本稿は前回の投稿の続きです。
平成13年12月18日、当時の天皇陛下、今の上皇陛下が皇居にて記者会見に臨まれました。その質疑応答は宮内庁のホームページに掲載されています。
それによると、記者が「世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年、日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ、両国の市民レベルの交流も活発化していますが、歴史的、地理的にも近い国である韓国に対し、陛下が持っておられる関心、思いなどをお聞かせください」と質問したのに対して、次のようなお答えをなされました。
「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。(中略)。私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。(後略)」
このお言葉は、その当時、我が国よりも寧ろ韓国において大きな話題になったと言われています。
桓武天皇〔第50代〕は白壁王(後の光仁天皇〔第49代〕)の皇子であり、その生母は高野新笠(たかののにいがさ)です。それにしても不思議なのは、この女性が百済の武寧王の子孫であることです。武寧王は出生地こそ「筑紫の各羅嶋」(つくしのかからのしま)であるものの、生後すぐに百済に送り返され、そこで一生を過ごしました。白壁王は朝鮮半島から高野新笠を迎え入れたのではありません。これは国際結婚ではなくて国内結婚です。だとすると、なぜ武寧王の子孫が八世紀の我が国にいたのでしょうか?
隅田八幡神社人物画像鏡(以下、「隅田八幡鏡」と略す)の銘文はこの謎と無関係ではありません。
〔F〕なぜ「弟王」が言及されるのか?
前稿までに示したように、隅田八幡鏡銘文およびその解釈文は次の通りです。
(原文)
癸未年八月日(曰)十大王年予(男)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟中費直濊人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟
(解釈文)
癸未年八月、今上陛下の御世にて私の弟である王が忍坂宮にいる時にあたって、私すなわち斯麻は陛下に末長くお仕えすることを念願するものです。そこで、辟中の人である費直ならびに濊人である今州利という二人の重臣を陛下のもとに派遣しました。二百旱の極上の銅でこの鏡を作りましたので、ここに献上いたします。
ここにおいて、「癸未年」とは西暦503年であり、「日(曰)十大王」とは武烈天皇であり、「予(男)弟王」とは琨支(こんき)の男性の子供であり、「斯麻」とは斯麻王(しまおう)すなわち百済の武寧王(ぶねいおう)です。この銘文は、武寧王が武烈天皇に奏上するものです。隅田八幡鏡は、武寧王による朝廷への献上品です。
琨支は百済の蓋鹵王(こうろおう)の弟であり、兄の命令により来日して天皇に仕え、やがて我が国で五人の子をもうけました。ところで、蓋鹵王には彼の子を身籠もる妃がいました。琨支が我が国に渡ることが決まるや、臨月を迎えていた彼女は琨支に降嫁しました。彼女は新たな夫である琨支とともに海を渡りましたが、都に着く前に「筑紫の各羅嶋」(つくしのかからのしま)にて出産しました。産まれた子が、斯麻であり、後の武寧王です。
よって、武寧王にとって、生物学上、琨支は叔父であり、琨支が我が国でもうけた男子は年下の従兄弟です。一方、形式上、琨支は父であり、琨支の男性の子供は弟です。隅田八幡鏡銘文において、武寧王は形式上の系譜に則っています。すなわち、武寧王は、琨支の子を己の弟とする建て付けで語っているのです。それが「予(男)弟王」の背景事情です。
それにしても、なぜ銘文に「予(男)弟王」があるのでしょうか?本稿ではそれを問題にしたいのです。なぜなら、銘文の大意からすると、「私の弟である王が忍坂宮にいる時にあたって」〔予(男)弟王在意柴沙加宮時〕という部分は不要だからです。寧ろこれが無い方がすっきりします。にもかかわらず、百済の武寧王はなぜこの文言を入れたのでしょうか?
私の見るところ、実はこのフレーズこそが武寧王がこの銘文で最も強く訴えたかったことです。だから、彼にとってこれは余分なのではなくて、銘文の核心なのです。
以下、その事情を説明します。
『日本書紀』武烈天皇六年十月条:
百済国、麻那君を遣して進調る。天皇の以為はく、百済、年を歴て貢職を脩らずとおもほしめす。留めて放したまはず。
<現代語訳> 百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢した。天皇は、百済が何年も貢ぎ物を納めていないと思われていた。そのため麻那君を留めて百済に帰さなかった。
武烈天皇六年とは、西暦504年です。
前稿で述べたように、私見では、この朝貢が隅田八幡鏡銘文に当たります。すなわち、鏡が百済で製作されたのが503年の八月であり、実際にそれが朝廷に貢納されたのが504年の十月です。隅田八幡鏡を含む貢ぎ物を武寧王から託された使者「麻那君」とは、鏡の銘文に登場する辟中の費直か濊人・今州利かのどちらかです。
ここで不可解なのは、朝廷が麻那君を留め置いたことです。武烈『紀』はその理由が百済が何年も来貢しなかったことであるかに述べます。しかし、冷静に考えてその説明には無理があります。もちろん、武烈朝は「なぜ何年も音沙汰がなかったのだ」と言って麻那君を詰ったでしょう。とはいえ、それを理由に久しぶりに来た使者を帰国させないというのはやり過ぎです。それでは、ますます百済を遠ざけることになり、逆効果になってしまうからです。
むしろ理由は別にあったと見るべきです。百済はそれとは別の理由で武烈朝を怒らせたのです。要するに、この朝貢は失敗だったのです。その訳は、この条の後を読めば分かります。
『日本書紀』武烈天皇七年四月条:
百済王、斯我君を遣して進調る。別に表たてまつりて曰さく、「前に進調れる使麻那は、百済国主の骨族に非ず。故、謹みて斯我を遣して朝に事へ奉らしむ」とまをす。遂に子有りて、法師君と曰ふ。是、倭君の祖なり。
<現代語訳> 百済王が斯我君(しがきし)を遣わして朝貢した。別に上表文で、「先の朝貢の使者である麻那は、百済国王の一族ではありません。それ故、謹んで斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と申し上げた。やがて斯我に子供が生まれ、法師君(ほうしきし)といった。これが倭君(やまとのきみ)の祖である。
武烈天皇七年とは西暦505年です。その四月に百済王は我が国に斯我君を派遣してきました。その上表文にその事情が記されています。それによれば、前年十月の使者である麻那は百済の王族ではないので、今回は王族である斯我を遣わしたというのです。
ここにおいて、武烈天皇六年十月の百済の朝貢が大和朝廷を怒らせた理由が明らかになりました。武烈朝は百済が人質を送ってこなかったことに激怒したのです。麻那君を百済王族と誤解したわけではありません。そうではなくて、百済が人質たる王族をよこさなかったので、それへの懲罰として使者を帰国させなかったのです。先述したように、麻那君とは隅田八幡鏡の銘文に登場する辟中の費直か濊人・今州利かのどちらかです。
麻那君を除く百済の使節団が帰国し、朝廷でのやりとりを武寧王に報告しました。それを聞いた武寧王は大和朝廷がいかに立腹しているかを知りました。そこで、あわてて王族である斯我を人質に選び、倭国へ遣わしたわけです。おそらく、それで漸く朝廷は怒りの矛を収めたことでしょう。麻那君がどうなったかは記されていませんが、おそらく解放されて百済に帰国したことでしょう。
ここで押さえておくべきは、我が国と百済との歴史的な関係です。それは決して対等なものではありませんでした。倭国はしばしば百済王の決定に介入し、あるいは王族を人質にとりました。
・『日本書紀』応神天皇三年「是歳」条:
百済の辰斯王が天皇に対して礼を失しました。そこで応神朝は紀角宿禰ら四名を百済に派遣して叱責しました。百済国は辰斯王を殺して謝罪しました。紀角宿禰らは阿花を王に立てて帰国しました。
応神天皇の御代の西暦392年、百済の王は辰斯王(しんしおう)でした。朝鮮の史書『三国史記』における第16代百済王、辰斯王がこの王に当たります。倭国から派遣された紀角宿禰(きのつののすくね)らが辰斯王を叱責しました。天皇に無礼を働いたからです。百済国は辰斯王を殺害して謝罪しました。そこで紀角宿禰らは、次の百済王に阿花(あか)を立てて、帰国しました。『三国史記』における第17代百済王、阿莘王(あしんおう)がこの王に当たります。
・『日本書紀』応神天皇八年三月条:
『百済記』には次の記述があります。阿花王が立ったが、日本に対して礼を失しました。そのため応神朝は土地を取り上げました。阿花王は王子である直支を派遣し、朝廷に仕えさせました。
397年に阿花王は我が国に人質を出しました。それが王子である直支(とき)です。実はこれは、他の歴史資料でも裏付けられます。『三国史記』百済本紀、好太王碑文に該当する記事があります。詳しくは拙著をご覧下さい〔注1、頁546〕。
・『日本書紀』応神天皇十六年「是歳」条:
この年に百済の阿花王が亡くなりました。天皇は直支王を召して、「そなたは国に帰って王位を継ぎなさい」と仰せられました。そうして東韓の地を与えられて遣わされました。
405年に百済の阿花王が世を去りました。そこで応神天皇は、百済の人質である直支王を次の百済王に決めて帰国させました。『三国史記』における第18代百済王、腆支王(てんしおう)がこの王に当たります。
・『日本書紀』応神天皇二十五年条:
百済の直支王が亡くなりました。すぐさま子の久爾辛が王位に就きました。王は年少であったので、倭の木満致が国政を執りました。しかし、木満致は王の母と密通したり、無礼な行いが多々ありました。天皇はそのことをお聞きになり、木満致を召されました。
百済の直支王が世を去り、久爾辛(くにしん)が王位を継ぎました。『三国史記』における第19代百済王、久爾辛王(くにしんおう)がこの王に当たります。新たな王は幼年であったため、倭人である木満致(もくまんち)が国政を執りました。しかし、その素行が不良であったため、応神天皇は木満致を倭国に召しました。
ただし、この記事の年代には大きな問題があります。なぜなら、次の記事と矛盾するからです。
・『日本書紀』応神天皇三十九年二月条:
百済の直支王がその妹である新斉都媛を派遣して仕えさせました。
直支王が妹である新斉都媛(しせつひめ)を派遣してきました。ところが、です。先の二十五年条ではこの王が亡くなっています。これは明らかな矛盾です。その理由は謎です。
・『日本書紀』雄略天皇五年四月条:
百済の蓋鹵王には弟がいました。それが琨支です。蓋鹵王はこの弟に「日本へ行って天皇に仕えよ」と命じました。それに対して琨支は、王妃を自分に降嫁して欲しいと要望しました。そこで蓋鹵王は、自らの子を妊娠した王妃を弟と結婚させ、「私の子を身籠もった妃はすでに臨月を迎えている。もし道中で出産したら船に乗せて帰国させよ」と指示しました。琨支とその妊婦は蓋鹵王に暇乞いをし、日本に向かいました。
・『日本書紀』雄略五年六月条:
蓋鹵王の子を身籠もった妊婦が「筑紫の各羅嶋」にて出産しました。そこでこの子を「嶋君」と名付けました。琨支はこの子を船に乗せて百済に帰国させました。この子が後の百済の武寧王です。
・『日本書紀』雄略五年七月条:
琨支が大和に入りました。琨支にはやがて五人の子が生まれました。
その後、百済にとって大事件が起きました。
・『日本書紀』雄略天皇二十年条:
高麗王が大軍を発して百済を討ち滅ぼしました。百済の残党が少しありました。高麗の武将が王に百済の残党を一掃することの許可を求めました。それに対して高麗王は「それは良くない。百済国は日本国の官家として遠い昔からの由来があると聞いている。百済王が日本国に入って仕えることは近隣諸国が皆知るところである」と言って、百済の残党を追撃することを止めました。
・『日本書紀』雄略天皇二十年条所引『百済記』
蓋鹵王の乙卯年の冬に狛の大軍が来て大城を攻めること七日七夜にして王城は陥落し、遂に尉礼国を失いました。王と大后、王子らはみな敵の手によって殺されました。
『百済記』とは百済三書の一つです。百済三書とは、『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』の三つのことであり、いずれも百済人の手による史書です。その成立時期および成立経緯には諸説あり、定まっていません。百済三書は『日本書紀』が引く逸文だけが残り、他はすべて失われています。
『日本書紀』の「高麗」(こま)、『百済記』の「狛」(こま)とは高句麗のことです。
『日本書紀』の雄略二十年は476年です。『百済記』中の蓋鹵王の乙卯年とは475年です。
尉礼(いれ)とは、百済の首都・漢城のことであり、今のソウル特別区松坡(ソンパ)区〔首都ソウルの南東部、漢江の南岸〕です。
ここにおいて、朝鮮半島に重大事が起きました。高句麗が南下して百済の王城を攻め落とし、百済王とその一族を殺害しました。
その時の高句麗王は長寿王(ちょうじゅおう)です。この王はその名の通り大変な長寿でした。その在位は413年から491年までの長きに亘り、高句麗の全盛期を築きました。長寿王は好太王の子であり、その後継者です。414年に亡き父の功績を顕彰する石碑、好太王碑を建てたのはこの王です。
滅ぼされた百済王は蓋鹵王です。『三国史記』における第21代百済王、蓋鹵王がこの王に当たります。
ここで注目すべきは、『日本書紀』が記す長寿王の発言中に「百済国は日本国の官家(みやけ)として遠い昔からの由来があると聞いている。百済王が日本国に行って天皇に仕えることは近隣諸国が皆知るところである」とあることです。原文の漢文では「百済国者日本国之官家、所由来遠久矣。又王入仕天皇、四隣之所共識也」です。ここでは、「王仕天皇」ではなくて、「王入仕天皇」であることが重要です。つまり、王が単に天皇に仕えるだけでなく、入って仕えているのです。これが『日本書紀』の認識です。これは、百済の太子が人質として日本に入り、後に朝廷により新たな百済王に指名されて母国に戻ることを意味するものと解釈します。
それでは、この高句麗の攻撃で百済国は滅びたのでしょうか?そうではありません。
・『日本書紀』雄略天皇二十一年三月条:
雄略天皇は百済が高麗により破られたことを知り、久麻那利の地を汶洲王にお与えになり、お救いになり、国を再興されました。〔細注:汶洲王は蓋鹵王の母の弟です。〕
百済の残党が南に逃げました。その中心人物が汶洲王(もんすおう)です。『三国史記』における第22代百済王、文周王(ぶんしゅうおう)がこの王に当たります。雄略『紀』の細注によれば、蓋鹵王の母の弟であり〔注2〕、『三国史記』によれば蓋鹵王の子です。
暮らす場所のない彼らに久麻那利(こむなり)の地を与えたのが雄略天皇です。そこが百済の新たな都になりました。それが『三国史記』のいう熊津(ゆうしん)であり、現在の忠清南道公州市です。
475年に百済の首都・漢城が高句麗によって滅ぼされたこと、そのため百済は南の熊津に遷都したことは、朝鮮の史書である『三国史記』にも記されています。そのためこれは古代史専門家により史実と認められています。
ところが、この雄略『紀』二十一年三月条の内容、すなわち雄略天皇が汶洲王に久麻那利の地を与えて百済を再興させたことは、『日本書紀』による捏造と決めつけられ、古代史アカデミーで真摯に取り上げられることはありません。例えば津田左右吉は、「此の久麻那利云々が事実でないことは熊津(久麻那利)が日本の領土であった形跡の毫も見えないことから、明白である。(中略)。日本の権威と恩恵とを紙の上で示さうといふ主旨から来てゐることは、何人もすぐに気がつく」〔注3、頁217〕とした上で、「日本の修史家の造作であることは、疑が無い」〔注3、頁217〕と断じます。
しかし、私はこの記事は史実であると考えます。私説の詳細は、拙著〔注1〕の第三章・第三節「朝鮮半島の倭の領域」にて述べました。
これまで繰り返し述べてきたように、百済の蓋鹵王が王弟・琨支に倭国に渡り天皇に仕えることを命じました。それが雄略天皇五年四月すなわち461年の四月です。要するに、琨支は人質として出されたわけです。
斯麻王すなわち後の武寧王が筑紫の各羅嶋で生まれたのは、同年の六月です。ただし斯麻王は生後すぐに百済に送り返されました。
その14年後である475年に、高句麗軍が百済の王都・漢都に侵攻し、蓋鹵王およびその王族は殺されたわけです。その際、蓋鹵王の母の弟(『日本書紀』の所伝)または蓋鹵王の子(『三国史記』の所伝)である汶洲王は難を逃れて生き延びました。とともに、王子である斯麻王も九死に一生を得たわけです。もし高句麗軍が百済の残党を追撃していたならば、朝鮮半島の古代史は変わったことでしょう。
汶洲王がその後どうなったのかは『日本書紀』にありません。『三国史記』によれば、477年または478年の8月に文周王は家臣により暗殺されました。王位を後継したのが、文周王の子です。それが、第23代百済王、三斤王です。
・『日本書紀』雄略天皇二十三年四月条:
百済の文斤王が亡くなりました。雄略天皇は、昆支王の五人の子のうちの第二子である末多王が幼年ながら聡明であるので、勅して内裏に召し出して、自らその頭を撫でて懇ろに訓戒を与えて、百済国の王にされました。そうして兵器を賜い、あわせて筑紫国の兵士五百人を遣わして、百済国まで護衛して送り届けられました。これが東城王となったのです。
雄略天皇二十三年四月とは479年四月です。この時、百済の「文斤王」(もんこんおう)が亡くなりました。『三国史記』によれば、百済王は第21代が蓋鹵王、第22代が文周王、第23代が三斤王、第24代が東城王、第25代が武寧王です。「文斤王」とは、『三国史記』の三斤王に当たります。
479年四月の時点では、斯麻王は17歳または18歳です。生後すぐに百済に戻されたことから、斯麻王は百済にいました。いよいよ出番が回ってきたかと思いきや、そうではなくて、王位を継いだのは、我が国にいた百済の王子です。決めたのが雄略天皇だからです。天皇は、琨支王(こんきおう)の五人のうちから、第二子である末多王(またおう)を新たな百済王に選び、百済に送り込みました。それが東城王(とうせいおう)です。
・『日本書紀』武烈天皇四年「是歳」条:
百済の末多王は道理に背き、人民に対して暴虐な行いをしました。国民は遂に末多王を排除して、嶋王を立てました。これが武寧王です。
武烈天皇四年とは502年です。我が国から百済に渡った末多王すなわち百済の東城王は、この年に素行不良を理由に百済人により殺害されました。百済王となって23年後のことです。そして百済人が新たな王に擁立したのが斯麻王すなわち武寧王です。この時、斯麻王は40歳または41歳です。
ここまで長々と我が国と百済との外交関係を見てきました。それは、隅田八幡鏡銘文の歴史的意義を理解する上で必要なことだからです。
ここで話を武烈『紀』六年十月条および七年四月条に戻しましょう。
・『日本書紀』武烈天皇六年十月条:
百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢しました。天皇は、百済が何年も貢ぎ物を納めていないと思われていました。そのため麻那君を留めて百済に帰しませんでした。
・『日本書紀』武烈天皇七年四月条:
百済王が斯我君(しがきし)を遣わして朝貢しました。別に上表文で、「先の朝貢の使者である麻那は、百済国王の一族ではありません。それ故、謹んで斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と申し上げました。やがて斯我に子供が生まれ、法師君(ほうしきし)といいます。これが倭君(やまとのきみ)の祖です。
502年(武烈天皇四年)に、斯麻王が百済王となりました。それが武寧王です。
503年の八月(癸未年八月)に、武寧王は武烈天皇に献上する鏡を作りました。それが隅田八幡鏡です。
504年の十月(武烈六年十月)に、武寧王が遣わした使節団が倭国に朝貢しました。その際の貢納品の一つが隅田八幡鏡です。
先述したように、この外交は倭国の怒りを買いました。武烈朝は武寧王が百済王族の人質を送ってくるものと思っていたところ、肩透かしにあったからです。
505年の四月(武烈天皇七年四月)に、武寧王は倭国の要求に応じて王族である斯我君を人質として差し出しました。
502年から505年に至るこの時系列をみれば、武寧王が隅田八幡鏡銘文に込めた狙いが浮かび上がってきます。一言で言えば、新たに人質を出すことを回避することです。
四世紀末以来、倭国は繰り返し百済王族を人質にとりました。そして、百済王が亡くなるや、後継の百済王としてその人質を送り込みました。大和朝廷は百済王の決定に大きな影響を及ぼしていたのです。
とりわけ475年に百済が一旦滅ぼされた後は、百済の倭国への従属はより強まったはずです。百済がそれを喜んで受け入れていたとは考えられません。自国の王の選出を倭国が差配する習わしから何とかして抜け出したいと願っていたのは間違いありません。斯麻王はそうした状況の中で王位に就いたのです。
先代である東城王は、雄略天皇が倭国にいた百済王族の一人を選んで百済に送り込んだ王です。502年に漸く百済王に立った斯麻王は倭国にそれを認めてもらう必要がありました。504年の十月(武烈六年十月)の朝貢はそのためのものです。その際に倭国が人質を出すことを求めることは、斯麻王は百も承知であったはずです。しかし、その屈辱を何としてでも無しで済ませたかったのです。
隅田八幡鏡の銘文で「私の弟である王が忍坂宮にいる」〔予(男)弟王在意柴沙加宮〕ことにわざわざ言及したのはそのためです。つまり斯麻王は、自らの弟が既に倭国にいることを以て、人質を差し出していることにしたかったのです。斯麻王は大和朝廷に倭国在住の弟を人質として認めて欲しかったのです。銘文の中で斯麻王が最も声を大にしたかったのは「予(男)弟王在意柴沙加宮」であるのはそのためです。斯麻王は自らの地位を武烈朝に認めてもらうだけでなく、自らの子を人質に出さずに済ませたかったのです。
ここで時間を遡らせましょう。そもそも、斯麻王の実の父である蓋鹵王は、なぜ不可解なことを実行したのでしょうか?蓋鹵王は弟である琨支に倭国の人質になることを命じました。その際、蓋鹵王は、弟の求めに応じて、自らの子を身籠もる臨月の王妃を弟に降嫁し、倭国で出産するや、その赤子を百済に戻させたのです。それは何故なのでしょうか?自らの王妃を弟と結婚させることなどせず、百済で出産させればよかったはずです。にもかかわらず、わざわざ倭国に行かせて、そこで出産させているのです。これは全く以て不可解極まりません。
推理するに、これは蓋鹵王と琨支とが巡らせた知略です。
実は、琨支の倭国行きには前段があります。『日本書紀』によれば、蓋鹵王は雄略天皇の求めに応じて、池津媛(いけつひめ)という女性を采女(うねめ)として天皇に差し出しました。ところが、雄略二年七月すなわち458年七月、天皇に召されることを嫌った池津媛が石河楯(いしかわのたて)と密通したことに激怒した天皇は、この二人を捕らえてその手足を木に縛り付け、焼き殺しました。雄略五年四月すなわち461年四月、池津媛への酷い仕打ちを伝え聞いた蓋鹵王は、「昔、女人を采女として貢上した。ところが、まことに非礼であり、我が国の名を汚した。今後、女性を貢上してはならない」と王宮の人々に言いました。そこで弟である琨支に白羽の矢を立てたのです。
その際に二人は協議して偽装工作を図ったというのが私の想像です。
蓋鹵王は王妃のお腹の子が男子ならば、己の跡継ぎとして育てるつもりでした。その子が王に就いた暁には自分と同じ辛い目に遭わせたくないというのが蓋鹵王の強い思いでした。国の名を汚す屈辱外交を次の世代に持ち越したくなかったのです。そこで弟に相談を持ちかけたのです。自分の代を以て人質を差し出すことに終止符を打つにはどうしたらよいかを。それに対して琨支が出した計略は次のようなものでした。
「臨月を迎えている王妃を私の妻として倭国に帯同させ、そこで出産させます。そこで倭国に願い出ます。『我が妻がたった今出産しました。知己が少なく、言葉がままならない土地での育児は不安であると妻は申しております。そこで我は貴国にて単身赴任の身となり、妻の実家で我が子を養育したいと存じます。どうかこの勝手な願いをお聞き入れください』と。こう説明して許可を得て、王妃と王子の二人を帰国させます。将来王子が百済王になった時、私が生きていれば王の父が、たとえ世を去っていても私が倭国で男子をもうけていれば王の弟が倭国にいることになります。将来の王はそれを強くアピールすることで、王族から人質を出せという朝廷の要求をかわすのです」と。
これが琨支による蓋鹵王への提案でした。この計画を承諾した蓋鹵王は琨支と共にそれを実行しました。かくして、王妃は渡海して筑紫の各羅嶋で出産しました。産まれた子は母と共に百済に帰されました。それが斯麻王であり、後の武寧王です。
百済は少なくとも倭国に向けては、斯麻王の父は琨支であると説明していました。『百済新撰』(『日本書紀』武烈天皇四年「是歳」条所引)に「末多王は道理に背き、人民に対して暴虐な行いをしました。人民はみな末多王を排除し、武寧王を立てました。諱は斯麻王といいます。琨支王子の子です。そして末多王の異母兄です」とあるのはその表れです。
当の斯麻王が真実を告げられていたかどうか、つまり実の父が蓋鹵王であることを知らされていたかどうかは分かりません。いずれにせよ、475年に高句麗軍により蓋鹵王が滅ぼされ、肉親の者がことごとく殺されて孤独の身になり、百済の都が漢城から南の熊津に移った後は、自分の父が琨支である方が好都合であることは分かっていたはずです。その方が倭国とのコネクションを持てるからです。百済の王位に就き且つ百済王であり続けるには、倭国の後押しが必要不可欠であるからです。
五世紀後半、雄略天皇〔第21代〕は大和朝廷に大きな混乱をもたらしました。皇位継承権を有する者を悉く粛清し、有力豪族を滅ぼし、理不尽に人民を殺害し、謀により人妻を奪い取り、伝統的な人事秩序を壊し、渡来人のみを重用したからです。その恐怖政治のもと、人心は朝廷から離れていきました。倭国の紐帯は弱まっていきました。それでも雄略天皇の治世のうちでは、表面上は倭国は一体性を保っていました。しかし、雄略天皇亡き後、その暴政のつけが回ってきて、倭国はガタガタになりました。地方に住む傍系の皇族は朝廷を信用せず、大和に近づかなくなりました。以上のことは拙著にて詳述しました〔注1、第七章第五節および第八章第三節・第五節〕。
502年に斯麻王が百済王になりました。武烈天皇〔第25代〕の御代のことです。斯麻王の耳には武烈天皇の芳しくない評判が風の便りに届いていたことでしょう。それでも大和朝廷を無視して百済を統治することはできません。倭国へ使節団を遣わさねばなりません。とはいえ、人質を送りたくありません。国としての面子を保つためだけではありません。退廃した空気が漂う不穏な大和に自分の子を送り出したくなかったからです。そこで、生前の蓋鹵王の言いつけ通り、自分の弟が既に大和で暮らしていることを強く訴えることで、人質による倭国への従属を実質的に終わりにすることを図ったのです。それが、隅田八幡鏡銘文に込めた思いです。
しかし、大和朝廷は斯麻王の父が琨支ではなくて蓋鹵王であるとの情報を既に掴んでいました。『日本書紀』の雄略天皇五年条および武烈天皇四年「是歳」条・細注がそのことを示しています。
武烈天皇六年(504年)十月に、百済の使者である麻那君が朝廷で斯麻王の上表文を読み上げました。その中で、大和の忍坂宮に住む琨支の子が自らの弟であると説いていました。それは百済から別の王族を遣わさなかったことを暗に言い訳するものでした。これに武烈朝は激怒したのです。「斯麻王は琨支の子ではない。皇国を欺くとは何事か。許しがたい」と言って、麻那君を拘束したのです。
百済に帰国した使節団から、朝廷を憤激させたこと、そのため団長である辟中の費直(または濊人・今州利)が拘束されたことを知らされた斯麻王は、すぐさま事態の収拾に動きました。すなわち、王族である斯我君を人質に選び、倭国へ派遣したのです。斯我君が朝廷に参上したのが武烈天皇七年(505年)四月のことです。
琨支の子孫がその後どうなったのかは前稿で述べました。それが飛鳥戸氏です。六世紀後半以降に現在の大阪府羽曳野市飛鳥の地〔アイキャッチ画像〕で栄えた一族です。
それでは、斯我君は武寧王とどういう関係にある人物なのでしょうか?そして来日後どうなったのでしょうか?
・『日本書紀』武烈天皇七年四月条に、斯我君について「遂に子有りて、法師君と曰ふ。是、倭君の祖なり」とあることは既に述べました。
斯我君は我が国で男の子をもうけました。それが法師君(ほうしきし)です。その後裔氏族が倭君(やまとのきみ)です。
・『日本書紀』継体天皇七年八月二十六日条に「百済の太子淳陀が薨じた」とあります。
513年(継体天皇七年)に、百済の太子である淳陀(じゅんだ)が亡くなったというのです。百済の太子という以上、それは百済王の後継者であるはずです。それは一体誰のことでしょうか?
・『新撰姓氏録』左京諸蕃下「百済」の項の筆頭に「和朝臣。百済国の都慕王の十八世孫、武寧王より出づ」とあります。
和朝臣(やまとのあそみ)の祖先は百済の武寧王であるというのです。
・『続日本紀』延暦八年十二月十五日条に「皇太后、姓は和氏(やまとのうぢ)、諱は新笠(にひかさ)。贈正一位乙継(おとつぐ)の女(むすめ)なり。(中略)。后の先は百済の武寧王の子純陀太子(じゅんだたいし)より出づ。(中略)。天宗高紹天皇(あめむねたかつがすすめらみこと)龍潜(りょうせん)の日、娉(めま)きて納れたまふ。今上・早良親王・能登内親王を生めり。宝亀年中に姓を改めて高野朝臣とす。今上即位きたまひて、尊びて皇大夫人とす」とあります。
現代語訳すると、「皇太后の姓は和氏(やまとのうじ)、諱は新笠(にひがさ)であり、贈正一位の乙継(おとつぐ)の娘である。(中略)。后の祖先は、百済の武寧王の子である純陀太子(じゅんだたいし)より出ている。(中略)。光仁天皇がまだ即位していない時、嫁入りされた。今上天皇、早良親王、能登内親王を出産された。宝亀年中に氏姓を高野朝臣と改めた。今上天皇が即位すると、皇大夫人と尊称された」となります。
これは、桓武天皇の生母である高野新笠が崩御されたことを受けての人物伝です。ここでいう今上天皇とは桓武天皇〔第50代〕のことです。これによれば、高野新笠は和氏を出自とし、その祖先は武寧王の子である純陀太子です。
この「和氏」(やまとのうじ)は、『新撰姓氏録』左京諸蕃下・百済の「和朝臣」(やまとのあそみ)と同じであることは言うまでもありません。なぜなら、どちらも百済の武寧王の後裔氏族であるからです。そして、『日本書紀』武烈天皇七年四月条の「倭君」(やまとのきみ)もまた同じと見て間違いありません。
ところで、『続日本紀』延暦八年条の「武寧王の子純陀太子」は、『日本書紀』継体天皇七年条の「百済の太子淳陀」と同一人物であることは明らかです。ということは、「百済の太子淳陀」は武寧王の子であるわけです。武寧王の子であり且つ百済の太子である淳陀とは一体何者なのでしょうか?この人物が倭国に滞在していたことは、倭国における百済の人質であったことを意味します。ところが、百済王として帰国を果たすことなく、513年(継体天皇七年)に我が国で亡くなりました。
だとすると、淳陀とは、505年(武烈天皇七年)に、武寧王が派遣してきた百済王族・斯我君と同一人物とみて間違いありません。つまり武寧王は、大和朝廷が望む通りに、自らの子でありかつ後継者を人質して我が国に遣わしたことになります。しかし、斯我君は来日の八年後に世を去ってしまいました。さぞかし無念であったことでしょう。
『日本書紀』継体天皇十七年五月条に「百済国王武寧が薨じた」とあり、同十八年正月条に「百済の太子明が即位した」とあります。継体天皇十七年五月に武寧王が亡くなりました。新に百済王となったのが「太子明」です。『日本書紀』欽明天皇二年(541年)四月条にて「聖明王」の名で現れます。『三国史記』の第26代百済王、聖王に当たります。
継体天皇十七年とは523年です。1971年に大韓民国忠清南道公州市の宋山里古墳群で武寧王の墓が発見されました。その墓誌に「百済の斯麻王は、年六十二歳にして、癸卯年五月七日に亡くなった」とあります。この「癸卯年」とは523年です。つまり、『日本書紀』の記事の正しさがこの墓誌により裏付けられました。
だとすると、斯我君は異国の地で父・武寧王より先に世を去ったことになります。それが斯我君が百済王になれなかった理由です。もし更に十年以上長生きしていれば、彼が予定通り第26代百済王に就いたことでしょう。
斯我君は母国の歴史に足跡を残すことはできませんでした。しかし我が国においては話は別です。日本に滞在した八年間に男子をもうけたことです。それが法師君(ほうしきし)であり、その後裔が和氏(やまとのうじ)です。
系譜でいうと、武寧王、その子が斯我君、その子が法師君、その後裔氏族が和氏、そして八世紀に和氏から出た女性が高野新笠です〔注4、「新しい渡来系豪族 和朝臣」〕。彼女が白壁王(後の光仁天皇)に嫁いで産んだ子が桓武天皇です。
平成の世になって、天皇陛下が公の場で武寧王の子孫に言及されたことは、泉下の斯我君にとって望外の誉れであったことでしょう。
注:
〔注1〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注2〕『日本書紀』雄略天皇二十一年三月条・細注の原文に「汶洲王蓋鹵王母弟也」とあります。これには、汶洲王は蓋鹵王の母の弟であるとする解釈と、汶洲王は蓋鹵王の同母の弟であるとする解釈との二説があります。前者ならば汶洲王は蓋鹵王の母方の叔父になり、後者ならば汶洲王は蓋鹵王の弟になります。本稿では前者をとります。『三国史記』では、汶洲王は蓋鹵王の子とされます。つまり、汶洲王と蓋鹵王との系譜関係には三つの説があるわけです。
〔注3〕津田左右吉 1963『津田左右吉全集 第二巻 日本古典の研究 下』岩波書店
〔注4〕水谷千秋 2022『日本の豪族 100』(講談社現代新書)講談社
2026年5月4日 投稿