昨年末の記事(2025年12月30日投稿)で、弥生時代の吉備が中国地方随一の大国であったと述べました。
 中国地方に恵みをもたらす海は瀬戸内海と日本海です。吉備は中国地方最大の国であるとはいえ、それが通じる海は瀬戸内海のみです。そこで吉備にとって重要なのは、日本海を海とする隣国との関係です。それが出雲です。

 実際、弥生時代において、吉備と出雲とは強固な関係を築いていました。それには考古学的な証拠があります。

 出雲には、その長い歴史において、二つの中核があります。宍道湖の西側に位置する出雲市と東に位置する松江市です。仮に出雲を東と西とに二分すると、出雲市は西出雲に属し、松江市は東出雲に属します。現在の中心は東出雲です。松江市は島根県の県庁所在地です。弥生時代の中心は西出雲です。出雲市には今も昔も出雲大社が鎮座します。

 西出雲には西谷墳墓群(にしだにふんぼぐん)という墳丘墓群があります〔注1〕。そのうちの一つ、西谷3号墓(島根県出雲市大津町)は、弥生時代後期後半における出雲の王の墓です。そこから特殊器台・特殊壺が出土しました。これは吉備の弥生時代を特徴づける葬祭土器です。それは墓上で執り行われる葬送儀式の際に据えられた祭器です。西谷3号墓のそれは現地で製作されたものではありません。吉備南部で製作され、遠路はるばる西出雲まで運び込まれたものです〔注1、頁66〕。吉備王と出雲王との友好関係がいかに強固であったかを示す遺物と言えます。
 昨年末の記事で、宇垣匡雅氏による特殊器台・特殊壺の編年〔注2〕を紹介しました。時系列順に、貝ヶ原型、立坂型、中山型、向木見型、宮山型、という五段階です。
 西谷3号墓のものは、このうち立坂型です。

 吉備と出雲とは隣国であるとはいえ、その間には中国山地が東西に横たわっています。だから、平地を一直線に進んでお互いの中心地を行き来できたわけではありません。山越えが必要だったのです。それでは、如何なるルートで人々は両国を往来していたのでしょうか?

 出雲の考古学者である渡辺貞幸氏は曰く、「こうした分布状況(引用者注:立坂型葬祭土器の分布状況)からすると、吉備の葬祭土器は、吉備南部から備中を経て山陰に至るルートを通って運ばれたのではないかと想像できよう。具体的には、高梁川沿いを上り日野川沿いを下って山陰に出る。つまり、現在のJR伯備線に近いルートが、当時の吉備と出雲を結ぶメインストリートだった可能性が強い」〔注1、頁66~67〕と。

 岡山から出雲まで鉄道で行く場合、山越えの路線はJR伯備線となります。列車が川に沿って進んでいくのを車窓から見て取れます。それが高梁川(たかはしがわ)です。これは瀬戸内海に注ぐ一級河川です。川の流れは進行方向と逆です。ところが、ずっと観察していると、いつの間にか川の流れが進行方向と同じになっているのに気付きます。日野川水系に変わったのです。日野川(ひのがわ)は日本海に注ぐ一級河川です。つまり、流れが逆転した地点こそが高梁川水系と日野川水系との分水界であるわけです。山を抜けて日本海側の平野に出ると、大山(だいせん)を右手に仰ぎながら、列車は大きく左に旋回してJR山陰本線に入り、中海(なかうみ)そして宍道湖(しんじこ)を右手に見ながら西に進んで、出雲駅に到着します。ここでは、これを伯備線・山陰本線ルートと呼びます。

 渡辺氏が言う「吉備と出雲を結ぶメインストリート」とは、このルートのことです。これは吉備と西出雲との往来において東出雲を経由するルートです。そして、西出雲の西谷3号墓の特殊器台・特殊壺が運ばれたのはこのルートであると渡辺氏は想像するのです。

 古墳時代以降、伯備線・山陰本線ルートが吉備と出雲とを結ぶ主要な交通路であったのは確かでしょう。なぜなら、古墳時代以降の出雲の中心は東出雲であるからです。それでは、それ以前の弥生時代も同じだったのでしょうか?私はそれは違うと思います。弥生時代は伯備線よりも西のルートで山越えして、東出雲を経由することなく吉備と出雲とを行き来していたと推定します。先述したように、弥生時代の出雲の中心は西出雲です。

 そこで私が注目するのが、昨年末の本ブログ記事で取り上げた、備後の三次(みよし)です。
 三次市(みよしし)は、広島県の北部、中国山地の真ん中に位置し、47286人の人口(令和7年11月30日現在)を擁します。その中心部が市街地であり、三次盆地という名の盆地です。

 〔写真1〕は広島県の遺跡分布を図示するパネルです。そこで、ひときわ目立って遺跡が集まる場所があります。これが三次盆地です。それは何故なのでしょうか?それは、縄文・弥生時代において備後の三次が中国地方の陸上交通の要衝であったから、というのが私の答えです。

〔写真1〕

〔写真1〕みよし風土記の丘ミュージアム(広島県立歴史民俗資料館)展示パネル(2023/5/28展示)

 昨年末の記事で、三次市の矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ)(広島県三次市東酒屋町)から出土した特殊器台・特殊壺について述べました。これは、弥生時代において中国山地の三次が瀬戸内海沿岸の備中南部と繋がっていたことの証です。

 それだけではありません。三次は日本海沿岸とも交流していました。それにも考古学的な証拠があります。

 先に西出雲の西谷3号墓に触れました〔写真2〕。その形態の特徴は、方形でありながら、その四隅が飛び出していることにあります。これを四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)と言います。

〔写真2〕

〔写真2〕西谷3号墓

 このタイプの墳丘墓は、西出雲だけでなく、東出雲、隠岐、伯耆、因幡などの山陰地方に広く分布します〔注3〕。のみならず、弥生時代後期後半、同じ日本海側の北陸にまで及びます。それが、越前の小羽山(おばやま)墳墓群の一つ、小羽山30号墓(福井県福井市小羽町)です〔写真3〕

〔写真3〕

〔写真3〕小羽山30号墓

 実を言うと、三次市の矢谷墳丘墓〔アイキャッチ画像〕もまた四隅突出型墳丘墓です〔写真4〕

矢谷墳丘墓
〔写真4〕

〔写真4〕矢谷墳丘墓

 つまり、四隅突出型墳丘墓は日本海沿岸だけでなく、中国山地の三次盆地にも存在するのです。
 このことは、弥生時代において三次は山陰地方と交流していたことを意味します。

 ここで本稿の主題から外れますが、四隅突出型墳丘墓の起源につき一言します。
 西出雲の西谷3号墓や越前の小羽山30号墓の年代は弥生時代後期後半です。一方、三次の矢谷墳丘墓の年代は弥生時代終末期~古墳時代初頭です。従って、築造時期は、前者が先であり、後者が後です。このことだけを見ると、三次に四隅突出型墳丘墓があるのは、日本海側からそれが伝わったことによると思えます。しかし、そうではありません。むしろ、事実は逆である可能性が大きいのです。
 というのも、三次には日本海側よりも早い時期の四隅突出型墳丘墓があるからです。陣山墳墓群(広島県三次市四拾貫町・向江田町)〔写真5〕〔写真6〕や殿山38号墓(広島県三次市大田幸町)です。これらの年代は弥生時代中期後半です。

陣山墳墓群
〔写真5〕

〔写真5〕陣山墳墓群

陣山墳墓群案内板
〔写真6〕

〔写真6〕陣山墳墓群の案内板

 このことから、四隅突出型墳丘墓は弥生時代中期後半の三次に始まり、そこから山陰や北陸に伝播したとする説が有力です〔注1、頁51~57〕〔注4、頁106~133〕

 話を備後の三次と西出雲との交通に戻しましょう。

 『出雲国風土記』によれば、備後国と出雲国とをつなぐ小径がありました。
 律令制の出雲国は九つの郡から成ります。そのうち、出雲西部の内陸部にあるのが飯石郡(いいしぐん)です。飯石郡の「通道」(かよいぢ)の条に次の記述があります。

 「波多径、須佐径、志都美径、以上の三径は常には剗なし。但、政ある時に当たりて権に置くのみ。並、備後国に通ふ」
 (現代語訳:波多径、須佐径、志都美径、以上の三径には常設の剗がない。ただし、政治的な事情がある時に限って臨時に設置される。みな備後国に通じる)

 これによれば、飯石郡には、「波多径」(はたのみち)、「須佐径」(すさのみち)、「志都美径」(しつみのみち)という三つの小径がありました。これを「三径」といいます。この「三径」には普段は「剗」(せき)がありませんでした。ところが、政治的事情が生じると、かり(権)の剗が設置されました(権剗)。この「三径」は備後国に至る道でした。

 ここにある剗とは、関所の一種であり、国境などの要衝に置かれた施設のことです〔注5、頁54〕。その目的は、国境を越える人の移動を制限することにありました。
 常の剗ではなくて権(かり)の剗であるとはいえ、「三径」に臨時に関所が設置されました。それは、「三径」が国境を越える道、すなわち出雲国を出て他国に入る道であったからです〔注6〕。問題は、この場合の他国とはどの国のことか、です。
 そこで具体的に「三径」はどういうルートであったのかを考えましょう。実はそれには諸説があり、まだ定説と言えるものがありません。

 上記したように、「三径」は出雲国を出て他国に入る道です。先の風土記の条文を素直に読めば、この場合の他国とは備後国のことであるかに思えます。ところが、中村太一氏は、その他国を石見国のこととする説を唱えています〔注6〕。「三径」の権剗が置かれた場所は、石見国との国境である、というのです。中村氏は「志都美径」を現在の島根県道40号線に当たるとします。結局、中村説によるルートとは、出雲国飯石郡から南に下って直に備後国に入る道ではなくて、出雲国飯石郡から西に進んで一旦石見国に入り、そこから備後国に入る道です。これは出雲から備後に行く上で、大きく西に迂回する道程となります。

 それにしても、中村氏がかくの如きユニークな説、氏の言葉を借りれば「突拍子もない仮説」を唱える理由は何でしょうか?それは、「この備後国に至る『三径』の経路であるが、志都美から石見国堺を越えて“県道40号線ルート”をさらに進むと、美郷町粕渕で江の川に達する。そして、その江の川の本流を遡っていくと、備後国三次郡家に比定される下本谷遺跡が所在する広島県三次市の中心地域に到達することになる」〔注6〕からです。

 〔写真7〕は、〔写真1〕のパネルのうちで三次市を拡大したものです。

広島県立歴史民俗資料館 展示パネル
〔写真7〕

〔写真7〕広島県立歴史民俗資料館展示パネル(2023/5/28展示)

 この写真の内で、向かって左上の白い余白部分が島根県であり、令制の石見国です。三次市の市街地にて、江の川〔可愛川〕、西城川(さいじょうがわ)、馬洗川(ばせんがわ)という三つの川が合流し、江の川(ごうのかわ)となっています。三次市が中国山地にあって要衝の地である所以がここにあります。その後、江の川は蛇行しながら石見国を流れ、日本海に注ぎます。

 ここで中村説に戻りましょう。
 島根県道40号線を西に次に西南に進むと島根県邑智郡美郷町久保で江の川にぶつかります。そこから江の川を遡っていけば広島県の三次市の市街地に入ります。これは国道375号に概ね重なります。律令時代、西出雲から備後の三次盆地に行く方法の一つとして、このルートがあったというのが中村説です。ここでは、これを江の川ルートと呼びます。

 私はこの説を支持します。
 その上で、このルートの存在は律令時代にとどまらず、弥生時代に遡ると考えます。のみならず、江の川ルートが、弥生時代における西出雲と備後との往来、ひいては出雲と吉備との往来の主要な交通路であったと推定します。

 本稿の内容は、枝葉末節、重箱の隅をつつく話と思われるかもしれません。それを承知で長々と述べてきたのには理由があります。
 私は邪馬台国吉備説を唱えています〔注7〕。弥生時代の中国山地における交通路の問題は、私の古代吉備国成立論の根幹に関わります。それは我が国成立の謎を解く鍵であると考えます。これがこのテーマを本稿で取り上げた所以です。いずれ別の観点から江の川ルートを再び論じたいと思います。

 注:

〔注1〕渡辺貞幸 2018『シリーズ「遺跡を学ぶ」123 出雲王と四隅突出型墳丘墓 西谷墳墓群』新泉社

〔注2〕①宇垣匡雅 2023「特殊器台の変化と画期」島根県古代文化センター(編)島根県古代文化センター研究論集 第30集 古代出雲と吉備の交流』島根県教育委員会、②宇垣匡雅 2024「特殊器台の展開」広瀬和雄・草原孝典(編)季刊考古学・別冊45 吉備の巨大古墳と巨石墳』雄山閣

〔注3〕藤田憲司 2010『山陰弥生墳丘墓の研究』日本出版ネットワーク

〔注4〕野島永 2025『弥生墳丘墓と手工業生産』同成社

〔注5〕島根県古代文化センター(編) 2014『解説 出雲国風土記』今井出版

〔注6〕中村太一 2022「『出雲国風土記』の通道記事とその路線復原 ―推定復原図作成に関する覚え書き―」島根県古代文化センター(編)島根県古代文化センター研究論集 第27集 山陰における古代交通の研究』島根県教育委員会

〔注7〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

 2026年1月13日 投稿