以下は、2020年11月1日に投稿した記事です。
『黒塚古墳の研究』の真価
1998年1月10日の新聞各紙の一面トップに考古学のニュースが踊った。黒塚古墳の発掘調査の発表である。古墳の所在地は奈良県天理市柳本町であり、まさに三世紀の大和政権の本拠地である。それは当時の大和の有形文化に関して空前絶後の知見をもたらした。それが超一級の考古学上の成果であることに誰も異論はない。

2018年9月に奈良県立橿原考古学研究所は『黒塚古墳の研究』を刊行した〔注1〕〔アイキャッチ画像〕。皆が首を長くして待ちに待った正式な発掘調査報告書である。これにより、この古墳の全容が考古学に関心ある者すべてに公開されることとなった。¥32000+税の出費を惜しむことさえしなければ。
しかし、発見から二十二年以上、報告書刊行から二年以上経た今なお、考古学者はこの古墳が発する真のメッセージを未だ捉え切れていない。彼らはこの古墳を邪馬台国との関わりにおいて未だ正しく意義づけていない。そう私は感じる。本論ではそのことを指摘した上で、私見を述べたい。
黒塚古墳に関してこれまで最も曖昧であったことは、その年代である〔注2〕。それが、2018年の正式報告書で漸く明確にされた〔注3〕。それによれば、①黒塚古墳の築造は三世紀後半であり、②ホケノ山古墳→中山大塚古墳・箸墓古墳→黒塚古墳→下池山古墳・桜井茶臼山古墳の順に編年される。
黒塚古墳が三世紀後半の古墳であることは既に知られていた。そこにサプライズはない。今回の正式調査報告書のアピールポイントは、黒塚古墳が先、下池山古墳・桜井茶臼山古墳が後であることを明示したことだ。この順序がこれまで曖昧であった。少なくとも私の知る限り、活字として顕わになっていなかった。それが権威ある出版物で確定した意義は非常に大きい。
同書の中で寺沢薫は、竪穴式石室床面から出土した土器を布留0式期新相に位置づけた〔注4〕。石室内土器であることから、これが埋葬時期と考えられる。布留1式期古相の始まりが西暦270年頃であることから〔注5〕、布留0式期新相は260年代と推定される。これは、「黒塚古墳の築造年代の上限は3世紀後半でも中葉に近づく可能性」〔注3〕という見立てに合致する。
私が言いたいのはここからである。
大量の三角縁神獣鏡が出土したことの影に隠れて、あまり注目されていない重大事が黒塚古墳の調査結果にある。それは、そこにある物ではなくて、そこにない物である。玉類が全く出土していないことである。黒塚古墳に先行する、ホケノ山古墳でも中山大塚古墳でも玉類は見つからなかった。それに対して、黒塚古墳に後出する、下池山古墳や桜井茶臼山古墳では玉類が出土した。下池山古墳からは、ヒスイ製勾玉が2個、碧玉製管玉が7個、ガラス小玉が44個である。桜井茶臼山古墳からは、ヒスイ製勾玉が1個、碧玉製管玉が6個、ガラス管玉が2個、ガラス玉類が少数個である。
このことは、大和の古墳では玉類の副葬が黒塚古墳までは行われず、下池山古墳・桜井茶臼山古墳を以て始まったことを示す。つまり、大和で玉類の副葬が始まったのは270年以降であるわけだ。
従来の考古学がともすれば看過してきた、ないしは軽視してきたこの事実は、邪馬台国の所在地論における重要ポイントの一つである〔注6〕。というのは、魏志倭人伝の締めくくりに次のようにあるからだ。
台与は倭の大夫、率善中郎将である掖邪狗ら二十人を派遣して、帰国の途に就く張政らを送らせた。その上で掖邪狗らは洛陽に至り、男女の奴隷三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、珍しい文様の錦を二十匹、朝貢した。
倭国王・台与は、「白珠五千孔」「青大句珠二枚」という二種の玉類を魏王朝へ貢いだ。このうち、「白珠五千孔」は孔の開いた白玉を五千個、「青大句珠二枚」は青色の大型の勾玉を二個と解されている。
上述の台与の朝貢先は魏王朝である。魏は265年を以て滅んだ。となると、件の朝貢はそれ以前ということになる。ところで、大和で玉類の副葬が始まるのは270年以降である。となると、265年以前に玉類を朝貢した台与の政権が大和政権であるとは考えにくい。玉類の問題は邪馬台国大和説が抱える大きな弱点である。台与の居場所すなわち邪馬台国は、265年以前に玉類が権力者の間で普及していた場所であるはずだ。2019年の拙著で指摘したように、吉備は弥生時代後期および終末期に玉類が大いに副葬された地域である。玉類という観点に立つと(もちろんそれだけではないが)、吉備は邪馬台国の所在地に相応しい。
注:
〔注1〕奈良県立橿原考古学研究所(編) 2018『黒塚古墳の研究』八木書店
〔注2〕奈良県立橿原考古学研究所(編) 1999『大和の前期古墳 黒塚古墳 調査概報』学生社
〔注3〕岡林孝作・水野敏典 2018「総括編 編年的位置」奈良県立橿原考古学研究所(編)『黒塚古墳の研究』八木書店
〔注4〕寺沢薫 2018「研究編 出土土器からみた黒塚古墳の築造時期の位置づけ」奈良県立橿原考古学研究所(編)『黒塚古墳の研究』八木書店
〔注5〕岸本直文 2014「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」藤尾慎一郎(編)『国立歴史民俗博物館研究報告』第185集:国立歴史民俗博物館
〔注6〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』一粒書房
以上、2020年11月1日投稿記事
2025年9月21日 投稿