡山県和気郡和気町藤野)の地方豪族を出自とする官人、和気清麻呂です。これには次のような事情がありました。孝謙朝で女官として天皇に仕え、出家して尼になり法均(ほうきん)と号し、天皇の特に厚い信頼を得ていたのが和気広虫(わけのひろむし)です。清麻呂(きよまろ)は広虫(ひろむし)の弟です。そのことが、彼が大役を仰せつかった理由です。要するに、姉のつてで彼が選ばれたのです。道鏡は出立前の清麻呂に、自らの即位に協力すれば官位官職を引き上げると告げました。それで清麻呂を懐柔できたつもりでいたのです。
〔写真1〕宇佐神宮

清麻呂は宇佐八幡宮に詣でて、大神の託宣を受けました。そして、都に戻るや、鬼気迫る面持ちで復命しました。張り詰めた空気を切り裂くように、漲る声で奏上し、披露したそれは次のようなものでした。
「我が国家は開闢より君臣が定まっている。臣下を君主とすることは未だかつてないことである。天の日嗣には必ず皇統にある者を立てよ。無道の人は早く払い除けよ。」〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕
我が国の開闢以来、皇位に就くのは皇族に限る。臣下の身分である道鏡を排除せよ。これが宇佐神宮の大神の託宣でした。これは、道鏡にとってはもちろんのこと、彼を自らの後継者に据える腹づもりでいた称徳天皇にとっても、腰を抜かす程の番狂わせでした。おそらく、二人にとって、道鏡の即位は既定路線であり、宇佐八幡宮の神意伺いはその実現のための出来レースであり、和気清麻呂は書かれたシナリオをその通りに演ずるだけの一介の役者に過ぎなかったはずです。
ところが、その役者は、本番で、台本を全く無視する台詞を口上したのです。職務忠実であるはずの官吏・和気清麻呂が打った一世一代の大芝居です。彼は、主君のご意向を越えて、国体を護るために身を挺したのです。「匪躬之節」(ひきゅうのせつ)〔我が身を省みずに忠節を尽くす〕〔『日本後紀』延暦十八年二月の薨伝〕たる男の面目躍如です。
それは、称徳天皇にとって、己が引き立てた側近の、許しがたい裏切りでした。怒り心頭の天皇は、「これを見ると、表情といい、口にする言葉といい、明らかに自分が作ったことを大神のお言葉と偽って言ったことが分かった。問い詰めたところ、朕が思った通り、大神のお言葉ではないことが判明した。よって、法律の通り、両人を退けるものである」〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕と詔されました。
そして、清麻呂とその姉・法均とを「心の中が悪く汚く濁っている人」〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕と痛罵された挙げ句に、彼らから輔治能真人(ふぢののまひと)の姓(かばね)を取り上げて新たに別部(わけべ)とし、清麻呂の名を穢麿(きたなまろ)とし、その姉・法均を還俗させて名を広虫売(ひろむしめ)とされました。つまり、二人はそれぞれ、別部穢麿、別部広虫売へと改名させられました。天皇の臣下の最上位(真人)から一介の部民に身を落としたわけです。その上で、清麻呂は官職を解かれ位階・勲位を剥奪されて大隅国に配流となり、広虫は備後国に配流となりました。769年(神護景雲三年)九月のことです。
『日本後紀』延暦十八年(799年)二月二十一日条の和気朝臣清麻呂の薨伝によると、即位への歩みを阻まれて恨み骨髄に徹する道鏡は、追っ手を放って、配流の道中で清麻呂の殺害を図りました。しかし、雷雨による視界不良のため刺客が果たせ損ねているうちに、俄に勅使が駆けつけ、そのお陰で清麻呂は暗殺を免れました。道鏡にしてみれば、清麻呂の処分が死罪ではなくて配流に留まったことに納得がいかなかったのです。
それはともかく、勅使が清麻呂を助けたといいます。それが本当ならば、称徳天皇が道鏡の策謀を阻止し、清麻呂を救ったことになります。だとすると、その時、御心は揺れていたのでしょうか?「本当にこれで良かったのか?」と千々に乱れていたのでしょうか?真相は藪の中にあるものの、女帝が複雑な心境の渦中にいたことは間違いないでしょう。こうして、和気氏の姉と弟は政治の嵐の中を共に生きながらえたのです。
770年(宝亀元年)八月、称徳天皇は崩御されました。和気氏追放の11ヶ月後のことです。おそらく、和気清麻呂による乾坤一擲の奏上は朝廷の空気を一変させたのです。清麻呂が振るった蛮勇が保身に徹していた貴族たちの小心を揺さぶり、彼らに世の正道とは何であるかを改めて気付かせたのです。こうして、重臣は反道鏡派で固まり、女帝と道鏡は朝廷内で孤立していきました。そのことが、自身の心の迷いと相俟って、女帝を追い詰めていったのです。そう私は推察します。ともあれ、道鏡事件が称徳天皇の寿命を縮めたであろうことは想像に難くありません。
後ろ盾を崩御により失うや、瞬く間に道鏡は失脚し、造下野国薬師寺別当(ざうしもつけののくにやくしじべつたう)に任じられて下野国(栃木県)に左遷されました。その約2年後に、道鏡はその地で庶人(しょにん)〔位階・官職のない人〕として没しました〔『続日本紀』宝亀三年四月条〕。道鏡の左遷と時を同じくして、事件の発端をつくった大宰主神の習宜阿曾麻呂は多褹嶋守(たねのしまのかみ)に任じられて、南島の多褹嶋(たねのしま)〔種子島、屋久島など〕に左遷されました。ただし、772年(宝亀三年)五月に、大隅守(おほすみのかみ)に任じられ、任地を南九州の大隅国に移されました。
それに対して、道鏡失脚の直後に復権したのが和気清麻呂、広虫です。称徳天皇崩御一ヶ月後の770年(宝亀元年)九月に、二人は配流先から都に呼び戻されました。さて、皇位を継いだのは、白壁王(しらかべのおほきみ)です。天智天皇〔第38代〕の子・施基皇子(しきのみこ)の子、すなわち天智天皇の孫です。770年(宝亀元年)十月に王は即位されました。それが光仁天皇〔第49代〕です。天武天皇〔第40代〕の後裔を皇統本流とする路線(称徳天皇は天武天皇の玄孫です)から天智天皇系への歴史的大転換です。
光仁朝にて、宝亀元年十月に和気公広虫が従五位下を授けられ、翌年の宝亀二年三月に和気公清麻呂が従五位下に復されました。宝亀二年九月に和気宿禰清麻呂は播磨員外介(はりまのゐんぐゑのすけ)〔播磨国司の定員外の次官〕に任じられました。復位後最初の任官です。宝亀五年九月に、和気宿禰清麻呂・広虫の弟姉に朝臣の姓が賜われました。
光仁天皇の後を継いだのは、その御子である山辺親王(やまべのみこ)です。781年(天応元年)四月に即位されました。それが桓武天皇(かんむてんのう)〔第50代〕です。天応元年十一月、和気朝臣清麻呂は従四位下の官位を授かりました。その後、桓武朝で清麻呂は出世しました。
姉である広虫は799年(延暦十八年)正月に卒しました。享年70。官位は正四位上であり、死後に正三位が贈られました。官職は典侍(ないしのすけ)でした。弟・清麻呂は姉を追うように、その1ヶ月後の延暦十八年二月に薨去しました。享年67。官位は従三位であり、死後に正三位が贈られました。官職は「民部卿兼造営大夫美作備前国造」〔『日本後紀』延暦十八年二月条〕でした。姉、弟ともに地方豪族の出身者としては破格の昇進を遂げたことになります〔写真2〕。
〔写真2〕和気神社 〔岡山県和気郡和気町藤野〕

和気清麻呂と広虫が国体を危機から救いました。それに伴い、皇統の本流が天武系から天智系へ移りました。現皇室は天智天皇〔第38代〕の後裔です。
以上が事件のあらましです。
道鏡は、河内国若江郡弓削郷(大阪府八尾市)の氏族の出身です。その当時高貴ではない出自ながら志のある若者の常として、彼は僧侶の道を選びました。彼は時代の先端を行く優れた学僧でした。とともに禅の修行を積みました。葛城山(かつらぎさん)〔奈良県と大阪府との境に位置する山〕に入って修行し、呪力を身に付けました。だから道鏡は、世が世なら、稀代の怪僧としてではなくて、不世出の高僧として後世に名を残したかもしれません。運命の女神が彼を孝謙上皇に引き合わせなければ。
実際には、彼は看病禅師として上皇の病を癒やし、それを契機に上皇の寵愛を得ました。そのことで、大臣禅師、次に太政大臣禅師へと出世階段を上り、遂に法王の座に昇り詰めました。律令制では前代未聞の官職です。このことは、道鏡が俗界の頂上に達したことのみならず、奈良仏教界を指導する立場についたことをも意味します。残すは皇位のみとなりました。
それにしても、称徳天皇はなぜ道鏡に皇位を譲ろうとしたのでしょうか?
広く流布する俗説に、この二人が男女関係にあったから、というのがあります。要するに、そのことで天皇は野心家である道鏡の言いなりになってしまった、というわけです。これを妄説として簡単に片付けられないのは、それには史料的根拠があるからです。
『続日本紀』巻第二十五・天平宝字八年九月十八日条に、「時に道鏡常に禁掖に侍ひて甚だ寵愛せらる。押勝これを患へて懐自ら安からず」(原漢文の訓読文)とあります。これは、「その頃、道鏡が常に宮中に侍って、天皇から著しく寵愛された。恵美押勝はこれを妬んで胸中穏やかではなかった」と現代語訳されます。ちなみに、恵美押勝とは先述した藤原仲麻呂のことです。
この記事は、称徳天皇と道鏡との男女関係を明言するものではありません。とはいえ、事が事だけに正史である『続日本紀』には憚りがあるでしょう。それを慮れば、その関係を示唆しているようにも深読みできます。
『日本霊異記』下巻・第三十八に、「法師等を裙着(もは)きたりと軽侮(あなづ)れど、そが中に腰帯薦槌(こしおびこもづち)懸(サガ)レルゾ。弥発(いやた)つ時々、畏(カシコ)き卿(きみ)や」という歌があり、それに続いて「女帝称徳天皇の御代、天平神護元年の初めに、弓削氏の僧、道鏡法師が女帝と同じ枕に寝て情交し、政治の実権を握って天下を治めた。この歌は道鏡法師が女帝と同じ枕に寝て情交し、天下の政治をとった事件の前兆であったのだ」(現代語訳)〔注3、頁353〕という記事があります。
ちなみに、先の歌中の「裙」とは裳というスカート状の物であり、「薦槌」とは男性器の喩えであり、「弥発」とは勃起することであり、歌の意は「坊さんを 裳はきと あなどるな 裳のかげに 陽物あるんだぞ いきり立てば すごい仕事が できるんだ」〔注3、頁353〕となります。
要するに、僧・道鏡は称徳天皇との男女関係をもとに天下の政治をほしいままにした、というわけです。
『日本霊異記』は、平安時代初期(延暦~弘仁)に南都・薬師寺の僧・景戒(きょうかい)が編纂した仏教説話集です〔注3、頁7〕。件の下巻・第三十八の話は、景戒が称徳天皇の御代とほぼ同時代に集めたものと思われます。それは、ずっと後の世に興味本位で捏ち上げられた話ではありません。景戒による作り話でもないでしょう。おそらく、称徳天皇の御代において天皇と道鏡との情交関係が巷で噂されていたのでしょう。それが事実であるか否かはさておき。
ただし、です。その噂が真実であろうとなかろうと、道鏡事件を女帝の性の問題に帰してよしとするのは、この事件を余りに矮小化しています。この事件の本質は、そうした個人レベルのことにあるのではなくて、その時代特有の構造にあるからです。
奈良時代の国家や社会の有り様を端的に表す歴史用語があります。それが鎮護国家(ちんごこっか)です。その基となる思想は、仏教の力によって国を護ることです。為政者にとって仏教は「とくに外来の端厳壮重な仏像と壮麗な寺院、深遠な経典の哲学と、その中にふくまれている呪術的な現世利益の言葉等は、在来の神道以上にすぐれた宗教であると考えられるようになった」〔注4、頁8〕のです。
我が国古来の信仰や固有の文化よりも、外来の仏教およびその文化の方が優れているという考えが、当時広がっていたのです。
そういう考えに染まり、その路線を強力に主導したのが、本来ならば自国の信仰および文化の守護神となるべき天皇でした。それが聖武天皇〔第45代〕です。聖武天皇の仏教への傾倒は筋金入りでした。
741年(天平十三年)、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発しました。
743年(天平十五年)、盧舎那仏(るしゃなぶつ)造立の詔を発しました。
その後、出家して、自らの娘・阿倍内親王に譲位しました。それが孝謙天皇〔第46代〕です。仏教を国の中心にする政策は父から娘に引き継がれました。
752年(天平勝宝四年)四月、東大寺の盧舎那仏が完成して開眼供養の儀式が執り行われました。天皇、文武百官、僧一万人が参列する盛大な式典でした(『釈日本紀』)。これが奈良の大仏です。
奈良時代には、国家的な大寺院が大きな力を持ちました。薬師寺(やくしじ)、大安寺(だいあんじ)、元興寺(がんごうじ)、興福寺(こうふくじ)、東大寺(とうだいじ)、西大寺(さいだいじ)、法隆寺(ほうりゅうじ)の南都七大寺(なんとしちだいじ)です。こうした大寺院で、インドや中国の仏教理論が研究され、三論(さんろん)、成実(じょうじつ)、法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、華厳(けごん)、律(りつ)の六つの学派が形成されました。これを南都六宗(なんとろくしゅう)といいます。鎮護国家の方針のもと、仏教界は政治に深く入り込みました。
奈良時代は我が国の信仰史上の一つの画期です。神仏習合(しんぶつしゅうごう)が大きな潮流になったことです。これは、古来の神々と外来の仏とは本来は同一であるという思想です。それを代表する神が八幡神です。この神を奉斎するのが豊前の宇佐神宮です。全国津々浦々に数多鎮座する八幡神社の総本山です。全国の神社の中で最も早く神仏習合を果たしたのは宇佐神宮(宇佐八幡宮)であり、それは725年(神亀二年)のことと目されています。宇佐神宮は本来は神社ですが、奈良時代に仏教も取り込んだわけです。このことは、奈良時代の宇佐神宮が仏教勢力とも結びついていたことを示します。
754年(天平勝宝六年)十一月、薬師寺の僧・行信(ぎゃうしん)と八幡神宮(やはたのかむみや)の主神・大神多麻呂(おほみわのたまろ)とが、「厭魅」(えむみ)〔人を呪い殺す呪法〕を為した罪により配流されました〔『続日本紀』〕。「薬師寺」とは南都七大寺の一つであり、「八幡神宮」とは宇佐八幡宮のことです。呪詛の対象は詳らかではありませんが、その時の権力者・藤原仲麻呂がターゲットであったと見られています。薬師寺の僧・行信は大僧都(だいそうず)の地位にある高僧でした。大神多麻呂は当時の宇佐八幡宮を代表する人物でした。よって、この厭魅事件は、仏教界と宇佐八幡宮とが手を結んで政治に介入することが既に孝謙朝で起きていたことを示します。これは孝謙天皇が道鏡と親しくなる前のことです。
道鏡事件には前例があったのです。それには下地があったのです。ということは、それは起こるべくして起きたと言えるのです。道鏡事件は、奈良時代という時代の必然的帰結であると言えるのです。
なぜそう言えるのでしょうか?それは、この時代を支配する思想が鎮護国家であったことに因ります。
この思想を象徴するのが、先述した、聖武天皇の出家です。出家とは仏門に入ることです。
天皇の出家は聖武天皇に始まります。それは749年(天平21年)一月のことです〔注5、頁260~261〕。その後の皇室の歴史において、多くの天皇が出家しました。しかし、聖武天皇の出家とその後の天皇の出家とは根本において異なります。聖武天皇以外の天皇は退位した後、すなわち上皇になってから出家しました〔注6〕。ところが、聖武天皇は在位中に出家したのです〔注5、頁260~261〕〔注7、頁106:執筆担当は川崎庸之〕。聖武天皇が娘・阿倍内親王に譲位したのは749年(天平感宝元年)七月のことです。数ヶ月という短期間のこととはいえ、聖武天皇は天皇であり且つ仏の弟子でもあったわけです。
それは何を意味するのでしょうか?
日本古代史家の渡辺晃宏氏によれば、聖武天皇は「ここに名実ともに仏弟子となったのである。天皇の出家はこれが史上最初である。曾祖父天武は壬申の乱の勝利後、みずからを現人神(あらひとがみ)として位置づけるべく国家装置を作り上げたのであった。その天武の足跡をたどってきた聖武は、天武の確立した現人神の上に仏を位置づけたのである。聖武にとって、神である自分が仏に従属することはけっして現人神観念の破壊ではなく、その完成として意識されたのであろう。律令国家の頂点に立つ神と仏の関係を規定し、その習合を促した点で、聖武の出家は思想史的にも画期的な事件であった」〔注5、頁260~261〕とのことです。
山川出版社の高校教科書によれば、聖武天皇の出家は、「この3年前(引用者注:752年の大仏開眼供養の儀式の三年前、すなわち749年のこと)に聖武天皇は在位のまま出家したのち譲位した。これは現人神(あらひとがみ)が仏に従属することで、より高い権威を仏教に求めたものである」〔注8、頁46〕とのことです。
かくのごとく、聖武天皇は、自ら意図して、天皇を仏の下位に位置づけたのです。これは極めて重大なことです。聖武天皇のお考えがどうであったにせよ、それは理屈の上では「現人神観念の破壊」です。天皇のレゾンデートルの否定です。
出家した身でありながら天皇でもあるという特異な方針は、聖武天皇の娘である称徳天皇にも引き継がれました。孝謙天皇は譲位して上皇となり、然る後に出家しました。そしてその状態のままで重祚したのです〔注5、頁322〕。つまり、仏の弟子がそのまま天皇となったのです。それが称徳天皇です。
天皇が仏の弟子になること、仏の弟子が天皇になること。父と娘とにその違いはあれど、仏の弟子が天皇を兼ねるという点では両者は同じです。奈良時代がいかに仏教の時代であったかが、この一事によく表れています。
国を護るのは、八百万の神々ではなくて、仏である。我が国固有の文化伝統よりも外来の普遍的思想の方が高尚である。皇族よりも仏道にある者の方が優越している。であるならば、国の代表である天皇は皇族の出である必要はありません。むしろ、仏教界の指導者こそが天皇に相応しい。そうなるのは自然な流れです。だから、奈良時代の思潮においては、道鏡が皇位に就くのは、必ずしも突拍子もないこととは言えないのです。
仏教界の最高実力者が国に君臨する宗教国家。もし道鏡が皇位に就いたならば、その後の我が国はそういう国家に成り変わったことでしょう。おそらく皇室は消えていたでしょう。その意味で、道鏡事件は歴史的大事件なのです。
ところが、です。鎮護国家の思想的帰結に敢然と否を突きつける者が現れました。それが和気清麻呂です。
「我が国家開闢けてより以来、君臣定りぬ。臣を以て君とすることは、未だ有らず。天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。无道の人は早に掃ひ除くべし」(我が国家は開闢より君臣が定まっている。臣下を君主とすることは未だかつてないことである。天の日嗣には必ず皇統にある者を立てよ。無道の人は早く払い除けよ)〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕
宇佐神宮から戻った和気清麻呂の奏上によれば、これが八幡神の託宣です。それは本当なのでしょうか?清麻呂は本当のことを報告したのでしょうか?称徳天皇は、それを耳にするや、すぐさま嘘と決めつけました。「これを見ると、表情といい、口にする言葉といい、明らかに自分が作ったことを大神のお言葉と偽って言ったことが分かった」〔『続日本紀』神護景雲三年九月条〕という詔が記録されています。
真実は和気清麻呂しか分かりません。それを承知で敢えて私見を述べれば、おそらくそれは清麻呂の心の中の言葉です。八幡神の託宣ではありません。彼が宇佐神宮で受けた託宣は、この事件のきっかけとなった、大宰主神・習宜阿曾麻呂の報告の繰り返しであったはずです。すなわち、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」です。なぜなら、宇佐神宮の神意伺いは、道鏡と習宜阿曾麻呂とが計画し、称徳天皇が承認した、出来レースであったと思われるからです。
だとすると、なぜ清麻呂はその流れに乗らなかったのでしょうか?なぜ長いものに巻かれなかったのでしょうか?道鏡に従えば出世が約束されていたにもかかわらず。道鏡に刃向かえば左遷どころか命を失うかもしれないにもかかわらず。その理由は明らかです。国体を変えることを許せなかったからです。たとえ自らの命を差し出しても、国体を護ると固く決意していたからです。
和気清麻呂が戦ったのは、道鏡でもなければ称徳天皇でもなくて、仏教が国を主導するという政治哲学であり、奈良時代という時代そのものです。仏教はその当時の世界標準です。その当時のグローバリズムです。鎮護国家とは、それに全面的に身を任せるということです。日本という狭い内輪のしきたりから抜け出て、国際社会の普遍的な理念へ乗り換えることです。清麻呂は、その乗り換えは駄目だと考えていたのです。それでは日本という国が溶けてなくなると思っていたのです。だから、我が国を飲み込もうと襲い来るグローバリズムに、単騎、立ちはだかったのです。間違いなく彼は我が国のドンキホーテでした。その戦いは無謀なものでした。ところが、奇跡が起きました。彼は姉ともども生きながらえました。のみならず、宮廷の空気を一変させました。彼の捨て身の突撃は実を結んだのです。「天の日嗣は必ず皇緒を立てよ。无道の人は早に掃ひ除くべし」(天の日嗣には必ず皇統にある者を立てよ。無道の人は早く払い除けよ)を成就することで。
先に、和気清麻呂が桓武朝にて「造営大夫」という官職に就いていたことに触れました。この「造営」とは都の造営のことです。造営大夫とは平安京への遷都事業の責任者です。清麻呂は長岡京から平安京への遷都(794年)を桓武天皇に奏上しました(『日本後紀』延暦十八年二月二十一日条:和気朝臣清麻呂薨伝)。彼こそが平安京遷都の主導者でした〔注9、頁151〕。この進言が採り入れられたため、彼は造営大夫として平安京の造営を担ったのです。のみならず、その前の遷都、すなわち平城京から長岡京への遷都(784年)にも大きな役割を果たしたと推定されています〔注9、頁145〕。というのは、長岡京遷都の決定(『釈日本紀』延暦三年五月十六日条)の前年に、彼は「摂津大夫」に任じられたからです(『釈日本紀』延暦二年三月十二日条)。長岡宮の建物は、聖武天皇が建てた後期難波宮(こうきなにわのみや)〔大阪市中央区〕を移設したものです〔注10〕。すなわち、長岡宮建築のために、摂津国にある後期難波宮は解体され、その部材が山背国(山城国)に搬出され、再度組み立てられました〔注11、頁13〕。和気清麻呂の「摂津大夫」への任用は、その指揮を執るための人事と見られています〔注11、頁12〕。
平城京の時代には仏教界が政治に深く介入しました。長岡京・平安京への遷都で意図したのはその状況を刷新することでした。桓武天皇の側近として和気清麻呂が遷都を強力に推し進めたのは、称徳朝の仏教政治の危うさを身を以て痛感していたからに他なりません。
翻って今日です。
改正皇室典範が成立した翌日の朝日新聞はその社説で次のように主張します。
曰く、「国連の女性差別撤廃委員会は2024年、男系男子の皇位継承を定めた皇室典範の改正を勧告した。象徴天皇制が国民の総意に基づく以上、男女平等を否定し女性を排除する制度づくりは望ましくない。多くの人が怒りや不信感を抱くのは当然だ。欧州では、男女の区別なく長子優先に改めた国も少なくない」(朝日新聞 2026/7/18)と。
2024年10月、国連の女性差別撤廃委員会は我が国に対して、選択的夫婦別姓を導入するとともに、皇位を男系男子に限定することを止めるように勧告しました。国連による明らかな内政干渉であり、越権行為です。
にもかかわらず、この社説は国連の勧告を受け入れよ、欧州の王位継承のルールに倣え、というのです。そもそも、現行の男系男子の皇位継承について、本当に「多くの人が怒りや不信感」を抱いているのでしょうか?一部の学者や言論人や主流メディア業界人はともかく、市井の人々の多くが現行ルールに憤っているのでしょうか?皇室が欧州の王室と異なることを懸念しているのでしょうか?少なくとも私の周囲からはそうした声が聞こえてきません。
こうした社説の底流にあるのは次のような発想であり使命感です。国連や西欧社会の思想や規範や社会のあり方こそがグローバル・スタンダードであり、人類共通の普遍的な理想であり、歴史の正しい道であり、そのことに目覚めている自分たちは、古い考えや陋習に囚われたままでいる大衆を啓蒙し、導かねばならない、というものです。
振り返ってみれば、明治維新以降これまで、我々日本人がひたすら追いかけ続けてきたのが欧米の科学や文明であり、盲目的に受け入れてきたのが欧米の文化や思想です。その結果、我々は物質的に豊かになりました。その一方、旧来の美徳や風習を失い、地域社会を解体してきました。そして今や、これまで蓄積してきた富すらも海外に散逸し、あるいは外国から奪われつつあります。もはや最後の砦が皇室です。
それは、奈良時代の人々が、古来の伝統文化よりも外来の仏教の方が高尚であるとしたのと相通じるものです。天皇よりも高僧の方が上級であるとしたのと同じ価値観です。皇族ではなくて僧侶を天皇にしようとしたのと同じ道です。
平城京の人々はその路線を大転換しました。翻って今の我々はここからも海外を手本とし、その言いなりになっていくのでしょうか?それとも、我が国固有の文化や伝統を守り、それを磨いていくのでしょうか?今回の皇室典範の改正を機に我々が問われているのは、まさにそこなのです。
〔注1〕本稿でいう「即位」とは皇位を受け継いで立つことであり、践祚と同じ意味で用いています。
〔注2〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注3〕中田祝夫(校注・訳) 1995『新編日本古典文学全集10 日本霊異記』小学館
〔注4〕横田健一 1959『道鏡』吉川弘文館(新装版の発行は1988年)
〔注5〕渡辺晃宏 2001『日本の歴史 第04巻 平城京と木簡の世紀』講談社
〔注6〕出家した上皇を法皇といいます。平安時代の宇多天皇〔第59代〕が譲位し、次いで出家したのが、法皇の嚆矢です。その後、白河天皇〔第72代〕や後白河天皇〔第77代〕などは譲位して上皇となり、次いで出家して法皇となり、院政を敷きました。なお、花山天皇〔第65代〕は出家と同時に譲位されました。
〔注7〕米田雄介(編) 2019『令和新修 歴代天皇年号事典』吉川弘文館
〔注8〕佐藤信ら25名(著) 2023『詳説 日本史 日本史探究』山川出版社
〔注9〕平野邦雄 1964『和気清麻呂』吉川弘文館(新装版の発行は1986年)
〔注10〕直木孝次郎・中尾芳治(編) 2003『シンポジウム 古代の難波と難波宮』学生社
〔注11〕川尻秋生 2011『シリーズ日本古代史⑤ 平安京遷都』(岩波新書)岩波書店
2026年9月22日 投稿