以下は、2020年1月19日に投稿した記事です。
書評:辻田淳一郎〔著〕『鏡の古代史』角川選書
令和元年12月23日に、古代の鏡の専門家である辻田淳一郎氏(以下、敬称を略す)による新著〔注1〕が刊行された。これは、弥生時代~古墳時代の遺跡から出土する中国製および倭製(日本製)の鏡についてバランス良く概説する好著である。そこには著者独自の見解も盛り込まれている。
同年12月31日に、拙著〔注2〕を上梓した。この中で私は、国家の形成過程を解明する上で鏡の問題を考究することの重要性を説いた。
同時期に出版された両書は共に三角縁神獣鏡を論じている。そこで本稿では、主としてこの鏡に焦点を当てて辻田氏の新著を書評する。
239年に卑弥呼は魏王朝に初めて朝貢した。その時に皇帝から下賜された様々な品の内の一つが「銅鏡百枚」である。これこそが邪馬台国の謎を解くための鍵である。こう考える点では皆一致している。意見が分かれるのはそこからである。
論点は次の二つに整理することができる。
①「銅鏡百枚」とは何か?
② 三角縁神獣鏡とは何か?
かつて殆どの考古学者は三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」の実体であると見ていた。ところで、この鏡は既に500面以上が出土している。「百枚」を優に超えているのである。それは次のように説明されてきた。卑弥呼およびその後継者である台与が239年の遣使を皮切りに数次に亘って魏(および西晋)に使いを送ったことは文献上確認できる。二回目以降の朝貢で何が回賜されたのかは記されていないが、おそらく、その度に多数の三角縁神獣鏡が下賜され、我が国にもたらされたに違いない。これらを「舶載三角縁神獣鏡」という。そしてある時期からそれを我が国で製作するようになった。これらを「仿製三角縁神獣鏡」という。三角縁神獣鏡が日本列島で大量に出土しているのはそのためである、と。
ところが近年、この学説は様々な角度で揺らいでおり、とても定説とは言えなくなっている。今や研究者によって見解が異なり、まさに百家争鳴の状態にある。
まず、舶載とされる三角縁神獣鏡が中国製であること自体が盤石ではなくなっている。中国大陸や朝鮮半島から未だに一面も出土していないからだ。出土が確認されているのは日本列島に限られる。それだけではない。出土の状況が問題視されている。それは黒塚古墳(奈良県天理市柳本町)に露わである。そこでは、1面の画文帯神獣鏡が棺内に副葬されていた。それと対照的に、33面の三角縁神獣鏡がすべて鏡面を棺に向けて棺を取り囲むように棺外に置かれていた。この配置は、その被葬者にとって、画文帯神獣鏡こそが威信材であって、三角縁神獣鏡は葬具・呪具に過ぎないことを物の見事に示している。権威ある中国王朝から下賜された貴重な舶来品が果たしてこのように扱われるだろうか?誰でもそういう疑問を抱く。そのため、アマチュアの研究者に限らずプロの考古学者の中にも、三角縁神獣鏡は国産の鏡であるという声が上がっている。
とはいえ、鏡を専門とする考古学者に限れば、舶載三角縁神獣鏡を中国製とする意見が今なお圧倒的多数派である。辻田淳一郎もその一人である。ただし、辻田説がユニークであるのは、「銅鏡百枚」の主体を舶載三角縁神獣鏡とは見ない点にある。
曰く、「以上をふまえ、ここであらためて『銅鏡百枚』の候補と三角縁神獣鏡の製作地に関する筆者の考えを述べておきたい。まず『銅鏡百枚』の候補として、筆者は先に検討した、前期古墳から出土する中国鏡、中でも後漢鏡の優品・大型鏡を想定している。具体的には、四葉座内行花文鏡や方格規矩四神鏡、各種の画文帯神獣鏡(特に環状乳神獣鏡・同向式神獣鏡)などの大型鏡である。(中略)。そうした完形後漢鏡の優品を主体として、一部の魏鏡などを含んだいわば『混成鏡群』を『銅鏡百枚』の実態と考える」〔注1、頁165〕と。
辻田によれば、「銅鏡百枚」の構成は後漢鏡が主体であるという。後漢は220年に終焉し、それ以後三国時代(魏・呉・蜀)に入る。「銅鏡百枚」の下賜は239年である。つまりこの説では、20年以上前に製作された鏡が「銅鏡百枚」の主要構成要素であることになる。
なぜ辻田はそう考えるのか?それは、後漢鏡が、「列島外(中国ないし朝鮮半島北部)で長期保有された後」〔注1、頁147〕に、「他の魏晋鏡などと同様に、古墳時代初頭以降に近畿地域に流入した」〔注1、頁144~145〕と見るからだ。日本列島の前期古墳から出土する後漢鏡は、たとえそれが本当に後漢時代に製作されたものであっても(後世の踏み返し鏡でなくても)、製作されて間もなく日本列島に持ち込まれたのではなくて、列島の外(中国、朝鮮半島)で長期間保管・保有され、古墳時代に至って漸く列島にもたらされた、というのだ。後漢鏡の流通についてのこうした見方が、240年に我が国にもたらされた「銅鏡百枚」を後漢鏡とする辻田説のバックボーンとなっている。
とはいえ、辻田は、「銅鏡百枚」としての三角縁神獣鏡を否定しているのではない。曰く、「少なくとも現状では、『銅鏡百枚』について議論する際には、『魏志』倭人伝に記録された景初三年・正始元年の段階のものに限定して考えるのが穏当であろう。その場合、この段階での『銅鏡百枚』の中には、遣使年次を示す『景初三年』『正始元年』の紀年銘を持つ三角縁神獣鏡の初期型式や関連鏡群が含まれていても不思議ではない。ただそれらが含まれていたとしても一部であり、主体をなすのは完形後漢鏡の優品・大型鏡であるというのが筆者の理解である」〔注1、頁166〕と。
このように辻田は、「銅鏡百枚」の候補として最初期の三角縁神獣鏡を認める。にもかかわらず、魏鏡である三角縁神獣鏡よりも後漢鏡を重視する。これは辻田に限らない。むしろ近年、考古学者の間で「銅鏡百枚」=後漢鏡説は台頭している。それはなぜなのだろうか?私が思うに、それは大和の黒塚古墳の出土状況と無関係ではないはずだ。前述の通り、そこでは、後漢鏡である画文帯神獣鏡こそが威信材であって、魏鏡である舶載三角縁神獣鏡は葬具・呪具に過ぎなかった。なるほど、邪馬台国畿内(大和)説に立つならば、卑弥呼の鏡に相応しいのは画文帯神獣鏡であって、三角縁神獣鏡ではない。とはいえ、畿内説を前提としなければ、別の解釈の余地がある〔注3〕。ここではそれを指摘するにとどめたい。
先述したように、辻田は、「銅鏡百枚」を構成する鏡が、単一の鏡種ではなくて、様々なタイプの鏡からなる「混成鏡群」であると説く。私はこの見方に賛成である。ただし、私説は根本において辻田説と異にする。私見では、「銅鏡百枚」はすべて魏鏡であり、その多くは三角縁神獣鏡である。拙著にて、「銅鏡百枚」鏡と見なす40面のリストを掲げた〔注2〕。
なお、三角縁神獣鏡の出自について、私見は考古学者による伝統的な見方と同じである。すなわち、三角縁神獣鏡は、卑弥呼の朝貢への回賜のために、239年に魏王朝が特鋳したことを以て誕生した鏡種である。従って、もともとそれは魏鏡である。
三角縁神獣鏡が「銅鏡百枚」鏡であるか否かにかかわらず、この鏡種が倭製鏡と並んで古墳時代を代表する鏡であることに誰も異論がない。それでは、それは、いつ、どこで製作され、いかにして流通したのか?邪馬台国問題の鍵を握るこの問いに考古学者はどう答えているのか?現況では、諸説入り乱れている。
三角縁神獣鏡は、239年に「銅鏡百枚」用として新作されて以降、朝貢する倭国向けに数次にわたって魏・晋王朝により製作された。これは舶載三角部神獣鏡と呼ばれる。その後、それは大和政権により生産されるようになった。これは仿製三角縁神獣鏡と呼ばれる。つまり、三角縁神獣鏡には魏晋鏡と国産鏡とがあり、前者が古く後者が新しい。これが長らく定説であったことは既に述べた。
これに対して、車崎正彦は、舶載三角縁神獣鏡のみならず仿製三角縁神獣鏡も魏晋鏡である、つまり三角縁神獣鏡はすべて中国鏡であると唱えた〔注4〕。この車崎説は当初は異端であり孤立していた。ところが近年、流れが大きく変わりつつある。その主な理由を簡潔に言えば、舶載のものと仿製のものとの間に製作技法に本質的な違いがないことである。仿製三角縁神獣鏡は、国産である倭製鏡よりも中国製である舶載三角縁神獣鏡に技術的に近いのである。更に、奈良県立橿原考古学研究所の清水康二が、舶載三角縁神獣鏡と仿製三角縁神獣鏡とが同じ鏡笵を用いて製作された証拠を見いだした〔注5〕。こうしたことから、全ての三角縁神獣鏡を中国鏡とする車崎説は、「当時大きな衝撃をもって受け止められたが、現在ではこの立場を支持する研究者も多く、むしろ主流派の一つとなっている」〔注1、頁156〕。
辻田はこうした時勢に棹さすことをしない。曰く、「『仿製』三角縁神獣鏡については、西晋王朝および楽浪郡・帯方郡が滅亡した四世紀初頭以後に列島で製作されるようになるという福永伸哉の説を支持している」〔注1、頁163〕と。このように、辻田は、仿製三角縁神獣鏡を国産鏡とする伝統的な立場を保持する。ただし、私の率直な読書感想を言えば、その根拠を必ずしも明確にしていない。
仿製三角縁神獣鏡の製作地を日本列島と見る点で、私は辻田と同じである。これは大和政権が自らのお膝元で生産した鏡である。そこで製作に携わったのは中国大陸出身の鏡師である。魏王朝のもとで倭人向けに舶載三角縁神獣鏡を製作していた工房の鏡師が、我が国に渡来して最終的に大和に定住し、大和政権の管理下で仿製三角縁神獣鏡を生産したのである。その場所は、延喜式内大社、鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾)と推定する。

ただし私は、三角縁神獣鏡の国産が仿製三角縁神獣鏡を以て始まるという伝統的理解に与しない。舶載三角縁神獣鏡の最終段階を以て、製作地が中国から我が国に移行したと考える。辻田は、舶載三角縁神獣鏡を、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの3段階に編年する〔注6〕。この辻田編年で言えば、Ⅲ段階の鏡は国産鏡というのが私説である。大和における国産の開始時期は260年代末である。詳しくは拙著で述べた〔注2〕。
本稿の最後に、辻田の新著で気になる点を二つ指摘したい。
一つは、「三角縁神獣鏡の製作地については、中国製説の場合は洛陽、日本列島製説の場合は近畿地域が主に想定されてきた。これに加え、第三の候補地として注目されるのが、朝鮮半島西北部の楽浪郡・帯方郡の領域である。また渤海湾沿岸も含めて考える場合もあり、広い意味では中国製説に含まれるが、洛陽などの魏晋王朝の中心部ではなく、その周辺地域で製作が行われたとするものである」〔注1、頁168〕という記述である。
中国考古学の権威である岡村秀典によれば、「三角縁神獣鏡の制作をめぐっては、徐州と洛陽が焦点となっている」〔注7、頁218〕。ここでいう徐州とは、現在の山東省南部・江蘇省北部に当たる地域である。これは後漢時代における主要な鏡生産地の一つであり、日本列島で出土する漢鏡7期の後漢鏡(上方作系浮彫式獣帯鏡、飛禽鏡、画文帯神獣鏡など)、更には後漢・魏鏡である斜縁神獣鏡の供給源である〔注8〕〔注9〕。
控えめに言っても、舶載三角縁神獣鏡の製作地の候補として徐州地域を外すべきではない。ちなみに、私見では、徐州こそがその製作地である〔注2〕。
もう一つは、「例えば大阪府の安満宮山古墳は古墳時代前期初頭の築造とみられるが、ここからは『舶載』三角縁神獣鏡の初期型式が三面と、魏代の画文帯同向式神獣鏡一面、そして『青龍三年』銘方格規矩四神鏡一面が出土した」〔注1、頁140〕という記述である。
安満宮山古墳(大阪府高槻市)出土鏡は、三角縁吾作四神四獣鏡(1号鏡)、青龍三年顔氏作方格規矩四神鏡(2号鏡)、三角縁天・王・日・月・吉・獣文帯四神四獣鏡(3号鏡)、吾作斜縁二神二獣鏡(4号鏡)、陳是作同向式神獣鏡(5号鏡)の計5面である〔注10〕。このうち、京都大学の三角縁神獣鏡目録に入っているのは、1号鏡(目録番号29a)と3号鏡(目録番号48)の2面である〔注11〕。
つまり、通常の分類では、三角縁神獣鏡は2面であって、3面ではない。辻田のいう「魏代の画文帯同向式神獣鏡」が5号鏡のことを指すならば、辻田は4号鏡を三角縁神獣鏡に分類していることになる。しかし、これは斜縁神獣鏡に分類するのが一般的である〔注12〕。なお、辻田は、2007年の著作では、安満宮山古墳出土鏡の一つを斜縁神獣鏡に分類しており〔注6、頁156〕、安満宮山古墳からの三角縁神獣鏡出土数を2面としている〔注6、頁177〕。従って、認識を変えたことになるが、新著〔注1〕においてその理由は説明されていない。
私がこのことに拘るのは、まさにそれが安満宮山古墳のことだからである。決して重箱の隅をつついているわけではない。邪馬台国の謎を解く上で、これは最高度に重要な古墳である。そう私は見ている。詳しくは拙著に記した〔注2〕。
注:
〔注1〕辻田淳一郎『鏡の古代史』(KADOKAWA 2019)
〔注2〕若井正一『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』(一粒書房 2019)
〔注3〕邪馬台国吉備説に立つ私は次のように考える。後漢鏡である画文帯神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない。それは物部氏の鏡である。ただし、魏代倣古鏡である画文帯神獣鏡(和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘画文帯神獣鏡)は「銅鏡百枚」鏡であり、卑弥呼の鏡である。詳しくは、〔注2〕の拙著に記した。
〔注4〕車崎正彦「漢鏡」「三国鏡・三角縁神獣鏡」『考古資料大観 第5巻 弥生・古墳時代鏡』(小学館 2002)
〔注5〕清水康二「『舶載』三角縁神獣鏡と『仿製』三角縁神獣鏡との境界」『考古学論攷』第38冊(奈良県立橿原考古学研究所 2015)
〔注6〕辻田淳一郎『鏡と初期ヤマト政権』(すいれん舎 2007)
〔注7〕岡村秀典『鏡が語る古代史』(岩波新書 2017)
〔注8〕岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館 1999)
〔注9〕森下章司「銅鏡からみた邪馬台国時代の倭と中国」『纏向発見と邪馬台国の全貌』(角川文化振興財団 2016)
〔注10〕下垣仁志『日本列島出土鏡集成』(同成社 2016)
〔注11〕①奈良県立橿原考古学研究所附属博物館・京都大学・東京新聞(編)『大古墳展 ヤマト王権と古墳の鏡』展図録(東京新聞社 2000)②福永伸哉『三角縁神獣鏡の研究』(大阪大学出版会 2005)③下垣仁志『三角縁神獣鏡研究事典』(吉川弘文館 2010)
〔注12〕實盛良彦「漢末三国期の斜縁鏡群生産と画像鏡」『ヒストリア』第259号(2016年度大会特集号)(大阪歴史学会 2016)
2020年1月19日投稿
以上、2020年1月19日投稿記事
2025年5月24日 投稿