前回の投稿で、旧・宮家すなわち伏見宮(ふしみのみや)につき述べました。
 伏見宮は、崇光(すこう)天皇〔北朝第三代〕の皇子である栄仁親王(よしひとしんのう)を始祖として1400年前後(応永年間)に創立されました。
 本稿ではそのいきさつを取り上げます。
 それは南北朝時代(1336年~1392年)に遡ります。これは、南朝の天皇と北朝の天皇とが並立した時代です〔注1〕。二千年を超える皇室の歴史において、天皇が同時に二人いたのは、後にも先にもこの時代だけです。

 1331年(元弘元年)、大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐天皇〔第96代〕は鎌倉幕府の転覆を図ったものの失敗し、幕府により捕縛されて隠岐に配流されました。幕府は、持明院統(じみょういんとう)の光厳(こうごん)天皇〔北朝初代〕を立てました。
 1333年(元弘三年)、鎌倉幕府の有力御家人である足利尊氏(あしかがたかうじ)が反幕府側に寝返り、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を襲撃してこれを落としました。これを契機に各地の武士が倒幕に立ち上がり、鎌倉幕府を滅ぼしました。ただちに京都に帰還した後醍醐天皇は、光厳天皇を廃して、親政を始めました。
 1334年に後醍醐天皇は年号を建武と改めました。それが「建武の新政」です。
 1335年(建武二年)、足利尊氏は今度は後醍醐天皇に反旗を翻しました。そして、光厳上皇の下に走りました。
 1336年(建武三年)、京都を制圧した尊氏は光厳上皇の弟を天皇に擁立しました。それが光明天皇〔北朝第2代〕です。これが北朝の成立です。尊氏は「建武式目」を制定しました。これが室町幕府の開設です〔注2〕
 これに対して、後醍醐天皇は京都を離れて、大和国の吉野に拠点を移しました。これが南朝の成立です。
 ここにおいて、南北朝時代が幕開けました。
 1338年(建武五年)、足利尊氏は北朝の光明天皇により征夷大将軍に任命されました。
 それから半世紀余り経ちました。
 1392年(明徳三年)、尊氏の孫である第三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)の主導により、南朝の後亀山天皇〔第99代〕が北朝の後小松天皇〔第100代〕に三種の神器を引き渡しました。ここにおいて、南北朝の合体が実現し、南北朝時代が幕を下ろしました。その後は北朝の血統が皇位を継ぎました。

 以上は南北朝時代について我々が学校で習うことです。すなわち、足利氏率いる室町幕府は一貫して北朝の側にいたというのが、我々の多くが理解するところです。ところが、解像度を上げてこの時代を見ると、そうではない時期があったことが分かります。それが「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)です。1350年(観応元年)から1352年(正平七年/観応三年)までの室町幕府の内戦です。観応とは北朝の元号です。
 観応の擾乱は、同じ中世の内乱でも「承久の乱」や「応仁の乱」に比べて一般に知名度の点で劣りますが、中世史専門家の間ではその歴史的意義が非常に高く評価されています〔注1②〕〔注1③〕。いわば玄人好みの争乱です。
 これは、本稿のテーマである伏見宮の成立とも不可分の関係にあります。このことが、以下、これについて述べる所以です。

 それは、尊氏の執事である高師直(こうのもろなお)と、尊氏の同母の弟である足利直義(あしかがただよし)との諍いに端を発します。もともとこの二人は手を携えて室町幕府を担っていました。しかし、やがて両者は対立し、1349年(貞和五年)の八月に、直義は政争に敗れて失脚しました。
 続いて、尊氏と直義との兄弟間に亀裂が生じました。それは足利直冬(あしかがただふゆ)への対応を巡るものです。直冬は尊氏の実子ですが、父から冷たく遇われ、直義の養子となった武将です。
 1349年(貞和五年)の四月に直冬は中国地方八カ国を統治する長門探題(ながとたんだい)に任じられ、備後国に赴きました。しかし、同年八月の直義の失脚により、直義派である直冬は幕府から追われる立場となり、九州の肥後国に逃げました。彼は亡命先の九州で急速に勢力を拡大し、幕府の統制が効かない存在となりました。
 1350年(観応元年)、尊氏は直冬を討伐するため九州遠征を決意し、京都を出立しました。その際に、直義は京都を脱出し、大和国に逃れました。そして、なんと、それまで対立関係にあった南朝に降伏したのです。南朝の後村上天皇〔第97代〕はその降伏を受け入れる綸旨を発しました。これを機に、全国各地で直義派が蜂起しました。
 不意を突かれたのが尊氏と師直です。九州遠征どころではなくなった彼らは畿内に引き返しました。ここに尊氏・師直軍と直義軍とが激突しました。勝利したのは直義軍です。敗れた尊氏は講和を申し出ました。直義は、師直の出家を条件にそれを受け入れました。ところが、京都への帰路、師直およびその一族は待ち伏せしていた敵の武将により暗殺されました。
 1351年(観応二年)の三月二日、京都に戻った尊氏は直義と会談してその後の体制につき話し合いました。かくして、尊氏、直義、そして尊氏の子である足利義詮(あしかがよしあきら)の三名による政治が始まりました。ちなみに、義詮は後に尊氏を後継して第二代将軍となります。義詮の子が第三代将軍の義満です。
 権力の座に返り咲くや直義は、南朝との関係を解消し、北朝に軸足を戻しました。南朝を裏切ったのです。その上で、南朝と北朝との講和に乗り出しました。しかし、この交渉は決裂しました。南朝が直義へ不信感を抱いていたことがその一因とされます。この新たな幕府体制もまた短期間で終わりました。直義と、その甥である義詮とが、主導権を巡って対立したからです。
 1351年(観応二年)の七月三十日、政権内で孤立した直義は、自派の武将を連れて再び京都を出奔し、北陸の越前国に逃亡しました。その後、紆余曲折を経て、同年十一月十五日に直義は鎌倉に入りました。

 ここにおいて、尊氏と義詮とは驚くべき策に打って出ました。直義が先鞭を付けたことを倣ったのです。南朝への降伏です。
 直義が関東武士に担がれて新たな幕府を開くかもしれない。それではまるで鎌倉幕府の復活である。そうなったら大変厄介である。できるだけ早くその芽を摘んでしまうに越したことはない。おそらく尊氏はこう考えたのでしょう〔注1⑥、頁203〕。そこで彼は弟・直義を討伐するため、自ら出陣することを決意しました。そうなると、京都の留守を預かるのは義詮です。ここぞとばかりに南朝の軍が京都に攻め入り、幕府を倒す事態に至ることは火を見るより明らかです。そうなったら全てが水の泡です。それを未然に防ぐために、尊氏と義詮とは南朝に乗り換えるという奇策を講じたのです。そのとばっちりを受けたのが北朝です。
 1351年(正平六年/観応二年)の十月二十四日、南朝の後村上天皇は両人の「帰参」を許可しました。こうして幕府と南朝とは和睦しました。これを、南朝の元号をとって、「正平の一統」(しょうへいのいっとう)といいます。同年十一月四日、後顧の憂いを絶った尊氏は出陣しました。同年十一月七日、北朝の崇光天皇〔北朝第三代〕は退位しました。直仁(なおひと)親王は皇太子を廃されました。ここに北朝は一旦消滅しました。幕府も北朝も同意して、京都は南朝が治めることになりました。
 ちなみに、崇光天皇は光厳上皇の皇子です。このことは、この後でポイントになります。

 このように、足利尊氏は、まず北条氏を、次に後醍醐天皇を、次に崇光天皇を裏切りました。その時々のやむを得ない事情があったにせよ、結局のところ権力への愛しさ故に、北条氏と二人の天皇を次々と手玉に取ったのです。かくの如く、畏れ知らずで、変わり身が早いことがこの人物の強みです。源氏の名門の御曹司という出自、圧倒的な人間的魅力、鋭敏な政治的嗅覚、卓越した軍事的才覚、果敢な行動力の五拍子を揃え持っていたことが、彼をして、この動乱の世の主役に押し上げ、その座に留めさせました。彼がこの時代を揺さぶり、そして転換させたことは紛れもない事実です。この傑物をどう評価するかは、人により大きく分かれるところです。歴史上、彼ほど毀誉褒貶が激しい人物は他に見当たりません。

 1351年(正平六年/観応二年)十一月十五日、直義が鎌倉に入ったことは前述の通りです。こうして、この足利の兄弟は関東の武者を二分し、激突しました。勝利したのは尊氏です。
 1352年(正平七年/観応三年)一月、直義は降伏しました。同年二月二十六日、直義は鎌倉で死去しました。享年四十六。『太平記』第三十巻によれば、その当時、毒殺と噂されたとのことです。真相は不明です。

 しかし、正平の一統は僅か数ヶ月で破綻しました。それは、南朝と幕府との間で和睦内容の理解に隔たりがあったからであり、相互不信が拭えていなかったからです。案の定、武力で白黒を付ける流れになりました。先に動いたのは南朝です。
 建武の新政へと時計の針を戻す夢を追い続けていたからです。幕府が内戦に陥っている今が、それをつぶす絶好機であると判断したのです。足利尊氏の実力ひいては幕府の底力を見くびったのです。結果論ですが、このことが南朝の先細りを決定づけました。幕府と共存共栄を図れば、その後の歴史は南朝の天下となったでしょう。しかし、南朝はその最大のチャンスを自らつぶしてしまいました。

 1352年(正平七年/観応三年)二月二十日、南朝の軍は幕府を倒すために京都に攻め入りました。敗れた義詮は近江国に退却しました。これにより南朝が一時的に京都を占拠しました。

 まさにこの時です。京都に取り残された、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王の北朝の皇族は南朝により身柄を拘束されました。
 同年の三月、義詮は近江に軍勢を集結させ、その勢いを以て攻め上って京都を奪回しました。南朝は京都から撤退する際に北朝の皇族を自らの陣地に連れ去り、「賀名生」(あのう)に幽閉しました。「賀名生」とは、現在の奈良県五條市西吉野町賀名生です。西吉野の山中です。この時の南朝の意図は明白です。幕府が朝廷という神輿を再び担ぎ出せないようにするためです。幕府の統治に正統性を与えないためです。
 困ったのは義詮です。京都に戻ったものの、戴くべき主要な皇族が悉く都から消えていたからです。義詮にとっての救いは、一人の皇子が取り残されていたことです。光厳上皇の子であり、崇光上皇の同母の弟である弥仁王(いやひとおう)です。北朝の傍流であるこの王は、その時、天台宗の仏門に入る直前でした。しかし、出家は急遽取りやめとなりました。
 1352年(観応三年)八月十七日、弥仁王は親王宣下を受けることなく、いきなり践祚しました。それが後光厳天皇〔北朝第四代〕です。三種の神器を欠いたその即位には、有職故実を重んじる公家は挙ってその正統性に疑義を呈しました。しかし幕府は公家の反対を押さえつけて即位ならびに大嘗祭を強行しました。ちなみに、この時の後光厳天皇は満14歳であり、同母兄である崇光上皇は満18歳です。

 やがて北朝の皇族の幽閉が解かれました。
 1355年(文和四年)八月に光明上皇が、1357年(延文二年)二月に光厳上皇と崇光上皇と直仁親王とが京都に帰りました。この時の南朝は後村上天皇の御代です。
 北朝の後継問題が起きたのはその後です。

 光厳上皇は、1352年(文和元年)八月八日に幽閉先の賀名生にて出家しました。帰京後は禅僧としての日々を送り、1364年(貞治三年)七月七日に崩御しました。
 帰京した崇光上皇は「伏見殿」に居を定めました。伏見殿とは持明院統の院の御所であり、現在の京都市伏見区の桃山に所在しました。そして、父である光厳上皇から持明院統の主な文物や荘園を受け継ぎました。つまり、崇光上皇こそが北朝の嫡流です。後光厳天皇は北朝の傍流です。

 時が経ち、後光厳天皇の後継問題が持ち上がりました。
 後光厳天皇は自らの皇子である緒仁親王(おひとしんのう)への譲位を進めようとしました。その阻止を図ったのが、兄である崇光上皇です。上皇にしてみれば、「弟が皇位に就けたのは我々が南朝に拉致されたからである。要は中継ぎの天皇であるに過ぎない。持明院統の正統は我にある。皇位は正嫡に戻すべきである」と考えていたからです。かくして崇光上皇は自らの嫡子である栄仁親王(よしひとしんのう)を次期天皇に強く推しました。
 両陣営がそれぞれの立場から頼ったのが幕府です。

 1368年(応安元年)十二月に足利義満が第三代将軍に就きました。就任時に義満は11歳であったため、将軍が成長するまで、その補佐役が幕政を取り仕切りました。それが、管領である細川頼之(ほそかわよりゆき)です。後光厳天皇は、幕府を主導する頼之を味方とすることに成功して、自らの皇子への譲位を勝ち取りました〔注1②、頁180〕
 1371年(応安四年)三月二十三日、こうして緒仁親王が践祚しました。それが後円融天皇〔北朝第五代〕です。
 これに憤懣やるかたない思いであったのが崇光上皇です。しかし、すべては後の祭りでした。ここにおいて、この兄弟は完全に仲違いしました。
 1374年(応安七年)正月二十九日に後光厳上皇は崩御しました。享年満35です。
 1382年(永徳二年)四月十一日に、後円融天皇は自らの皇子である、満4歳の幹仁(もとひと)に譲位しました。幹仁は親王宣下のないまま即位しました。これが後小松天皇〔第100代〕です。崇光上皇はこの時存命していましたが、既に力を失っていたため、この譲位に口出しできませんでした〔注1②、頁181〕
 皇位を譲った後円融上皇は形式的ながら院政を開始しましたが、1384年(永徳四年)四月二十六日に崩御しました。
 1398年(応永五年)正月十三日に崇光上皇は崩御しました。享年満63です。皇子である栄仁親王を即位させるという長年の悲願を果たせぬまま世を去ったのです。家督は栄仁親王が継ぎました。後述するように、崇光上皇という大黒柱を失ったことが、その一族の立場と生活基盤とを著しく弱体化させました。

 幕府において、将軍就任当初は細川頼之の補佐を必要としていた足利義満でしたが、1376年(永和二年)あたりからは自ら政務を執り始めました〔注1②、頁180〕
 上記の通り、1382年に後円融上皇は院政を開始したものの、それは形の上に過ぎず、実権を握ったのは義満でした。つまり、義満は公家社会と武家社会との両方を支配したのです。
 1392年(明徳三年)に南朝の後亀山天皇〔第99代〕は三種の神器を携えて吉野を出発し、同年閏十月五日、京都の後小松天皇のもとに神器を届けました。ここに南北朝は合一しました。南北朝時代の終幕であり、実質的な南朝の終焉です。この一大事を主導したのが足利義満です。
 1394年(応永元年)十二月十七日に義満は将軍の職を子息である足利義持〔第四代将軍〕に譲り、同年同月二十五日に太政大臣に就任しました。
 1395年(応永二年)六月三日に義満は太政大臣を辞して、同月二十日に出家しました。これら一連の行動は、公家と武士との双方の身分を超越した、絶対的な権力者になることを目論んだものでした。そして、実際にその通りとなって栄華を極めました。
 1398年(応永五年)正月十三日に崇光上皇が崩御するや、義満は強権を発揮して、上皇の所領をことごとく召し上げ、それを後小松天皇の所管に移しました〔注1②、頁182〕。ただしこれには一定の正当性がありました。崇光上皇の所領は、父である光厳上皇から相続したものです。その際の光厳上皇の遺言書には、「崇光上皇の皇子が即位すれば所領はその者に相続せよ。そうでない場合は、所領は時の天皇のものとせよ」という趣旨のことが書かれていました〔注3、頁28〕。これに従うならば、栄仁親王が皇位に就けなかった以上、持明院統の所領が後小松天皇のものとなるのはやむを得ないことになります。とはいえ、義満の措置は、父を喪って落ち込んでいる栄仁親王にとって、それに追い打ちをかけるような、情け容赦ない仕打ちであったことは間違いありません。すっかり意気消沈した栄仁親王は、父を喪った約四ヶ月後の1398年五月二十六日に出家してしまいました。
 ここにおいて、名実ともに、持明院統の嫡流が崇光天皇の後裔から後光厳天皇の後裔に移ることが決定的となりました。

 皇位に就く芽がなくなった栄仁親王は、住居である伏見荘(ふしみのしょう)を拠点にして、1400年頃に新たに宮家を興しました。これが「伏見宮」の始まりです。伏見荘は現在の京都市伏見区の桃山にありました。
 伏見宮家の没落ぶりは目を覆うばかりの状況になりました。それを救うために、いくつかの所領が宮家に与えられました。

 1408年(応永十五年)五月六日、足利義満は急逝しました。
 1412年(応永十九年)八月二十九日、後小松天皇は自らの皇子である、満11歳の実仁親王(さねひとしんのう)に譲位しました。これが称光天皇〔第101代〕です。後小松上皇は院政を開始しました。

 1416年(応永二十三年)十一月に伏見宮・栄仁親王が世を去りました。
 家督を継いだのは、栄仁親王の皇子である治仁王(はるひとおう)です。これが伏見宮家第二代当主です。ところが、その三ヶ月後の1417年(応永二十四年)二月に王は急逝しました。治仁王には娘が三人いるだけでした。そのため、家督を継いだのは、治仁王の兄弟である貞成王(さだふさおう)です。これが伏見宮家第三代当主です。
 貞成王は、自分の系統こそが持明院統の正統であるという意識を受け継いでいました。その彼が強く望んだのは親王の号でした〔注3、頁30~32〕
 前回の投稿で説明したように、令(りょう)の規定では、親王とは天皇の兄弟または子に限られます。とはいえ、中世になるとそれが弾力的に運用されるようになりました。令の規定に該当していなくても、親王宣下を受けて親王になる事例が現れました。しかも、天皇からの世代数に縛られず、父系の後嗣がいる限り、皇族であり続ける特別な家系が公認されました。それが世襲宮家です。その先駆けが、常磐井宮(ときわいのみや)と木寺宮(きでらのみや)です。
 崇光天皇の孫である彼には、令の規定によれば、親王の資格はありません。しかし彼は夢に見るまでして親王号に執着しました。
 そのためもあってか、貞成王は後小松上皇に接近しました。伏見宮家伝来の秘宝や秘記を次々と後小松上皇に献呈しました。その甲斐あって、両者の関係は完全に修復されました〔注4、「貞成親王」、執筆担当は中村一郎〕
 1425年(応永三十二年)四月二十四日、貞成王は遂に念願が叶いました。後小松上皇により親王宣下されたのです。こうして晴れて貞成親王(さだふさしんのう)となりました。満53歳の時です。

 親王に昇格できたのは、単に上皇との関係が良好であっただけではありません。上皇の側にその必要があったことが決定的な理由です。
 それは称光天皇の後継問題です。称光天皇は生来病気がちであり、父である後小松上皇とは不和でした。天皇は二人の内親王をもうけましたが、親王には恵まれませんでした。後小松上皇には、称光天皇の他にもう一人だけ皇子がいました。称光天皇の弟です。それが小川宮です。小川宮は称光天皇の後継者と目されていました。ところが、1425年(応永三十二年)二月に小川宮は僅か二十歳で急逝しました。そのため称光天皇の後を継ぐ皇子がいなくなりました。
 その二ヶ月後に後小松上皇が貞成に親王宣下したのは、そういう事情があったからです。というのも、貞成親王には皇子がいたからです。それが彦仁王(ひこひとおう)です。
 父の動きに逆上したのが称光天皇です。上皇が自分を蔑ろにしていると思った天皇は精神異常を来し、出家して退位すると言い出しました。困った後小松上皇は、宣下したばかりの貞成親王に出家を要請しました。貞成親王は、上皇や幕府が彦仁王を次の天皇にするつもりでいることを確信して、その要請に従うことにしました。こうした経緯により、1425年(応永三十二年)七月五日、貞成親王は仏門に入りました。
 1428年(正長元年)七月二十日、称光天皇が崩御しました。享年満27です。

 ここで再び大覚寺統が動き出しました。南朝最後の天皇である後亀山天皇の孫である小倉宮聖承(おぐらのみやせいしょう)は、称光天皇の余命が幾ばくもないことを知るや、1428年(正長元年)七月六日に出奔して伊勢国に向かいました。伊勢国司・北畠満雅(きたばたけみつまさ)を頼って挙兵しようとしたのです。満雅は、南北朝時代の南朝の英雄であり『神皇正統記』の著者として名高い北畠親房(きたばたけちかふさ)の曾孫です。
 大覚寺統の動きを知った幕府と上皇はすぐさま対応しました。七月十二日、貞成のもとに使者を送り、彦仁王に京へ来ることを命じたのです。これが何を意味するのかは明白でした。伏見宮家は大喜びでこの命令に応じました。七月十三日、幕府管領・畠山満家の手勢四・五百人が彦仁王を迎えに来ました。南朝の残党に王が拉致されるのを防ぐために、万全の警護体制で臨んだのです。七月十七日に後小松上皇の御所に彦仁王は入りました。上皇は王を自らの「猶子」(ゆうし)としました。猶子とは、我が国の伝統的な擬制的親子関係であり、他人の子を形式上我が子とすること、またはその子のことです。
 1428年(正長元年)七月二十八日、彦仁王は、親王宣下のないまま、践祚しました。満9歳でした。これが、後花園天皇〔第102代〕です。現皇室は後花園天皇の後裔です。

 1433年(永享五年)十月二十日、後小松上皇は崩御しました。享年満55です。
 1456年(康正二年)八月二十九日、貞成親王は没しました。享年満84です。伏見宮家は、貞常親王(さだつねしんのう)が家督を継ぎました。これが伏見宮家第四代当主です。貞常親王は、後花園天皇の六歳下、同母の弟です。
 貞成が永眠した直後、後花園天皇は貞常親王に貞成の紋を使うことを命ずるともに、「御所」という号の永代使用を許しました〔注3、頁43〕。ここにおいて、伏見宮家は名実ともに世襲親王家としての地位を確かなものとしました。現在の旧・宮家は貞常親王の後裔です。

 一つ、付言します。

 彦仁王の即位は長く燻り続けていた問題を再燃させました。持明院統の正統の座を巡る、崇光天皇の系統(以下、「崇光系」と略す)と後光厳天皇の系統(以下、「後光厳系」と略す)との骨肉の争いのことです。
 彦仁王は崇光天皇の曾孫です。だから、彦仁王を出した伏見宮家は、その即位を以て持明院統の嫡流が再び崇光系に戻ったと受け取りました。
 それでは面白くないのが、後光厳天皇の孫である後小松上皇です。上皇が彦仁王を御所に招き入れて自らの「猶子」としたのは、彦仁王は後光厳系の皇子であるという建て付けにするためでした〔注3、頁38〕。そうすることで、後花園朝の成立を以て持明院統の嫡流は崇光系に移るのではなくて、後光厳系のままであるという体裁をとったのです。まさにすさまじい執念です。

 ところが、それで一件落着にはなりませんでした。後小松上皇が崩御した後のことです。揉めたのは「諒闇」(りょうあん)の問題です〔注3、頁39〕。諒闇とは、天子が父母の崩御に際して一年間喪に服することです。後花園天皇は後小松上皇の猶子であるため、これが適応されます。ところが、時の将軍〔第六代将軍〕である足利義教(あしかがよしのり)が、実子ではないので諒闇の必要はないと言い出しました。それに慌てたのが、亡き後小松上皇の近臣たちです。彼らは必死に義教を説得して、翻意させました。こうした経緯で後花園天皇は諒闇に服し、そのことで後光厳系による皇位の継承という建前が守られました。後花園天皇を崇光系と理解する貞成はこの顛末に大いに不満でした。

 次に起きた問題が「太上天皇」号です〔注3、頁41~43〕。本来これは、退位した天皇に新たな天皇が贈る尊号です。貞成は天皇の父であるとしてこの尊号を熱望しました。後花園朝の内部では、それは無理筋であるとして、反対意見が多数を占めていました。
 後小松上皇の崩御から十数年を経た1447年(文安四年)十一月、後花園天皇は貞成に太上天皇の尊号を与えました。ところが、です。その翌年の二月、なんと貞成はこの尊号を返上しました。漸く叶った望みであったにもかかわらず、です。それは何故でしょうか?おそらく、貞成が本当に欲したのは、その尊号自体ではなくて、天皇の父であることの認定なのです。天皇によりその尊号が一旦与えられたことで、その関係が公に確定しました。貞成はそれで十分だったのです。それにより、持明院統の正統の座を崇光系が奪還するという、亡き父・栄仁親王の悲願を自分の代で遂に実現した。貞成はそう判断したのです。その大願を成就した以上、太上天皇の号を無理に持ち続ける必要はありません。後花園天皇に肩身の狭い思いをさせるだけです。だからその尊号を返上したのです。こうして貞成は、自らの子を後小松上皇から取り返しました。これまたすさまじい執念です。

 つづく

〔注1〕南北朝時代の朝廷および足利氏の記述には以下の成書を参考にしました。
 ①新田一郎 2001『日本の歴史 第11巻 太平記の時代』講談社
 ②森茂暁 2007『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館
 ③亀田俊和 2017『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』(中公新書)中央公論新社
 ④亀田俊和・生駒孝臣(編) 2021『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版
 ⑤亀田俊和・杉山一弥(編) 2021『南北朝武将列伝 北朝編』戎光祥出版
 ⑥森茂暁 2026『南北朝時代』(講談社現代新書)講談社
 ⑦兵藤裕己(校注) 2014~2016『太平記 (一)~(六)』(岩波文庫)岩波書店

〔注2〕「室町幕府」とは、1378年に第三代将軍・足利義満が京都の室町通りに邸宅を構えたことを素にして、後世に作られた歴史用語です。よって字句に拘れば、それ以前は「室町」の幕府とは言えません。とはいえ、歴史学では、1336年に足利尊氏が「建武式目」を制定したことを以て室町幕府の成立とするのが通例です〔注1⑥、頁157〕。本稿はこれを採ります。

〔注3〕浅見雅男 2020『もうひとつの天皇家 伏見宮』(ちくま文庫)筑摩書房〔原本は2012年に講談社より刊行〕

〔注4〕米田雄介(編) 2019『令和新修 歴代天皇年号事典』吉川弘文館

 ◎本稿において、天皇および親王についての記述には以下の成書を参照しました。
 ・笠原英彦 2001『歴代天皇総覧 皇位はどう継承されたか』(中公新書)中央公論新社
 ・米田雄介(編) 2019『令和新修 歴代天皇年号事典』吉川弘文館

 ◎本稿において、伏見宮についての記述には以下の成書を参照しました。
 ・森茂暁 2007『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館
 ・浅見雅男 2020『もうひとつの天皇家 伏見宮』(ちくま文庫)筑摩書房〔原本は2012年に講談社より刊行〕

 2026年9月7日 投稿