前回の投稿で、大吉備津彦と若建吉備津彦との兄弟が吉備を征服するに当たって、兵庫県の加古川の手前で軍団の士気を鼓舞したことを語りました。それが、『古事記』が記す「針間(はりま)の氷河之前(ひかはのさき)に忌瓮(いはひへ)を居ゑて、針間を道の口と為て、吉備国を言向(ことむ)け和(やは)しき」(播磨の氷河の岬に忌瓮を据えて、播磨を道の入り口として、吉備国を制圧し、平定した)です。
 本稿では、この遠征軍がいよいよ岡山に入ってからのことを取り上げます。

 弥生時代終末期から古墳時代前期前半まで、すなわち暦年代で概ね三世紀のこと。岡山県の考古学者はこの時期の吉備の集落について長年に亘って知見を積み重ねました。その研究成果が近年になって順次発表されました。それを見てみましょう。

 岡山県の三大河川と言えば、西から順に、高梁川(たかはしがわ)、旭川(あさひがわ)、吉井川(よしいがわ)です。これらはすべて一級河川です。高梁川は瀬戸内海に直接注ぎます。旭川と吉井川とは、瀬戸内海に繋がる児島湾に注ぎます。
 旭川と吉井川との間を流れるのが百間川(ひゃっけんがわ)であり、児島湾に注ぎます。これは、江戸時代に造られた人工河川です。旭川の氾濫から岡山城下を守るため〔写真1〕、旭川を分流する工事が行われました。それにより出来た分流が百間川です。

〔写真1〕岡山城と旭川

〔写真1〕

 旭川の西を流れる二級河川が笹ヶ瀬川(ささがせがわ)です。児島湾に連なる児島湖に注ぎます。
 笹ヶ瀬川の支流の一つが足守川(あしもりがわ)です。弥生時代においては海岸線は現在より内陸にあり、児島は文字通り島でした。そのため、足守川は瀬戸内海に直接注いでいたと推定されています。

 吉備では、庄内2・3式併行期以降、すなわち三世紀前半以降、足守川下流域の一部の集落において人口が急増しました〔注1〕〔注2〕。具体的には、津寺遺跡〔岡山県岡山市北区津寺〕や足守川加茂B遺跡〔岡山県岡山市北区加茂〕です。
 岡山県古代吉備文化財センターの河合忍氏の2016年の論文によると、吉備南部の足守川下流域の集落は、古墳時代前期Ⅰ(古墳時代前期前葉)に「竪穴住居数は急増をみせる。時期全体で弥生時代終末期(後期Ⅳ)の115軒から292軒と約2.5倍の伸びを示している。このうち、津寺遺跡周辺で約3分の2(203軒)、足守川遺跡群でも62軒(うち、足守川加茂B遺跡が42軒)を占めるなど、極端な偏在と集中が認められる」〔注2〕とのことです。
 この増加は足守川下流域内での人口動態では説明できず、隣接した総社平野などからの人口流入が推定されています〔注2〕
 この時期に、津寺遺跡周辺と臨海部の集落(上東遺跡など)に多種多様な外来系土器がもたらされました〔注2〕。それらは四国(讃岐・阿波)、山陰、近畿などの土器です〔注3〕。他地域との交流が活発に行われていたことが分かります。その中でも津寺遺跡(つでらいせき)〔写真2〕は「吉備南部における遠隔地との交易・交流の拠点的集落」〔注4〕と見られています。

〔写真2〕津寺遺跡

〔写真2〕

 津寺遺跡でとりわけ注目されるのは方形区画およびその内側の大型掘立柱建物です。
 1998年発刊の発掘調査報告書において、亀山行雄氏は曰く、「3棟ある側柱建物のうち、最も大きい建物-54は桁間8mあり、4間分ある柱は布掘り状の堀り方をもつ。梁間は5mあるが妻柱は確認されておらず、独立した棟持柱を有していたとも考えられる。限定的な調査にとどまったためその性格を知る手掛かりに乏しいが、集落中央の、柵列に囲まれた空間内にあるこの建物が、この集落において重要な役割を果たしていたことは間違いないであろう」〔注5、頁715〕と。
 河合氏もまたこれに注目します。曰く、「これは方形の溝(柵列)に囲まれた、現状で約15×20m以上の規模を有する区画の中に桁行4間(約8.1m)、梁間1間(約5.2m)の布掘りの大型掘立柱建物が建てられた特徴的なものである。(中略)。これらのことから、津寺遺跡の方形区画および布掘りの大型掘立柱建物は、竪穴住居が密集する津寺遺跡のなかにおいてもとりわけ重要な施設であった可能性があり、津寺遺跡の性格を考えるうえでも注目される」〔注2〕と。

 ところが、です。古墳時代前期中葉すなわち三世紀第4四半期になると、突如として津寺遺跡の人口が激減しました。
 亀山氏は曰く、「古墳前期を通して300軒近くの竪穴住居が営まれた津寺遺跡も、古・前・Ⅱに至って解体に向かう。その原因は判然としないが、下流に位置する足守川遺跡群ではこの時期の遺構が厚い洪水砂で覆われていることからすれば、この一帯が大規模な水害に見舞われたものと推測される。津寺遺跡においても東の低位部に洪水の痕跡をとどめており、その生産基盤に壊滅的な打撃を被ったことも容易に想像される。しかし、居住域が冠水した様子は窺われず、中期には再び集落の展開が見られることからすれば、あるいはそうした災害によって、この集落の担っていた機能の減退ないし喪失を招いたことが、集落解体の主たる要因として働いたとも考えられる」〔注5、頁716~717〕と。
 とともに、前述の布掘りの大型掘立柱建物もまた姿を消します。「しかし、この建物も古・前・Ⅱ期には姿を消しており、集落から切り離されて他地へ移された可能性がある」〔注5、頁715〕と。
 ここでいう「古・前・Ⅱ」とは、古墳時代前期中葉のことであり、三世紀第4四半期です。亀山氏によれば、この時期に津寺遺跡が解体されました。亀山氏はその原因を大規模な水害に見舞われたことと推定します。津寺遺跡の被害は「東の低位部に洪水の痕跡をとどめており」に留まり、「居住域が冠水した様子は窺われず」にもかかわらずです。だとすると、ここで疑問が生じます。本当に水害が主たる原因なのでしょうか?

 この亀山氏の見解はその後も踏襲されています。
 河合氏曰く、「前期Ⅱの前半までは前段階の様相を引き継いでいるが、前期Ⅱの後半から前期Ⅲにかけて竪穴住居数が激減する。この要因の一つとして、足守川下流域一帯を襲った洪水の存在が指摘されている。(中略)。竪穴住居が集中的にみられた津寺遺跡では、微高地への被害は免れたようだが、生産域であった低位部が被害にあっており、壊滅的な被害を受けたことが指摘されている。その結果、津寺遺跡(集落)の担っていた機能の減退ないし喪失を招いたとの見解も出されている(亀山 1998)。全てが洪水との関係で語れるとは限らないが、足守川下流域の竪穴住居数がこの段階に激減していることは事実であり、この間に大きな社会的変動が起きていたことは確実である」〔注2〕と。
 方形区画および布掘りの大型掘立柱建物についても同様に、「一方、この方形区画は次の古墳時代Ⅱには姿を消すものであり、そこからこのような特別な区画が集落から切り離されて、別の場所に移った可能性も指摘されている(亀山 1998)。また、貯蔵穴も基本的にこの時期以降集落から消滅している」〔注2〕とのことです。
 ちなみに、ここでいう「前期Ⅱ」とか「古墳時代Ⅱ」とかは、古墳時代前期中葉のことです〔注2〕

 生産域が水害にあっただけならば、それを立て直せばよいはずです。にもかかわらず、津寺の人々は、どうして集落から消えてしまったのでしょうか?やはり、「全てが洪水との関係で語れるとは限らない」と見るべきです。「この間に大きな社会的変動が起きていたことは確実である」として、その変動の原因を単なる自然災害で片付けるのは安直に過ぎます。河合氏がいみじくも指摘するように、「このことは先にみた、瀬戸内海を意識したであろう首長墓の系譜がこの段階で途切れることと一致した動きと指摘されており(亀山1998)、政治的動向と深く関わっていた可能性が考えられる」〔注2〕のです。

 2025年に河合氏は三世紀の旭川下流域東岸(旭東地域)における集落遺跡についての論文を発表しました〔注6〕。その集落遺跡とは百間川遺跡群などです。河合氏によると、古墳時代前期前葉に竪穴建物が多数ありましたが、前期中葉に入るとその数が大きく減少しました。とりわけ、最大の建物数を誇った百間川原尾島遺跡〔岡山県岡山市中区藤原光町〕において、その衰退は顕著でした。この遺跡では、弥生時代終末期および古墳時代前期前葉に多数の外来系土器(西部瀬戸内や近畿などの土器)が運び込まれていました。ところが、古墳時代前期中葉に入るとその数量が激減しました。

 津寺遺跡などの足守川遺跡群は、令制国でいうと、備中の南東部に位置します。旭川下流域東岸の遺跡群は備前の南西部に位置します。両者が同時期に衰退したのです。とすると、津寺遺跡の人口激減の主原因が水害ではないことは明らかです。古墳時代前期中葉に、吉備の中心部全体に及ぶ事変が起きたのです。そのため、備中でも備前でも人口が大きく減少し、備中の津寺遺跡の大型掘立柱建物が消滅したのです。
 問題は、その事変が何であったのか、です。

 その謎を解く鍵が百間川遺跡群にあります。
 先述したように、古墳時代前期前葉までその中心であった百間川原尾島遺跡では、前期中葉に人口が激減しました。ところが、その近隣の百間川沢田遺跡〔岡山県岡山市中区沢田〕では、原尾島遺跡の衰退を横目に、重要な変化が現れました。河合氏によると、「この段階で特に重要なのは、沢田遺跡2-1微高地上に、面積が50㎡を超える大型の方形建物と、棟方向を揃えた布掘りの大型掘立柱建物3棟が正方位を意識して整然と並び、塀で周囲から遮断された特別な区画が4期に出現していることである。これらの建物は旭東地域では最大級であり、23.1㎡の床面積をもつ掘立柱建物は、地方の政治的・経済的有力者である豪族居宅付属の倉に匹敵する規模である」〔注6〕ことです。
 ここでいう「4期」とは古墳時代前期中葉の前半であり、概ね270年~280年のことです〔注6〕。この時期の備前地域に強大な首長が突如として現れたのです。それは一体誰でしょうか?
 これに関連して注目すべきは、「この時期には旭東地域を見下ろす丘陵上に全長40m規模の前方後方墳である備前車塚古墳(4期)が出現」〔注6〕することです〔写真3〕〔写真4〕。備前車塚古墳(びぜんくるまづかこふん)〔岡山県岡山市中区四御神・湯迫〕は、別名を湯迫車塚古墳(ゆばくるまづかこふん)ともいいます。

〔写真3〕備前車塚古墳

〔写真3〕

〔写真4〕備前車塚古墳がある山の麓から望む備前平野部

〔写真4〕

 以上、三世紀の吉備中心部における考古学上の知見を見てきました。その背後には、いかなる歴史が隠れているのでしょうか?私はそれが吉備津彦兄弟による吉備平定であると見ます。
 大和政権が放った吉備津彦兄弟の軍が吉備国に襲いかかりました。そして、待ち構えていた在地政権軍と激しい戦闘を繰り広げたのです。それは、260年代の終わりのことです。考古学が示すのは、それは凄惨な戦いであった、ということです。戦いの犠牲になったのは、双方の戦闘員だけではありません。吉備国の住民もまた悉く蹂躙されました。勝利したのは征服者の方です。吉備国の人々は、あるいは殺され、あるいは逃亡し、あるいは拉致されました。その結果、それ以後も吉備国の中心部に住み続ける人が激減したのです。
 津寺遺跡の大型掘立柱建物は吉備国の王宮です。戦いに敗れた吉備国の王および指導者層は、例外なく、命を奪われ、あるいは自ら命を絶ちました。件の建物が270年代以降に消えたのはそのためです。主を失ったからです。

 私は邪馬台国吉備説をとります〔注7〕〔注8〕〔注9〕。邪馬台国の所在地は吉備であるということです。この立場からは、津寺遺跡こそが、魏志倭人伝のいう「倭国」政権の中枢部です。そして、そこの方形区画および大型掘立柱建物こそが、卑弥呼と台与の宮殿跡です〔注9、上巻・頁234〕

 それに対して、百間川沢田遺跡に登場した大型掘立柱建物の主は誰でしょうか?言うまでもなくそれは征服軍の最高指揮官、すなわち大吉備津彦です。2019年に上梓した拙著で説いたように〔注9、第十三章・第六節〕、大吉備津彦が永眠するやその亡骸は山の尾根に埋葬されました。あたかも備前の平野部を眺望できるようにするかのように〔写真4〕。それが備前車塚古墳です。

 岡山市が編纂した『岡山市史 古代編』において鎌木義昌氏は、備前車塚古墳の被葬者について、「二人の吉備津日子命によって代表される吉備の王者、つまり岡山平野の諸集落を支配した権力者が、この竜ノ口山塊の最初の被葬者として浮き上ってくることになるのである」〔注10〕と述べて、吉備津彦兄弟のいずれかがこの古墳の被葬者であるとする見方を示しました。これを受けて、備前車塚古墳にある案内板には「被葬者は古事記にある『吉備上道臣之祖』大吉備津日子命とされている」とあります〔写真5〕。私は、これと見解を同じくします。

〔写真5〕備前車塚古墳の案内板

〔写真5〕

 公式に大吉備津彦の陵とされるのは、「吉備の中山」(きびのなかやま)の山頂の中山茶臼山古墳(なかやまちゃうすやまこふん)〔岡山県岡山市北区吉備津〕です。これは備前と備中との境界線上に位置する前方後円墳です。宮内庁が管理する御陵です〔写真6〕。私は、ここに眠るのは大吉備津彦ではなくて、その弟である若建吉備津彦であると見ます〔注9、下巻・頁228〕。ちなみに、河合氏によれば、備前車塚古墳と中山茶臼山古墳とは、どちらも三世紀第4四半期の古墳です。編年上の順序は、前者が先〔河合編年の古墳4期〕であり、後者が後〔河合編年の古墳5期〕です〔注6〕

〔写真6〕中山茶臼山古墳

〔写真6〕

 岡山は昔話・桃太郎の発祥地です。JR岡山駅東口に「桃太郎」像があるのはそのためです〔アイキャッチ画像〕
 その素となったのが温羅(うら)伝説です。この伝説に関わる神社が、吉備の中山の麓に鎮座する、吉備津神社(きびつじんじゃ)〔岡山県岡山市北区吉備津〕〔写真7〕です。その主たる祭神は「大吉備津彦大神」です。『延喜式』神名帳の備中国賀夜郡の名神大社(みょうじんたいしゃ)、「吉備津彦神社」がこれに当たります。

〔写真7〕吉備津神社

〔写真7〕

 この神社には「御竈殿」という建物があります〔写真8〕。ここで執り行われる神事が「鳴釜神事」(なるかましんじ)です。

〔写真8〕吉備津神社の御竈殿

〔写真8〕

 私は、2009年に上梓した拙著『吉備の邪馬台国と大和の狗奴国』〔注8〕の【プロローグ】と【エピローグ】にて、桃太郎と温羅伝説についての拙文をしたためました。これは、邪馬台国は吉備であり、狗奴国の都が大和であるという立場から語ったものです。以下、その【エピローグ】を転載します。

 エピローグ 温羅伝説と桃太郎
 神社建築の傑作と評される国宝「吉備津造」で名高い、三備(備前、備中、備後)の一宮、吉備津神社(岡山県岡山市)〔注一〕。安芸の厳島神社と並んで山陽道を代表する「延喜式」名神大社である。これが異彩を放つのは、他に類例を見ない特異な社殿だけによるのではない。古より伝わる大変に奇妙な神事が否が応でもミステリアスな香りを漂わせる。「鳴釜の神事」である。御釜殿と呼ばれる建物の中で、神官と巫女とが釜を挟んで相対する。神官は祝詞をあげ、巫女は釜を焚く。やがて釜が音を立てる、その鳴り具合で吉凶を占うという神事である。謎めいているのは、『吉備津宮縁起』に記され、今も人口に膾炙する、その由来譚である〔注二〕。大吉備津彦の鬼退治とも、温羅伝説とも呼ばれるそれは、その怪奇性の故に、世を問わず人々の物語的想像力を掻き立てずにおかない。江戸時代に上田秋成の小説『雨月物語』で、怪談「吉備津の釜」として採り上げられて以来、広く世に知られるところとなっている。
 話の主人公は神社の主祭神・大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)である。孝霊天皇の皇子にして、崇神天皇の御代に吉備平定の軍功をあげた、あの比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりびこのみこと)〔以下では単にミコトと略称する〕その人である。昔々、吉備国には名を温羅(ウラ)といい、あるいは「吉備冠者」(きびかじゃ)とも呼ばれる鬼神が棲んでいた。西国から都への貢ぎ物を運ぶ船を襲ったり、婦女子を略取したりと、暴虐の限りを尽くして人々を苦しめ恐れさせていた。そこで人々は窮状を朝廷に訴えた。事態を憂慮した朝廷は軍を送って鬼を退治しようと試みたが、変幻自在のウラの相手にはならなかった。そこで白羽の矢が立ったのが、切り札ともいうべき、武勇の誉れ高いミコトである。吉備に赴いたミコトはさっそく本陣を敷いた。その場所が吉備の中山である。今に、その中腹に吉備津神社が鎮座する。また、西には石の楯を築いて防御を固めた。これが楯築神社、すなわち今の楯築弥生墳丘墓である。
 さて、いよいよ戦いの火ぶたが切って落とされた。それは予想に違わず熾烈を極めることとなった。ミコトが放った矢は、いつもウラが放った矢と空中でかち合って海に落ち、ウラに届くことがなかった。その落下場所が、今の岡山市高塚の矢喰宮(やぐいのみや)である。さすがのミコトも攻めあぐねたかに見えたが、さにあらず、ここで武人としての真価を発揮した。強い弓で一度に二本の矢を射ると、この奇策がウラの不意を突いたとみえて、一本は例によって落下したが、もう一本は見事、ウラの左目に命中した。流れ出した血はたちまちのうちに川となった。これが、今に足守川に注ぐ血吸川(ちすいがわ)である。こうして戦況は一気に傾いた。手負いのウラは雉に化けて山中に逃げ隠れようとしたが、すかさずミコトは鷹に変身してこれを追いかけた。そこでウラは鯉に化けて血吸川に潜ったが、機敏なミコトは鵜と化してこれに噛みつき、遂に捕らえた。これが今に鯉喰神社が鎮座する場所、すなわち鯉喰神社弥生墳丘墓がある場所である。
 もはや命運尽きたウラはここに「吉備冠者」の名をミコトに奉った。これを機に、晴れてミコトは吉備津彦と名乗ることになったという。ウラは首を刎ねられ、その首は串に刺されて晒された。その場所が備前の首村(こうべむら)、今の岡山市首部である。ところが、これにて一件落着とはいかなかった。奇怪にもその首が大声を発し続けたからだ。そこでミコトは部下の犬飼武命(いぬかいたけるのみこと)〔ミコトの軍には軍用犬部隊がいたと言われ、それを率いていたのがこの人物だ。なお、備中国出身の総理大臣・犬養毅はその子孫と伝えられる〕に命じて、犬に首の肉を食べさせた。しかし、肉が失せた首は髑髏となってもなお唸り続けた。業を煮やしたミコトは、御釜殿の竈の下を八尺掘らせてそこに首を埋めさせた。それでも唸り声は止まることなく、その後十三年間も鳴り響いた。ある夜、ミコトの夢枕にウラが現れ、そしてこう告げたという。自らの妻・阿曽媛(あそひめ)をして、ミコトの釜殿の神饌(みけ)を炊かせよ。もし世の中に事ある時、幸あれば釜は豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴るであろう。そして、ミコトは世を捨てた後に霊神となって現れ給え。自らは一の使者となって四民に賞罰を加えよう、と。これが件の神事の起こりだというのだ。
 この伝説が史実そのものであるなどと言い立てるつもりは毛頭ない。暴虐非道な鬼が棲んでいたとか、晒し首が唸り声を発したとかは、文学にとって格好の題材にはなり得ても、歴史学にとって史料たり得ないことぐらいは弁えている。西国から朝廷への貢ぎ物を船が運んでいたとか、吉備の人々が朝廷に助けを求めたとかいうが、歴史書が教えるところによれば、吉備も含めた西国が大和王権に服していなかったからこそ、ミコトが吉備に派遣されたのではなかったか。鬼との戦いへの備えとして石の楯を立てた場所が楯築神社であるとか、鯉に化けた鬼を鵜と化したミコトが噛み咥えた場所が鯉喰神社であるとかいうが、考古学が教えるところによれば、どちらも弥生時代の吉備の大首長が眠る墳丘墓ではなかったか。かくの如く、事実とは到底思えない内容、要するに後世の附会がある。それは確かであるが、そもそも大真面目に論う程のことではなかろう。理屈を並べ立てて論破する対象ではなかろう。それは所詮、伝説なのだから。
 かといって、それをただのお伽噺と決めつけ、さっさと片付けてしまってよいのだろうか。ウラのお告げでは、妻・阿曽媛が釜殿の神饌を炊くと言う。実際に、鳴釜神事の巫女は、代々、阿曽地区(総社市西阿曽)に住む女性が務めてきた〔ただし、時代の流れで、今は他地区の女性が務めるという〕。その拘りにはただならぬものがある。ミコトはウラとの戦いに際して数多くの矢を用いたという。現実に、吉備津神社の本殿正面の石段下に「矢置岩」があり、正月三日に「矢立の神事」が執り行われる。ミコトがウラとの戦いに際して矢を置いた岩であると言い伝えられる〔ミコトが吉備国の平定を祈って弓矢を奉じた場所とも伝えられる〕。矢が刺さったウラの眼から流れ出た血が川になったと言う。それは、「血吸川」という不気味な名の川として現にある。その下流に「赤浜」〔室町時代の画家、雪舟の生誕地〕という地がある。ウラの血で染まったことがその地名の由来だという。ウラの首が晒された場所は首部という地名として今に残る。伝説は現実のものとしてあるのだ。双方の弓矢が雨霰の如く飛び交う程に激しい戦い。川が血で真っ赤になり、川下に留まった血が地を染める程に凄惨な戦い。敗れて捕らえられた者の首が数多く晒される程におぞましい戦い。そうした戦いが実際にあったに違いない。
 では、それは何の戦いであったのか。ここまでの長い論考にお付き合いいただいた方には、もはや説明の要がないであろう。『古事記』が「大吉備津日子命と若建吉備津日子命との二柱は、相副ひて、針間の氷河之前に忌瓮を居ゑて、針間を道口と為て、吉備国を言向け和しき」と、いとも容易く語る戦い。『日本書紀』が「十一年の夏四月の壬子の朔にして己卯に、四道将軍、戎夷を平けたる状を以ちて奏す」と、いかにもあっさりと済ませる戦い。吉備平定の命を受けて赴いた比古伊佐勢理毘古命が吉備の在地勢力と交わした戦い。つまり、邪馬台国最後の戦いを措いて他に何があり得ようか。それは、ただの地方反乱や地域内抗争ではなくて、天下を二分する勢力同士の、我が国の覇権を賭けた最後のぶつかり合いだったのだ。『古事記』・『日本書紀』が記すのは、吉備平定という結果だけに過ぎない。あたかも何の苦もなく成し遂げられたが如くに。ところが、実際のそれは壮絶極まりないものだった。その余りに痛ましい出来事は人々の脳裏に刻み込まれ、後々まで語り継がれて、やがて伝説と化したに違いない。怪奇ではあるが、どこか物悲しい温羅の伝説として。
 物語を耳にする人が心を引かれる先は、主人公であるミコトのあっぱれな活躍よりも、むしろ悪役であるウラの哀れな末路であろう。ウラは戦いに敗れて吉備冠者の称号をミコトに譲り渡したという。それはまるで吉備の統治が在地王権からミコトへと移ったことを表現するかのようだ。ここでも、ウラは吉備の在地勢力の象徴として暗示される。正義は勝者のもとにあり、悪は敗者に押しつけられるのは歴史の常だ。ウラが敗れた側の象徴だとすると、刎ねられたウラの首が唸り声を発し続けたというのも何かの暗喩であろう。邪馬台国の武人たちは捕らえられ晒し首にされたのであろう。統治者が代わったことを、それ以上に効果的に人々に見せつけ印象づける方法はないからだ。本来ならば、それで一件落着といくはずだった。それですべてがリセットされ、滞りなく新体制にスイッチするはずだった。ところが、そうは問屋がおろさなかった。物語とは違って晒された首はもはや物を言わなかったかもしれないが、人々の耳には、そして何よりミコトの耳には怨念が声となって木霊していた。怨霊に恐れおののく日々が続いた。滅ぼされた者の怨霊が滅ぼした者をいつまでも苦しませたのだ。それは命を絶たれた者の物言わぬ声とは限らない。大切な人を失った者の嘆き悲しみと恨み辛みとが渦巻いていた、そのざわめきだったかもしれない。そして何より、国を亡くしたことへの人々の悲嘆と、失った国へ寄せる人々の哀惜の念とが風になってミコトの耳に届いていたのかもしれない。ミコトが滅ぼした国はそれだけ大きな存在だった、ということだ。戦い終わって、戦いが止んだのではなくて、戦い終わったら、新たな戦いが待ち受けていた。怨霊を鎮魂し、人々の心を慰撫し、それを掌握することは、ミコトにとって大きな難題だった。しかし、それなくしては、本当の意味で吉備を平定したことにならなかった。吉備津神社の神事は、というより吉備津神社という存在は、吉備の安寧にかけたミコトとその後継者達との祈りの体現なのだ。
 瀬戸内海を舞台に百五十年以上にわたって君臨し続けた海の大国ヤマトの国。それは既に滅び去り、もはや追憶の彼方に消えているが、温羅の伝説へと姿を変えて今に至るも人々の心を捕らえている。そして、その鎮魂は「鳴釜の神事」として今に至るも連綿と続けられている。
 ちなみに、岡山は昔話・桃太郎の発祥地の一つである。その素となったのがこの温羅伝説であるとされる。きび団子を腰にぶら下げ、犬、猿、雉の助けを借りて、鬼ヶ島で鬼を退治した桃太郎。そう言われてみれば、大吉備津彦の鬼退治には、猿こそ登場しないが、犬と雉は現れる。そして何より、桃太郎が腰に付けているのは、きび団子、すなわち吉備の団子である。この二つの話が似通っているのは確かだ。とはいえ、桃太郎のモデルが大吉備津彦であるかどうか、本当のところはもはや誰にも分からない。だけどここではそうだとしてみよう。邪馬台(やまと)国を倒して、大和王権による全国統一を決定づけた大吉備津彦。その人物が桃太郎なのだとすると、桃太郎が鬼からもらった宝物の中身は何であろうか。そして、我々はその宝物を今でも大切にしているだろうか。

 エピローグの注:
〔一〕エピローグでは、以前に発表した拙論(若井正一「古代吉備王朝のミステリー」『歴史研究』第五四二号〔平成十八年七月号〕、歴研 平成十八年)から一部の文章を転用している。
〔二〕大吉備津彦の鬼退治についての記述には、次の文献を参照した。①藤井駿『吉備地方史の研究』(法蔵館 昭和四六年)、②谷川健一『日本の神々 神社と聖地 山陽・四国』(白水社 昭和五十九年)(「吉備津神社」の項 執筆は藤井駿)、③山陽新聞社『おかやま 桃太郎伝説の謎』(山陽新聞社 平成七年)。なお、藤井によれば、『吉備津宮縁起』には数種類あり、その内容も若干異なるという。本論文で紹介するのは、藤井が諸異本を総合してまとめた内容の大要である。

 注

〔注1〕江見正己 2000「高塚遺跡 まとめ 弥生時代の集落変遷」岡山県古代吉備文化財センター(編)岡山県埋蔵文化財発掘調査報告150 高塚遺跡 三手遺跡2』岡山県教育委員会

〔注2〕河合忍 2016「吉備地域」古代学研究会(編)『集落動態からみた弥生時代から古墳時代への社会変化』六一書房

〔注3〕亀山行雄 2014「瀬戸内海沿岸 足守川流域の遺跡群」安城市歴史博物館特別展『大交流時代 鹿乗川流域遺跡群と古墳出現前夜の土器交流』図録:安城市歴史博物館

〔注4〕大阪府立近つ飛鳥博物館(編) 2017『平成29年度秋季特別展 古墳出現期の筑紫・吉備・畿内 2・3世紀の社会と経済』図録

〔注5〕亀山行雄 1998「津寺遺跡のまとめ 古墳時代前期の津寺遺跡」岡山県古代吉備文化財センター(編)岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 127 津寺遺跡 5 山陽自動車道建設に伴う発掘調査』岡山県文化財保護協会

〔注6〕河合忍 2025「吉備南部における弥生時代後期から古墳時代前期の集落構造 備前・旭川下流域東岸の分析を中心として古代学研究会(編)『弥生後期社会の実像 集落構造と地域社会』六一書房

〔注7〕若井正一 2004『ヤマトの誕生 第一巻』文芸社

〔注8〕若井正一 2009『吉備の邪馬台国と大和の狗奴国』歴研

〔注9〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

〔注10〕鎌木義昌 1962「古墳時代 古墳時代の岡山」岡山市史編集委員会(編)『岡山市史 古代編』岡山市役所

 2026年5月31日 投稿