2026年2月28日、米国とイスラエルとがイランを軍事攻撃しました。それによりイランの最高指導者と複数の要人を殺害しました。のみならず、女子小学校を爆撃し、多数の無辜の命を奪いました。戦争回避のための外交交渉が継続していた最中の不意打ちです。
 開戦から1週間後の3月6日、米国のドナルド・トランプ大統領はSNS上にてイランに対し「unconditional surrender」すなわち無条件降伏を求めました。

 この言葉は、我々日本人にとって決して聞き流せないものです。なぜなら、80年余り前に我々が米国から突きつけられたものだからです。
 第二次世界大戦中の1943年1月、米国のフランクリン・ローズヴェルト大統領は、モロッコのカサブランカで重大な宣言を発しました。ドイツ、イタリア、日本に「無条件降伏」を突きつけたのです。これは、交戦中の相手国が降伏するにおいて、前提条件を一切認めないというものです。要するに完全降伏の要求です。
 それまではプロイセンの軍人であるクラウゼヴィッツが「戦争は異なる手段による政治である」と説いたように、戦争は外交交渉と並行して行うものでした。無条件降伏を求める戦略はそれとは異なり、一切の妥協を排して敵を破壊し無力化するという極めて無慈悲なものです。この場合、相手は徹底抗戦する以外に選択肢がなくなり、故に戦争が長期化し、結果として双方の死傷者が増えます。
 それを承知で無条件降伏の方針を掲げたのは、ローズヴェルト自身の説明によれば、他国を侵略して支配しようとする思想を根絶するためでした〔注1、頁154〕。日本については、「日本を無条件降伏させ、徹底的に破壊し、作り変えようという対日処罰論がルーズベルト大統領の意向であり、同時に国民の圧倒的な感情であった」〔注1、頁150〕のです。
 1945年4月12日、ローズヴェルトは大統領の任期中に死去しました。大統領職を継いだのが副大統領のハリー・トルーマンです。トルーマン政権は無条件降伏の方針を踏襲しました。
 問題は、無条件降伏の具体的な中身です。

 米国とイスラエルが始めた現下の戦争では、当初の目的はイランにレジーム・チェンジ(体制転換)を起こす、すなわち、イスラム革命政権を転覆させてその替わりに親米政権を樹立することでした。開戦直後にトランプ大統領がイラン国民に体制打倒に立ち上がることを呼びかけたことにそれが表れています。最初の一撃で最高指導者を爆殺したのはそのためです。

 それでは、先の大戦で米国が突きつけた無条件降伏もまた日本に国体の転換を迫るものだったのでしょうか?実は、この肝心なことを米国は明確にしていませんでした。天皇および皇室をどうするかについて意見が分かれていたからです。

 米国政府内で皇室廃絶を主張した急先鋒の一人が、中国の専門家であるオーウェン・ラティモアです。ローズヴェルト政権が重慶の蒋介石のもとに顧問として送り込んだのがこの人物です。米国に帰国後、彼は政府内で皇室の存続に強く反対しました。ちなみに、彼を蒋介石の顧問とする人事を決めたのは、中国問題担当大統領補佐官のラフリン・カリーです。後にカリーはソ連のスパイであることが明かされました〔注2〕
ラティモアは、「日本の天皇制問題を解決しうるのは革命のみである。問題は制度であり、個々の天皇の性格や性向など重要ではない。日本が改革によって『民主的君主制』を実現しうるなどという考えは誤りである。とかく我々米国人は英国の民主的君主制の事例につられて、それが可能なように考えがちだが、・・・・・英国が王をもちつつ民主的でありうるのは、英国民がかつて英国王の首を刎ねたという事実によるのである。日本国民が同様に進歩的なことをするまでは(何が現在この首刎ねに相当するかは別に考えるとして)、日本は世界における不快の根源であり続けるであろう。中途半端な改革は無益である」〔注3、頁118~119〕と言い放ちました。
 その上でラティモアは、「日本人が天皇なしでやって行こうと決意するのであれば、それはまことに結構なことだ。(中略)。我々は天皇およびその後継者となりうるすべての皇族男子を監禁すべきである。場所は中国がよいだろう。そして我々の連帯責任を強調するために、連合国委員会の監視下に置くとよい」〔注3、頁132〕と主張しました。

 一方、皇室の存続を強く訴えたのが、国務省高官のジョセフ・グルーです〔注1〕〔注4〕。駐日大使を務めたことのある彼は知日派の外交官でした。原爆投下の計画が進行中であることを知った彼は、日本に皇室存続の保証を与えることで、投下前に降伏させるべく努力しました。
 「グルーは国務省の同意をとりつけるのに失敗したが、長官代理の職権を利用して、強引にその日(引用者注:1945年5月28日)の昼、トルーマン新大統領に直接働きかける。日本人は、すでに戦争に敗れたことを内心わかっている。必要なのは面子を与えてやることである。天皇制さえ保証してやれば、日本人はきっかけをつかみ降伏するだろう。アメリカ人青年の人命の犠牲を少なくするため、早期終戦を可能にする対日条件を示す大統領声明を発するべきである」〔注1、頁195〕とトルーマン大統領に訴えました。
 グルーの懸命の努力は、その甲斐なく原爆は使われましたが、戦後に皇室が存続することに繋がりました。戦時中の米国政権におけるグルーの活動は戦後に日米が友好関係を築くことに大きく貢献したのです。

 敗色濃厚となった1945年6月8日、御前会議において「今後採るべき戦争指導の基本大綱」が決定されました。これにより、我が国の戦争目的が、それまでの「自存自衛」「大東亜共栄圏の建設」から、「国体護持」と「皇土保衛」とに切り替わりました〔注4〕。ここに、大日本帝国は、領土を守ることと共に、皇室を護持することに目標を絞り込んだのです。換言すれば、この二つが保証されれば降伏はやむを得ないが、それが保証されない限り戦争を続ける覚悟であったのです。
 そこで我が国が頼ったのが、日ソ中立条約を結んでいるソビエト連邦(ソ連)です〔注5〕〔注6〕。米国との外交交渉をソ連に仲介してもらうことで、無条件降伏の内容を緩和させ、国体を護持することを狙ったのです。しかし、その時のソ連はもはや「中立」ではありませんでした。1945年2月のヤルタ会談にて、ソ連の指導者であるヨシフ・スターリンは対日参戦することを米国のローズヴェルト大統領と英国のウィンストン・チャーチル首相とに密約していたのです〔注7〕。これが「ヤルタ秘密協定」です。そのためソ連には日米間の仲介の労を執るつもりはさらさらありませんでした。ソ連は我が国との折衝を対日参戦するまでの時間稼ぎに利用したのです。
 米国は日本がソ連にアプローチをかけていることを知っていました。つまり、米国は日本が降伏するつもりであること、降伏に向けての条件闘争に入っていることを把握していました。そして、その条件が皇室の存続の保証であることを百も承知でした〔注8、下巻頁141~151〕

 1945年7月26日、米国、英国、中国の三国は共同で、日本軍に無条件降伏を勧告する宣言を発しました。それが「ポツダム宣言」です。
 これについて、代表的な高校日本史教科書である『詳説 日本史』(山川出版社 2023年3月5日発行)には、「ポツダム宣言に対して『黙殺する』と声明した日本政府の対応を拒絶と理解したアメリカは、人類史上はじめて2発の原子爆弾を8月6日広島に、8月9日長崎に投下した。また8月8日には、ソ連が日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告し、満州・朝鮮に一挙に侵入した。陸軍はなおも本土決戦を主張したが、昭和天皇のいわゆる『聖断』によりポツダム宣言受諾が決定され、8月14日、政府はこれを連合国側に通告した」(頁324)と記されています。
 要するに、ポツダム宣言に対する日本の回答を拒絶と受け取った米国はやむをえず原爆を投下した、というのです。
 しかし、事はそう単純ではありません。

 これについて、在米の近現代史家である長谷川毅氏が労作を著しました。それが『暗闘 スターリン、トルーマン、日本降伏』です〔注9〕〔アイキャッチ画像〕

 ポツダム宣言の第12条は次の通りです。
 「前記の諸目的が達成され、かつ日本国国民の自由に表明する意思に従い、平和的傾向を有しかつ責任ある政府が樹立されるにおいては、連合国の占領軍は直ちに日本国より撤収される」〔注10〕

 実を言うと、1945年7月2日に提出されたポツダム宣言・第12条の草案はこれとは異なるものでした。そこには、以下の如く、国体の護持が明記されていました。

 「われわれの目的が達成され、明らかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。これは、そのような政府がふたたび侵略を企てることはないと世界の人びとが完全に納得するようになれば、現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」〔注9、頁211〕

 その後、この草案から「現在の皇室のもとでの立憲君主制を含むこととする」が削られ、以下のように修正されました。

 「われわれの目的が達成され、明らかに平和的傾向を有し、また日本国民を代表する責任ある政府が樹立され次第、連合国の占領軍は日本から撤退する。更なる侵略に対する適当な保障に従って、日本の国民は自らの政府の形態を自由に選ぶことができる」〔注9、頁292〕

 ところが、ジェームズ・バーンズ国務長官は更なる修正をトルーマン大統領に強く求めました。それは、「更なる侵略に対する適当な保障に従って、日本の国民は自らの政府の形態を自由に選ぶことができる」という文章を消去することです〔注9、頁292〕
 大統領は国務長官の要求を受け入れました〔注11、上巻頁420~449〕。こうしてポツダム宣言は、上記の如く、天皇や皇室の在り方に一切触れないものとなったのです。
 それ故に、我が国は間髪入れずそれを受諾することができませんでした。その遅れが二発の原爆とソ連の参戦を招いてしまいました。

 上述したように、トルーマンとバーンズは、国体護持を示唆する文言がなければ、日本がそれを受け容れないと予想していました〔注9、頁296~299〕〔注11、上巻頁435~436〕。つまり彼ら二人は、日本が無視することを前提にして、ポツダム宣言を発したのです。その意図は何だったのでしょうか?
 米国の研究者であるガー・アルペロビッツ氏によれば、「バーンズ国務長官はなぜ、アメリカ政府選りすぐりの専門家と軍民トップの高官の助言を退けたのか。さらにもっと重要なことは、トルーマン大統領はなぜ、バーンズの助言を聞き入れたのか。あれから50年たった今日(引用者注:原著の初版出版は1995年)でも、これらの疑問に答えようとするあらゆる試みは推測の域を出ない。バーンズ長官とトルーマン大統領が二人だけで実際に話し合った内容の記録はまったく存在しない(あるいは、発見されていない)のだ」〔注11、上巻頁441〕とのことです。

 ここにあるように、トルーマンとバーンズとが何を考えていたのかは今なお明らかにされていません。確かなことは次のことです。ポツダム宣言が発表されたのは、1945年7月26日です。原爆が投下されたのは同年の8月6日と8月9日です。ポツダム宣言から原爆投下まで僅か10日です。
 とすると、次のように推理してみると、すべての辻褄が合うのです。すなわち、大統領と国務長官は、日本にポツダム宣言を即座に受諾して欲しくなかった、なぜなら降伏されてしまうと原爆を用いる大義名分が失われてしまうから、そこで彼らは宣言の原案にある皇室保全の文言を削除した、そうすることで「日本が最後通牒を受け容れなかったので、やむをえず最終手段に訴えた」と言って原爆投下を正当化できる、かくの如く彼らは謀を巡らした、と。要するに、彼ら二人は兎にも角にも原爆を使いたかったと見られるのです。

 旧宮家出身で作家の竹田恒泰氏が発行する中学校社会科教科書には、これについて次の如く的確に記述されています。

 「七月二十六日、日本に対する降伏勧告であるポツダム宣言が出されました。当初、アメリカ政府案には、天皇の地位を保障する文言がありましたが、調印直前に、大統領はその一文を削除しました。大統領に助言する高官たちは、すでに日本は和平に向けて動きはじめていて、この一文を入れることで日本は確実に降伏すると分析していました。実際にアメリカ政府の分析は正しく、日本の政府と統帥部は天皇の地位の保障を終戦の絶対条件と考えていました。ポツダム宣言を受け取った日本では、ポツダム宣言に天皇の地位について記載がなかったので、政府と統帥部のなかで大論争が起こりました。大統領は、日本が受諾できない文面を作成したと見られます。原爆を投下するためには、ポツダム宣言は日本によって一度拒絶される必要があったのです」〔注12、頁390~391〕

 だとすると、その動機は何でしょうか。それは、バーンズが原爆の威力をソ連に見せつけることでソ連に対して優位に立てると考え、トルーマンはそれに賛同した、という見方が有力です〔注11、上巻頁190・210〕

 2025年に私は古代史をテーマとする書籍を上梓しました〔注13〕。その序文において、古代から今日に至るまでの、我が国の対外戦争につき概説しました。
 そこにおいて、トルーマン大統領が原爆投下に拘った理由について私見を述べました〔注13、「はじめに」〕。詳細は拙著をお読みください。

 注:

〔注1〕五百旗頭真 2001『日本の近代6 戦争・占領・講和』中央公論新社

〔注2〕①ジョン・アール・ヘインズ&ハーヴェイ・クレア(著)中西輝政(監訳)山添博史・佐々木太郎・金自成(訳) 2019『ヴェノナ 解読されたソ連の暗号とスパイ活動』扶桑社〔英文原著は1999年に刊行〕、②Herbert Romerstein and Eric Breindel (2000)〝The Venona Secrets The Definitive Exposé of Soviet Espionage in America〟Regnery Publishing

〔注3〕長尾龍一 2000『オーウェン・ラティモア伝』信山社出版

〔注4〕庄司潤一郎 2021「戦争終結の道程 『終戦』の意味と要因」『決定版 大東亜戦争(下)』(新潮新書)新潮社

〔注5〕麻田雅文 2024『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』(中公新書)中央公論新社

〔注6〕波多野澄雄 2025『日本終戦史 1944―1945 和平工作から昭和天皇の「聖断」まで』(中公新書)中央公論新社

〔注7〕日ソ中立条約の批准書交換は1941年5月20日であり、その有効期間は5年でした。つまり、この条約は1946年春まで有効でした〔注5、頁22~25〕。1945年4月5日、ソ連は翌年の期間満了を以て条約を終了することを日本に通告しました。とはいえ、1945年中は条約は有効でした。従って、1945年8月8日のソ連による我が国への攻撃開始は日ソ中立条約を一方的に破棄したものです。

〔注8〕ハーバート・フーバー(著)ジョージ・H・ナッシュ(編)渡辺惣樹(訳) 2017『裏切られた自由 上・下』草思社〔英文原著は2011年に刊行〕

〔注9〕長谷川毅 2023『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏 〔新版〕』みすず書房

〔注10〕『詳説 日本史』(山川出版社 2023年3月5日発行)が載せる「ポツダム宣言」による(頁323)。ただし、片仮名を平仮名に変え、文体を現代語文に改めた。

〔注11〕ガー・アルペロビッツ(著)鈴木利彦・岩本正恵・米山裕子(訳) 1995『悲劇のヒロシマ・ナガサキ 原爆投下決断の内幕 上・下』はるぷ出版

〔注12〕国史教科書編纂委員会(編)・竹田恒泰(発行人) 2024『検定合格 市販版 国史教科書 第七版 中学校社会科用』令和書籍株式会社

〔注13〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房

 2026年3月18日 投稿