以下は、2020年1月2日に投稿した記事です。
二世紀の倭国を考える(1) 福井市・小羽山30号墓
『後漢書』倭伝に、「安帝の永初元年に、倭国王である帥升らは、奴隷一六〇人を献上して、皇帝の謁見を願い出た。」という有名な一節がある。安帝の永初元年は西暦107年に当たる。
これにより、二世紀初頭に倭国王が存在したこと、換言すれば、倭国が成立していたことが分かる。
『三国志』魏志倭人伝によれば、「その国は元々男子を王としていた。そうした状態が七、八十年つづいた。ところが、倭国が乱れ、互いに攻撃し合うようになり、何年か過ぎた。そこで、共同して一人の女子を王に立てた。その名を卑弥呼という。」とある。
これにより、男王を戴く倭国は西暦180年頃まで存続したことが分かる。二世紀初頭に産声を上げた倭国は、二世紀後半に勃発した「倭国乱」により一旦瓦解したのである。
以下、この倭国を「二世紀の倭国」と呼ぶ。それでは、その領域はどの範囲に及んでいたのだろうか?
高等学校日本史教科書〔『詳説日本史B 改訂版』山川出版社 2017年発行〕によれば、「それは九州北部の小国の連合体にすぎなかったと考えられている。」という。二世紀の倭国は、「倭国」とはいうものの、その実態は古代九州王国に過ぎなかったというのだ。これが学会の定説である。しかし、本当にそうだろうか?
私見では、この学説は大間違いである。本ブログでは、これを数回に分けて論考する。本稿はその第一回である。
なお、この問題は拙著『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』(一粒書房 2019年)において本格的に論じている(上巻・第四章:倭国王帥升の都は吉備である)。本ブログはその補考である。
先日、福井市の小羽山(おばやま)30号墓(アイキャッチ画像)を訪れた。これは丘陵上に分布する多数の墳墓(小羽山墳墓群)のうちの一つである。発掘調査報告書〔『小羽山墳墓群の研究』福井市立郷土歴史博物館 2010年〕によれば、それは墳丘規模が20㍍を超える大型の墳丘墓であり、弥生時代後期後葉に造営され、その時期の内にそこで埋葬が行われた。小羽山丘陵での最初の首長墓と見られている。のみならず、越と呼ばれる地域(越前、越中、越後)における最古の首長墓と考えられている。弥生時代後期後半に、北陸地方の最初の王が越前に登場したのである。それが小羽山30号墓の被葬者である。
この墳墓で特筆すべきは次の三点である。
第一に、四隅突出型墳丘墓であることだ。その特徴は方形の四隅が飛び出し、全体としてまるでヒトデのような形態をとることにある。弥生時代後期後半~終末期に、山陰地方を中心とする日本海沿岸で盛んに造られた墳丘様式である。このことは、その当時、日本海の海上交通を通じて山陰地方と繋がっていたことを示している。
第二に、副葬品である。鉄製短剣が1点、碧玉製管玉103点、ガラス管玉10点、ガラス勾玉1点が出土している。このうちガラス製玉類は、北近畿とりわけ丹後地域で製作されたものである〔大賀2010、小寺2010、報告書〕。これまた日本海航路で丹後と繋がっていたことの物証である。
第三に、葬送祭祀である。墓壙上から出土した祭式土器には、北近畿、山陰、播磨地域に関わる精製土器が多く含まれていた〔森本2010、報告書〕。その土器配置には、山陰、吉備、北近畿の間接的な影響が窺える〔古屋2010、報告書〕。
弥生時代後期後半は二世紀半ば~後半に当たる。この時代は考古学上の一つの画期である。山陽、山陰、北近畿で大型の墳丘墓が一斉に出現したことだ。吉備の楯築弥生墳丘墓、出雲の西谷3号墓、因幡の西桂見墳丘墓、丹後の大風呂南1号墓などである。これらの地域に王と呼び得る政治権力が登場したことの表れである。これら地域の仲間に越前も入っていた。それを示すのが小羽山30号墓なのである。ちなみに、同時代の大和では未だこうした王墓は現れていなかった。
彼らは決して政治的に対立していたわけではない。例えば小羽山30号墓では、先述の通り、山陰地方の墳丘様式が採用されていた。北近畿で製作された威信材が副葬されていた。北近畿、山陰、山陽地域との関連性が高い土器を用いて葬送祭祀が執り行われていた。つまり彼らは互いに連携していたのである。こうした広域的な繋がりは何を意味しているのだろうか?それは二世紀の倭国の考古学的な表れであるというのが私の見立てである。要するに、二世紀の倭国はこうした地域を包摂していたのである。次回以降、これについて更に考察を広げたいと思う。
2020年1月2日 投稿
以上、2020年1月2日投稿記事
2025年5月5日 投稿