本稿は前回の投稿の続きです。
和歌山県橋本市の隅田八幡神社〔アイキャッチ画像〕が所有する国宝が人物画像鏡(以下、「隅田八幡鏡」と略す)です。
その鏡の外区に、円を描くように連なる48文字からなる銘文があります〔写真1〕。
〔写真1〕隅田八幡神社境内の案内板

大正時代から現在までの110余年間、多くの研究者がその読解に挑んできました。しかし、それは三者三様であり、未だ定説はありません。大多数の人がなるほどと頷ける説は未だ現れていません。
その閉塞状況に風穴を開けたいとの思いから、本ブログにて隅田八幡鏡銘文について新たな解釈を提示します。
元々の予定では本稿で私説を完結させるつもりでした。ところが、いざ書き始めると当初の想定以上に著述の量が膨らんでしまいました。そこで、前編と後編の二回に分けることとしました。本稿はその前編です。
まず行うべきは、件の48文字を確定することです。
そこで参考にすべきは、日本古代史学者である堀大介氏が、隅田八幡鏡銘文に関する73本の過去文献をまとめた2024年の論文です〔注1〕。この論文はインターネットで公開されています。
この論文には73文献の対照表があります。それを基に、48文字の各々について、最も妥当と思われる漢字を選定すると、それは次のようになります。
■未年八月■十大王年■弟王在意柴沙加宮時斯麻念長■遣■中費直濊人今州利二人■■白上同二百旱■此竟
このうち■は、研究者の間で意見が分かれていて一つに決めきれない文字です。
なお、以下の「番号」とは銘文の文字の順番のことです。最初の文字「■」が番号1、最後の文字「竟」が番号48です。
上記のうち、「在意柴沙加宮時」〔番号14~20〕については前稿で解説しました。「意柴沙加」の読みは「おしさか」であり、「意柴沙加宮」とは今の奈良県桜井市忍阪〔写真2〕にかつて所在した忍坂宮(おしさかのみや)のことです。
〔写真2〕奈良県桜井市忍阪(この道を前方方向に進んでいくと、国道165号すなわち初瀬街道に交差します。その交差地点の近くに脇本遺跡があります。この遺跡は雄略天皇の泊瀬朝倉朝倉宮の推定地です)

よって、「在意柴沙加宮時」とは、「忍坂宮にいる時」という意味です。
以下、これ以外の部分について考察します。
〔A〕銘文の冒頭3文字「■未年」とは何なのか?
「■」〔番号1〕は「癸」とするのが定説です。この場合、冒頭の三文字は「癸未年」となります。これは、十干十二支(じっかんじゅうにし)の癸未(みずのとひつじ)の年です。60年周期です。
ところが、「■」〔番号1〕の字形は上が「△」で下が「天」のように見えます。そのため、それは「矣」であるという指摘があります。実際に隅田八幡鏡の原寸大写真〔注2〕を見ると、その指摘はごもっともです。そこで「矣」を採って、それを「癸」の誤記であると見る研究者が複数います〔注3、頁420〕〔注4、頁96〕。つまり、本来は「癸」と記すべきところを、誤って「矣」と刻字してしまったという見方です。この見方では、冒頭の三文字を「癸未年」とする定説と実質的には同じことになります。
周知のように、漢文で「矣」は文の終わりを示す漢字です。だとすると、もし「矣」を正しい刻字とするならば、この銘文は「未」から始まることになります。すなわち、文の冒頭は「未年八月」となります。しかし、これは有り得ません。定説の通り、「癸未年八月」でよいのです。そう言い得る理由は次の①と②です。
①「未年八月」は、未(ひつじ)の年の八月という意味です。未(ひつじ)年は単なる十二支(じゅうにし)です。それは12年周期です。西暦500年の前後でいえば、未年は西暦443年、455年、467年、479年、491年、503年、515年、527年、539年、551年です。人生50年の時代ならば、人の誕生年は、十干十二支ならば生まれた年だけですが、十二支ならば五回も訪れます。
しかし、金石文における年は十干十二支(干支)で記されます。
例えば、国宝・稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉)出土鉄剣銘は「辛亥年七月中記」で始まります。これは、「辛亥(かのとい)の年の七月に記す」という意味です。辛亥年という干支年と七月という月との組み合わせです。
1971年に韓国の公州市で発見された百済の武寧王の墓誌には「癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到」とあります。これは、「癸卯(みずのとう)の年の五月七日に亡くなった」という意味です。癸卯という干支年と五月七日という月日との組み合わせです。
これらは、干支年プラス月(または干支年プラス月日)という型式で共通しています。従って、隅田八幡鏡銘文の場合も、十二支年プラス月はあり得ず、十干十二支年プラス月なのです。
②隅田八幡鏡銘文の番号1と番号48との間に半球状の小突起があります。銘文中に小突起があるのはこの場所だけです。そのことは鏡の原寸大写真にて確認できます〔注2〕。この小突起は銘文の始まりを示すものと理解されています〔注3、頁417〕〔注5、頁112〕〔注6、頁48〕。この理解は妥当であると言えます。だとすると、銘文の始まりは番号1なのです。
以上から、銘文が番号1から始まるのは確かであり、その文字は十干(じっかん)を表します。年を表す干支において、十二支の未(ひつじ)の頭につく十干は、辛・癸・乙・丁・己の五つに限られます。このうち、番号1の字形に似ているのは「癸」しかありません。よって番号1は「癸」なのです。
堀大介氏は、番号1の字形のうちの上部の「△」は「癶」の省略であると見なして、それを誤字ではなくて、正しく「癸」を刻字したものと捉えています〔注1〕。
結論として、冒頭の5文字〔番号1~5〕は「癸未年八月」であり、それは「癸未(みずのとひつじ)年の八月」を意味するのです。
西暦500年の前後でいえば、癸未(みずのとひつじ)年は西暦443年と503年です。前稿で述べたように、近年では、銅鏡についての考古学的見地から503年説が有力です〔注7〕〔注8〕〔注9、頁252〕。そこで本稿も503年説に立ちます。
〔B〕「■十大王年」とは何を意味するのか?
番号6から10までが「■十大王年」です。このうち、番号6の漢字は何かについて二説あります。一つは、ニチと音読みする「日」です。もう一つが、エツと音読みする「曰」です。似て非なる漢字同士です。前者では、「日十大王年」となり、後者では「曰十大王年」となります。
前者の「日」(ニチ)を採る論者の間で流行るのが、「日」〔番号6〕と「十」〔番号7〕との順序を変えて「十日」と読むことです。その上で、その前段と一続きものと捉えて「癸未年八月十日」という年月日と解釈するのです。
しかし、これはいかにも無理筋です。国語学者の沖森卓也氏によれば、「十日」を「日十」と表記する実例がありません〔注6、頁49〕。それだけではありません。この説では、「癸未年八月■十大王年」〔番号1~10〕は「癸未年八月十日、大王の年」という意味になります。「癸未年八月十日」はよいとして、「大王の年」とは一体どういう意味でしょうか?これは意味を成しません。よって、この説に従うことはできません。
「日」なのか「曰」なのかを決めがたいため、以下、「■」〔番号6〕は「日(曰)」と表記することとします。
私見では、この部分が何を意味するのかを知る上で重要なのは「■十」〔番号6、7〕ではありません。肝心なのは「大王」〔番号8、9〕です。
埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳出土鉄刀銘にワカタケル「大王」が記されます。これは雄略天皇のことです。つまり「大王」とは天皇のことです。この時代、「天皇」という表記はまだ案出されておらず、「大王」と表記されていたのです。
だとすると、「日(曰)十大王」〔番号6~9〕は天皇であり、しかも特定の天皇を指していることになります。そして、「日(曰)十大王年」〔番号6~10〕とは、「日(曰)十天皇の御世」という意味になります。
それでは、「日(曰)十大王」とはどの天皇のことなのでしょうか?そもそも「日(曰)十」とは天皇の名なのでしょうか?「日(曰)十」の読みが全く定まっていないため、それが分かりません。もしかしたら、「日(曰)十大王」とは、固有名詞ではなくて、今上陛下という意味の普通名詞なのかもしれません。
いずれにせよ、この表記からどの天皇であるかを特定することはできません。
とはいえ、別のアプローチからそれが分かります。鍵となるのは、「癸未年八月」〔番号1~5〕です。文脈から、「癸未年八月」と「日(曰)十大王年」とは、同じ時期を別の言い方で表現したものと考えられます。だとすると、「日(曰)十大王」とは、癸未年八月の時点での天皇のことです。先述したように、この癸未年は西暦503年です。『日本書紀』によれば、癸未年(503)は武烈天皇五年に当たります〔注10〕。よって、「日(曰)十大王」とは武烈天皇〔第25代〕のことです。
結局、「癸未年八月日(曰)十大王年」〔番号1~10〕とは、「西暦503年8月すなわち武烈天皇の御世」という意味になります。
〔C〕「斯麻」とは何なのか?
多くの研究者は「斯麻」〔番号21、22〕とは百済の武寧王(ぶねいおう)のこととします。
私も同じです。
本ブログの過去記事〔2026/1/6〕にて、武寧王に言及しました。この王は、461年に生まれ、502年に王位に就き、523年に亡くなりました。その生前の本名が「斯麻王」です。「斯麻」は「しま」と読み、日本語の「島」に由来します。『日本書紀』雄略天皇五年六月条によれば、この王は「筑紫の各羅島」(つくしのかからのしま)で産まれました。そのことに因んで「しま」と名付けられたのです。
隅田八幡鏡銘文の「斯麻」〔番号21、22〕とは、百済の斯麻王すなわち武寧王のことです。
ここで知るべきは、これが銘文の骨組みであることです。すなわち、この銘文を語る主体であり、且つ、この鏡を製作した主体は、百済の武寧王なのです。
『日本書紀』武烈天皇四年「是歳」条によると、この王が即位したのが502年です。つまり、武寧王は王位に就いた翌年にこの鏡を製作したのです。
〔D〕「念長■」とはどういう意味なのか?
「念長■」〔番号23~25〕につき検討します。
「■」〔番号25〕には、「奉」、「泰」、「寿」という説があります〔注1〕。ここでは、山尾幸久氏や篠川賢氏や堀大介氏の説〔注3、頁423〕〔注4、頁102〕〔注1〕に従い、「奉」を採ります。
そうすると、「念長奉」〔番号23~25〕は、「長く奉へんと念ひ」〔注3、頁423〕と訓読され、「長く仕えることを願い」と現代語訳されます。
「泰」を採れば、「長く泰かなることを念ひ」と訓読され、「長く安泰であることを願い」という意味になります。
「寿」を採れば、「長寿を念ひ」と訓読され、「長寿を願い」という意味になります。
いずれにせよ、その主語は「斯麻」すなわち武寧王です。
それでは、武寧王は誰に対して「念」じているのでしょうか?それは武寧王にとって目上の人物です。だとすると、それは天皇を措いて他にいません。武寧王は天皇に長く仕えることを願っていると述べているのです。この場合の天皇は武烈天皇です。
〔E〕「遣■中費直濊人今州利二人■」とはどういう意味なのか?
「遣■中費直濊人今州利二人■」〔番号26~38〕につき検討します。
「■中費直」〔番号27~30〕は人物です。
「■」〔番号27〕には、「歸」、「開」、「辟」などの説があります。石和田秀幸氏や堀大介氏は「歸」と説きます〔注11〕〔注1〕。沖森卓也氏は「辟」とします〔注6、頁47〕。
ここでは「辟」を採ります。『日本書紀』神功皇后摂政四十九年三月条に「辟中」(へちう)という地名が現れます。現在の大韓民国の全北特別自治道(かつての全羅北道)金堤市に比定されます。「辟中」〔番号27、28〕とはこの地のことと考えます。
「費直」〔番号29、30〕について、沖森卓也氏は「ほちき」という人名とします〔注6、頁49〕。ここではこの説を採ります。
よって、「辟中費直」〔番号27~30〕とは、「辟中の人である費直」という意味になります。
「濊人」〔番号31、32〕は、「濊の人」という意味です。『後漢書』東夷列伝および『三国志』東夷伝によれば、東夷には七つの民族がいました。そのうちの一つに「濊」があります。
「今州利」〔番号33~35〕は人名です。「濊人今州利」〔番号31~35〕とは、「濊人である今州利」という意味になります。
「■」〔番号38〕には、「等」と「尊」との二説があります。ここでは、篠川賢氏や堀大介氏の説〔注4、102頁〕〔注1〕に従い、「尊」を採ります。「尊」とは重臣・高官のことです〔注4、102頁〕。
よって、「遣辟中費直濊人今州利二人尊」〔番号26~38〕は、「辟中の人である費直と濊人である今州利との二人の重臣を派遣して」という意味になります。
彼ら二人を派遣した主体は「斯麻」すなわち武寧王です〔注4、頁100〕。
それでは、武寧王は誰のもとに彼らを派遣したのでしょうか?もちろん武烈天皇です。
〔F〕「■白上同二百旱■此竟」とはどういう意味なのか?
「■白上同二百旱■此竟」〔番号39~48〕につき検討します。
「■」〔番号39〕には、「所」と「取」との二説があります。ここでは「所」を採ります。
「同」〔番号42〕とは銅のことです。
「二百旱」〔番号43~45〕とは銅の分量のことです。
「■」〔番号46〕には、「所」、「作」、「取」の三説があります。ここでは「所」を採ります。
「竟」〔番号48〕とは鏡のことです。
「所白上同二百旱所此竟」〔番号39~48〕には、様々なパターンの訓読が試みられています〔注1〕。とはいえ、どれをとっても大意に変わりありません。ここでは、堀大介氏が提示する幾つかの例のうちの一つを挙げます。それは、「白上の銅二百旱を所て、此の鏡を所す」〔注1〕というものです。「白上の銅二百旱を以て、此の鏡を作った」という意味です。
ここまでの論考をまとめると、隅田八幡鏡銘文は次のようになります。
「癸未年八月日(曰)十大王年■弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣辟中費直濊人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟」
この銘文の骨格は、百済の武寧王が武烈天皇に奏上していることにあります。武寧王は自らの即位の翌年に朝廷に使者を派遣し、隅田八幡鏡を朝貢したのです。
そのことを踏まえて銘文を現代語に訳すると、それは次のようになります。
「癸未年八月、今上陛下の御世にて『■弟王』が忍坂宮にいる時にあたって、私すなわち斯麻は陛下に末長くお仕えすることを念願するものです。そこで、辟中の人である費直ならびに濊人である今州利という二人の重臣を陛下のもとに派遣しました。二百旱の極上の銅でこの鏡を作りましたので、ここに献上いたします。」
ここまで敢えて素通りしてきた文字列があります。それが「■弟王」〔番号11~13〕です。503年(癸未年)8月、武烈天皇の御世にて忍坂宮にいた人物です。
実を言うと、この「■弟王」こそが、この銘文を理解しがたいものとし、ひいては混乱を招いている元です。銘文の解釈が試みられ始めてから110年以上経た今もって、それが意味することが研究者によってバラバラである所以がここにあります。
「■弟王」が誰であるかを避けていては、まさに画竜点睛を欠くことになり、真の意味で隅田八幡鏡の銘文を解き明かしたことになりません。
既に述べたように、本稿は私説の前編です。後編にて、「■弟王」とは誰であるのか、なぜ「■弟王」が現れるのかにつき、新たな解釈を提示します。
つづく
注:
〔注1〕堀大介 2024「隅田八幡神社人物画像鏡銘文の再検討」『佛教大学 歴史学部論集』第14号:佛教大学歴史学部
〔注2〕田辺征夫(執筆)小田誠太郎(責任編集) 1997「人物画象鏡(隅田八幡神社)」『週刊朝日百科 日本の国宝 040』朝日新聞社
〔注3〕山尾幸久 1983『日本古代王権形成史論』岩波書店
〔注4〕篠川賢 2016『人物叢書 新装版 継体天皇』吉川弘文館
〔注5〕坂元義種 1991「隅田八幡神社人物画像鏡」『古代日本 金石文の謎』学生社
〔注6〕沖森卓也 2024『日本漢字全史』(ちくま新書)筑摩書房
〔注7〕車崎正彦 1995「隅田八幡人物画像鏡の年代」宇治市教育委員会(編)『継体王朝の謎 【うばわれた王権】』河出書房新社
〔注8〕東野治之 2006「七世紀以前の金石文」『列島の古代史 ひと・もの・こと 6 言語と文字』岩波書店
〔注9〕坂靖 2021『倭国の古代学』新泉社
〔注10〕内田正男(編著) 1993『日本書紀暦日原典〔新装版〕』雄山閣〔旧版の初版は1978年〕
〔注11〕石和田秀幸 2001「上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘 ―『男弟王』と『斯麻』は誰か―」藤井俊博・田中励儀(編)『同志社国文学』第54号:同志社大学国文学会
2026年4月5日 投稿