前回の記事にて、卑弥呼の時代すなわち三世紀前半の近畿地方が二つの勢力圏に分かれていたと述べました。
 その考古学的証拠として挙げたのが画文帯神獣鏡の出土分布です。それが示唆するのは、250年頃までこの鏡は淀川水系流域の豪族に配布されなかったことです。

 本稿では、倭製鏡(わせいきょう)を取り上げます。

 古墳時代に入ると、小形仿製鏡や小型倭鏡とは系譜を異にする、新たな鏡が国産されました。それが倭製鏡です。
 その面径は様々であり、14㌢以下のものもあれば30㌢を超えるものもあります。倭製鏡は中国鏡の模倣により創出されました。古墳時代前期の倭製鏡は多種多様であり、そのため多数の系列に分類されます。そのうち中心となる系列は、内行花文鏡系、方格規矩四神鏡系、鼉龍鏡(だりゅうきょう)〔単頭双胴神鏡系〕です。この三つを「中心的系列群」といいます。模倣対象となった漢鏡は、順に、内行花文鏡、方格規矩四神鏡、そして画文帯同向式神獣鏡と環状乳神獣鏡との組み合わせです。

 かつては、倭製鏡は古墳時代前期中葉以降に製作された鏡と見られていました。ところが近年、そうではないことが分かってきました。弥生時代終末期~古墳時代初頭の墳墓から出土する事例が積み重なったからです。倭製鏡の副葬は西暦250年代には既に始まっていたのです。
 これら草創期の倭製鏡には、「獣形文鏡」と「絵画文鏡」との二つのタイプがあります。獣形文鏡は、獣の文様を主体とし、それを繰り返し配列する倭製鏡です。絵画文鏡は、絵画表現を主体とする倭製鏡です。獣形文鏡にしろ、絵画文鏡にしろ、古墳時代前期中葉以降に製作された中心的系列群〔内行花文鏡系・方格規矩四神鏡系、鼉龍鏡系〕とは異なるものです。

 以下、具体例を挙げます。

 ①養久山1号墳出土四獣鏡
 播磨の養久山(やくやま)1号墳〔兵庫県たつの市揖保川町養久〕は、庄内式併行期(弥生時代終末期)の終わり〔注1、頁61〕、すなわち250年頃の墳墓です。ここから、獣形文鏡である四獣鏡が出土しました。

 ②今林8号墓出土四獣鏡
 丹波の今林(いまばやし)8号墓〔京都府南丹市園部町小桜町〕は、庄内式期(弥生時代終末期)に築造された墳墓です〔注2〕。その第1主体部から、獣形文鏡である四獣鏡が一面出土しました。出土状況から墳墓が築造された庄内式期(弥生時代終末期)に副葬されたと見られています〔注2〕

 ③七つ𡉕1号墳出土四獣鏡(破片)
 備前の七つ𡉕(ななつぐろ)1号墳〔岡山県岡山市北区津島〕は、土器編年では布留0式・布留1式移行併行期〔注3〕または布留1式期古相併行期〔注4〕、前方後円墳集成編年では1期〔注3〕または2期〔注4〕の古墳です。この古墳から、獣形文鏡である四獣鏡が出土しました。

 ④芝ヶ原古墳出土四獣鏡
 山城の芝ヶ原(しばがはら)古墳〔京都府城陽市寺田大谷〕は、「庄内式新段階から布留式最古段階古相」〔注5〕、すなわち240年代末の墳墓です。この墳墓から、絵画文鏡である四獣鏡が出土しました。

 ⑤見田大沢4号墳出土四獣鏡
 宇陀の見田大沢(みたおおさわ)4号墳〔奈良県宇陀市菟田野見田・菟田野大澤〕は、布留0式期古相併行期〔注6〕〔注7〕〔注8、頁255〕、すなわち250年代の古墳です。ここから、獣形文鏡である四獣鏡が出土しました。

 以上の墳墓・古墳の所在地は、淀川水系流域〔④⑤〕ないしはその以西〔①②③〕です。

 それでは、大和川水系流域で倭製鏡の副葬が始まったのは、どの古墳に於いてでしょうか?
 それは、桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)ならびに下池山古墳(しもいけやまこふん)です。どちらも奈良盆地にある古墳です。

 〔A〕桜井茶臼山古墳〔奈良県桜井市外山〕
 これは、前方後円墳集成編年の2期、広域編年のⅡ期、新潟シンポジウム編年の7~8期の古墳です〔注9〕。歴年代では270~280年と推定される古墳です。ここから倭製内行花文鏡や倭製鼉龍鏡など多数の倭製鏡が出土しました。

 〔B〕下池山古墳〔奈良県天理市成願寺町〕
 これは、前方後円墳集成編年の2期、新潟シンポジウム編年の~8期の古墳です〔注9〕。これまた270~280年と推定される古墳です。ここから面径37.6㌢の超大型の倭製内行花文鏡が出土しました。

 つまり、大和川水系流域で倭製鏡の副葬が始まったのは270年以降のことです。それは、淀川水系流域よりも20年以上も後です。

 前回の記事で述べたように、画文帯神獣鏡は250年以前の淀川水系流域にはなかったと推定されます。一方、本稿で明らかにしたように、倭製鏡は250年以前の大和川水系流域にはありませんでした。
 結局、三世紀前半すなわち卑弥呼時代の近畿地方は、二つの威信財流通圏に分かれていたのです。
 一つは、倭製鏡流通圏です。これが、淀川水系流域およびその以西です。令制国でいえば、摂津・山城、丹波、播磨、備前です。
 もう一つは、画文帯神獣鏡流通圏です。これが奈良盆地および大和川水系流域です。

 ここでユニークなのは、先述した見田大沢4号墳です〔写真1〕

〔写真1〕見田・大沢古墳群

見田・大沢古墳群
〔写真1〕

 これは、奈良県でも奈良盆地の外にあります。宇陀市南部の口宇陀(くちうだ)盆地の菟田野(うたの)です。そこを流れる芳野川(ほうのがわ)〔写真2〕は宇陀川に合流し、宇陀川は名張川に合流し、名張川は木津川に合流し、木津川は淀川に合流します。よって菟田野は淀川水系流域です。見田大沢4号墳の被葬者は淀川水系に属する豪族なのです。だから、倭製鏡を入手できたのです。

〔写真2〕芳野川

芳野川
〔写真2〕

 近畿地方の中央部から離れたこの地の豪族がこの威信財を入手できたのは、いかなる理由によるのでしょうか?
 それは、前著で述べたように〔注10、上巻・頁397〕、大和水銀鉱山のお陰であると考えられます。魏志倭人伝に「朱丹を以て、其の身体に塗る」、「其の山には丹あり」とあるように、古代において赤色を呈する水銀朱は顔料・塗料として用いられ、貴重品でした〔注11〕
 宇陀には水銀朱の大鉱床があり、古来利用されてきました。それが大和水銀鉱山です。その中心地は、宇陀の中にあっても菟田野です〔注12〕。弥生・古墳時代の菟田野の豪族は水銀朱の供給を掌握することで権勢を誇っていたと推定されます。おそらく、その鉱石は芳野川による水運により積み出され、淀川を通って瀬戸内海へと運ばれていたはずです〔写真3〕。それが故に、威信財を差配する政治権力は見田大沢4号墳の被葬者を厚遇したわけです。

〔写真3〕見田・大沢古墳群の案内板

見田・大沢古墳群の案内板
〔写真3〕

 延喜式神名帳の大和国宇陀郡に「宇太水分神社」という式内大社があります。これが、菟田野の芳野川沿いに鎮座する、宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)〔奈良県宇陀市菟田野古市場〕です〔アイキャッチ画像〕。速秋津比古神(はやあきつひこのかみ)、天水分神(あめのみくまりのかみ)、国水分神(くにのみくまりのかみ)という三神が祀られています。
 「みくまり」(水分)とは、水を分けるという謂いです。それを司るのが件の三神です。古の菟田野の人々は、芳野川の水運が恙なく行われることを願って、この神々を奉斎したのです。彼らにとってこの川での運搬がいかに必要不可欠であったかを表しています。搬出される物資の中でとりわけ重要であったのが、水銀朱の鉱石であったと思われます。

 つづく

 注:

〔注1〕岸本道昭 2022『播磨の前方後円墳と倭王権』同成社

〔注2〕福島孝行 2000「今林古墳群の発掘調査」『京都府埋蔵文化財情報』第78号:京都府埋蔵文化財調査研究センター

〔注3〕寒川史也 2018「地域の画期と社会変動 地域報告 山陽東部」中国四国前方後円墳研究会(編)『前期古墳編年を再考する』六一書房

〔注4〕河合忍 2018「古墳出土土器をめぐって 地域報告 山陽東部」中国四国前方後円墳研究会(編)『前期古墳編年を再考する』六一書房

〔注5〕長友朋子 2014「発掘調査報告 出土遺物 土器」「発掘調査報告 まとめ 芝ヶ原古墳出土土器の位置づけ」岩本崇・岸本直文・小泉裕司ら九名(編著)城陽市埋蔵文化財調査報告書 第68集 芝ヶ原古墳発掘調査・整備報告書』城陽市教育委員会

〔注6〕石野博信 1982「個別研究 見田・大沢古墳群の意義」亀田博(編)奈良県立橿原考古学研究所(編)奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第44冊 菟田野 見田・大沢古墳群』奈良県教育委員会

〔注7〕関川尚功 1982「個別研究 見田・大沢古墳群及び古市場胎谷古墳の土器」亀田博(編)奈良県立橿原考古学研究所(編)奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第44冊 菟田野 見田・大沢古墳群』奈良県教育委員会

〔注8〕寺沢薫 2011『弥生時代政治史研究 王権と都市の形成史論』吉川弘文館

〔注9〕古墳の相対年代として普及しているのが前方後円墳集成編年です〔広瀬和雄「前方後円墳の畿内編年」近藤義郎(編)『前方後円墳集成 近畿編』(山川出版社 1992年)〕。これを「集成編年」と呼びます。本稿では集成編年に、①広瀬和雄・和田晴吾(編)講座 日本の考古学7 古墳時代(上)』(青木書店 2011年)、②一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆(編)古墳時代の考古学2 古墳出現と展開の地域相』(同成社 2012年)とを用いました。
 近年、古墳時代前期の古墳編年を再考しようという動きが出ています。その一つが「広域編年」です。本稿では広域編年に、①中国四国前方後円墳研究会(編)『前期古墳編年を再考する』(六一書房 2018年)、②岩本崇『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』(六一書房 2020年)とを用いました。もう一つが「新潟シンポジウム編年」です。本稿ではこの編年に、東日本古墳確立期土器検討会(編)『東日本における土器からみた古墳社会の成立』シンポジウム(2024年)資料集を用いました。

〔注10〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

〔注11〕蒲池明弘 2018『邪馬台国は「朱の王国」だった』(文春新書)文藝春秋

〔注12〕松田寿男 1966「宇陀水銀をめぐる古代史上の諸問題」『東洋學報』第四八巻第四号

 2026年2月8日 投稿