『日本書紀』神功皇后・摂政四十九年三月条によれば、神功皇后は「荒田別」(あらたわけ)と「鹿我別」(かがわけ)とを将軍に任じて、朝鮮半島に派兵しました。荒田別らは加羅の七ヶ国を平定しました。これが神功皇后の「加羅七国平定」です。これは、大和政権が加羅諸国を自らの勢力圏とした端緒となるものです。日本列島と朝鮮半島との関係史上、大きな画期の一つです。
神功皇后摂政四十九年は、干支を二運繰り下げて西暦三六九年です。終戦直後の古代朝鮮史学の大御所であった末松保和氏は、三六九年が干支の己巳(つちのとみ)に当たることから、この「加羅七国平定」を「己巳年の史実」(「己巳」は音読みで「きし」)と呼称して、それを史実としました〔注1〕。
それに対して、これを虚構とするのが戦後アカデミーの主流派です。
現在の古代朝鮮史学の第一人者である田中俊明氏は曰く、「いわゆる加羅七国平定記事にたちもどり、あらためてみてみると、それは『日本書紀』編者の造作である可能性が高いもので、歴史的事実とは無縁のものである、といわなければならない。(中略)。加羅七国平定記事が否定されれば、経営すべき対象としての『任那』は存在しえないのである」〔注2、頁90~91〕と。
近年この問題に精力的に取り組んでいる日本古代史家の仁藤敦史氏は曰く、「『日本書紀』神功紀四六年条から始まる斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳(とくじゅん)に派遣し、卓淳に軍勢を集結させて、加羅七国を平定したという物語は、『百済記』という百済側史料の加耶諸国との通交開始記事を前提に『日本書紀』編者が創作したとするのが自然である」〔注3、頁96〕と。
田中氏にしろ仁藤氏にしろ、「加羅七国平定」は『日本書紀』編者による作り話であって、史実ではない、というのです。
ところが近年、意外なところから、これをテーマとする論文が現れました。岡山の考古学者である新納泉氏が『考古学研究』で発表した論文です〔注4〕。これは、考古学の専門誌が掲載する論文としては大変に異色なものです。というのも、そこで論じられているのは、考古学ではなくて『日本書紀』を主とする文字資料であるからです。考古学に関連することとしては、全羅南道の前方後円墳と七支刀だけです。七支刀とて、物としての論考ではなくて、その銘文の解釈です。要するに、これは考古学論文ではなくて歴史学論文なのです。
その中で新納氏は古代史学者と考古学者との見解の違いを指摘します。曰く、「考古学の側では、考古資料の実態から倭による軍事活動を肯定する傾向にあるが、それについて古代史の研究者からは、『極論すれば「大和朝廷の任那支配」から導き出された想定を考古学によって解釈したにすぎない』(仁藤2018、216頁)という厳しい批判がある。それに対し、考古学の側では考古資料の実態を論じることはあっても、両者の方法論の違いもあり、議論はすれ違ったままとなっているように感じられる」〔注4〕〔注5〕と。おそらく新納氏は、こうした見解の相違を解消したいという思いから、畑違いである文献史学に敢えて踏み入ったのでしょう。
私は、近著〔注6、第五章〕において、加羅七国平定が史実であることの知られざる有力な傍証を提示しました。それが群馬県の考古学です。これは、先の新納氏の論文では指摘されていないことです。
群馬県には、時系列順に、①前橋天神山古墳(まえばしてんじんやまこふん)〔群馬県前橋市広瀬町〕、②浅間山古墳(せんげんやまこふん)〔群馬県高崎市倉賀野町〕、③太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)〔群馬県太田市内ヶ島町〕という三つの首長墓があります。拙著において、その被葬者を『日本書紀』等の文献に登場する有力氏族の父子三代と特定しました。この説の提唱は、私の知る限り、拙著が初めてです〔注7〕。
論考の詳細は拙著に譲るとして、本稿ではその一部につき結論だけを述べます。
太田天神山古墳〔写真A〕は、墳丘長210㍍を誇り、広大な二重の濠を巡らす東日本最大の前方後円墳です。その年代は古墳時代中期前半です。
〔写真A〕

〔アイキャッチ画像〕および〔写真B〕は、国立歴史民俗博物館の展示パネルの一部です。
〔写真B〕

これを見て誰しもが抱くのは、大阪平野や岡山に200㍍超級の巨大古墳があるのは納得できるとして、それ以外に同レベルの古墳がある唯一の地が、北関東の群馬であることへの驚きです。その古墳すなわち太田天神山古墳が、その時代において、いかに屹立した存在であったかが、このパネルから見て取れます。
この古墳が特別であるのは大きさだけではありません。その埋葬施設は盗掘されていて副葬品は不明ですが、被葬者の棺は長持形石棺(ながもちがたせっかん)でした。これは天皇および大豪族にのみ許された特別な棺です。
これらのことは、この古墳の被葬者が、東国という辺境にいながら、全国屈指の実力者であり、且つ、大和朝廷の信頼が格別厚い大人物であることを意味します。
私は、文献学的および考古学的考察から、太田天神山古墳の被葬者は、加羅平定という大仕事を成し遂げた将軍、荒田別であると結論します〔注6、第五章〕。
群馬県には太田天神山古墳と同時期の古墳として、お冨士山古墳(おふじやまこふん)〔群馬県伊勢崎市安堀町〕があります〔写真C〕。墳丘長125㍍の前方後円墳です。
〔写真C〕

これまたその棺は長持形石棺です。それは墳丘上にて展示されています〔写真D〕。
〔写真D〕

お冨士山古墳に眠るのは、荒田別と並ぶ加羅遠征軍の将軍、鹿我別であると結論します〔注6、第五章〕。
五世紀初頭以降の群馬県には考古学的に注目すべきことがあります。それは、加羅地域の遺物・遺跡があることです。特筆すべきは、五世紀中葉以降に榛名山(群馬県高崎市)の麓で営まれた馬の飼育です。これに着手したのは朝鮮半島からの渡来人であると目されています。実際、群馬県の古墳には馬形埴輪が多くあります。その一つ、綿貫観音山古墳(群馬県高崎市綿貫町)出土の馬形埴輪(文化庁が保管)は国宝に指定され、群馬県立歴史博物館にて展示されています。やがて群馬県は我が国における馬の一大供給地となり、古代における道路交通の一翼を担いました。これが「群馬」という地名の由来とされます。
このことは、荒田別と鹿我別とが朝鮮半島に渡ったという『日本書紀』の記述と整合的です。すなわち、群馬を本拠地とする二人は、帰国に際して半島の人々を引き連れ、彼らを群馬に定住させ、そこで経済活動に従事させたのです。こう解釈することによって、なぜ五世紀の群馬に渡来人の痕跡があるのか、なぜその時代にそこで馬が飼育されたのかという疑問に答えることができます。
以上のことは神功『紀』の加羅七国平定記事が史実であることの強力な傍証であると私は考えます。
〔注1〕末松保和 1956『任那興亡史』吉川弘文館(初版:大八洲出版 1949年)
〔注2〕田中俊明 1992『大加耶連盟の興亡と「任那」 加耶琴だけが残った』吉川弘文館
〔注3〕仁藤敦史 2024『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書)中央公論新社
〔注4〕新納泉 2023「『日本書紀』神功紀の再検討」『考古学研究』第70巻第2号(通巻278号):考古学研究会
〔注5〕ここで新納泉氏が言及する仁藤敦史氏論文の該当箇所は次の通りです。「考古学においても、朝鮮半島南部における軍事活動を前提とする議論が多いが、基本的には末松保和『任那興亡史』における『大和朝廷の任那支配』の結論を前提にしていると言わざるを得ない」〔仁藤敦史 2018「神功紀外交記事の基礎的考察」上野祥史(編)『国立歴史民俗博物館研究報告』第211集「共同研究 古代東アジアにおける倭世界の実態」:国立歴史民俗博物館〕。
〔注6〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注7〕関東地方の考古学を専門とする若狭徹氏は、「大共立によって押し立てられ、渡海した上毛野の首長の伝承は、前述の『日本書紀』にみるように二人のペアとなっており、あたかも長持形石棺を許された太田天神山古墳とお富士山古墳の被葬者を想定させるかのようである。それは想像が過ぎるとしても、こうした上毛野の古墳被葬者の訪韓の記憶が、『日本書紀』という正史に伝承として記録されているのである」〔若狭徹 2017『古代の東国1 前方後円墳と東国社会 古墳時代』吉川弘文館、頁85~86〕と述べます。
若狭氏がいう「二人のペア」とは、神功『紀』四十九年条の「荒田別」と「鹿我別」のことです。ここで若狭氏は、太田天神山古墳の被葬者が荒田別であり、お富士山古墳の被葬者が鹿我別であると「想定させるかのようである」と言いつつも、すぐさま「それは想像が過ぎる」と述べて、事実上それを引っ込めています。
最近の論文において若狭氏は、荒田別と鹿我別とに言及した後、「この時期の外交記事(特に神功紀)に関して文献史学側からは慎重な取り扱いが主張されているが(例えば仁藤 二〇一八)、近年考古学側からは積極的に評価する意見もある(新納 二〇二三)。本章の立場では、古墳時代の東国豪族が対外活動に関わった記憶として棄却することができない記事であると考える」〔若狭徹 2025「倭の五王と東国の古墳時代社会」辻田淳一郎(編)『倭の五王の時代を考える 五世紀の日本と東アジア』吉川弘文館〕と述べます。
ここにおいて若狭氏は、慎重な物言いながら、神功『紀』四十九年条の記事を作り話であると片付けることに難色を示しています。しかし、その論文にて若狭氏は、太田天神山古墳とお富士山古墳の被葬者がそれぞれ荒田別と鹿我別であると明言していません。
2025年11月24日 投稿