『古事記』『日本書紀』(『記』『紀』)によれば、武烈天皇〔第25代〕には世継ぎがなく、その崩御を以て仁徳天皇〔第16代〕系の皇統が途絶えました。そこで、応神天皇〔第15代〕の五世孫である傍系皇族、「男大迹王」(をほどのみこ)が皇位を継ぎました。それが継体天皇〔第26代〕です〔写真1〕。即位直前、男大迹王は、『記』によれば近江に、『紀』によれば越前にいました。
〔写真1〕継体天皇像(福井市の足羽山に立つ石像)

『日本書紀』によれば、継体天皇は西暦507年(継体元年二月)に「樟葉宮」(くすはのみや)で即位しました。その所在地は現在の大阪府枚方市の楠葉(くずは)です。淀川の左岸に位置します。511年(継体五年十月)に「山背の筒城」(やましろのつつき)に遷都しました。これは京都府の綴喜郡(つづきぐん)です。518年(継体十二年三月)に「弟国」(おとくに)に遷都しました。これは京都府の向日市・長岡京市などに当たります。かくの如く天皇は淀川水系の地で遷都を繰り返しました。そして、526年(継体二十年九月)に「磐余の玉穂」(いはれのたまほ)に遷都しました。これは現在の奈良県桜井市池之内の地とされます〔注1、頁34頭注〕。奈良盆地の南東部に位置します。ここに至って漸く継体天皇は大和国に入りました。即位してから約20年後のことです。
ところが、です。『紀』継体天皇段のこの記述は偽りであり、実際には男大迹王は即位前に大和で暮らしていたという主張があります。
この主張が正しければ由々しきことになります。なぜなら、継体天皇のことに限らず、『日本書紀』の記述全体に大いなる疑問符を付けることになるからです。ことは『日本書紀』の信憑性に関わる重大事です。本ブログでこの問題を論ずる理由がそこにあります。
私は、近著において、「国体の危機が深まる中での継体天皇の登場と筑紫国造・磐井の乱」を論じました〔注2、第八章〕。その論述の注記として、隅田八幡神社人物画像鏡に簡単に触れました〔注2、第八章・注13〕。
本ブログでは、二回に亘って、その内容を深掘りします。本稿はその初回です。
継体天皇が即位後20年かけて大和入りしたという記事を嘘とする主張が頼りとするのは一つしかありません。それが、和歌山県橋本市隅田町垂井に鎮座する隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)〔アイキャッチ画像〕が所蔵する、直径19.9㎝の銅鏡です。一般に隅田八幡神社人物画像鏡と呼ばれます。現在は東京国立博物館に寄託されています。これは江戸時代後期に現在の橋本市妻で刀剣や土器とともに発見されたとの伝えがあるとのこと〔注3〕。とはいえこの神社がこの鏡を所有するに至った時期や経緯は詳らかではありません。
この鏡は1951年に国宝に指定され、一部の高校教科書(『日本史探究』東京書籍 令和6年発行)で取り上げられています。国宝指定名は「人物画象鏡」(じんぶつがぞうきょう)です。
古鏡の専門家によれば、これは中国鏡ではなくて、古墳時代の中期後半~後期に製作された仿製鏡(ぼうせいきょう)〔中国鏡を模倣して作った鏡〕です〔注4〕。
この銅鏡が注目される最大の理由は、鏡の外区に円を描くように文字が並ぶことです〔写真2〕。つまり銘文があることです。後述するように、この鏡は503年に製作されました。その銘文は、埼玉県の稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉)出土鉄剣銘や熊本県の江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町江田)出土鉄刀銘と並んで、現存する我が国最古級の漢文です。その実物を実見することは容易にできませんが、『週刊朝日百科 日本の国宝 040』〔注3〕にて原寸大の文字を鮮明な写真で見ることができます。
〔写真2〕隅田八幡神社境内の人物画像鏡の像

銘文の文字数は48です。その解読は大正初年に始まりました。以後、多くの学者がこれに挑んできました。しかし未だ定説はありません。48文字中の一部につき、それがいかなる文字であるかに異説があります。銘文全体の読みとその解釈に至っては三者三様です〔注3〕。そのため、有名である割には、歴史資料として余り役立てられていないのが実状です。解釈次第で話が大きく違ってしまうからです。
本稿では、“継体天皇即位前の大和居住”説に関わる部分に絞って銘文を解説します。
なお、以下の「番号」とは銘文の文字の順番のことです。最初の文字が番号1、最後の文字が番号48です。
冒頭の3文字〔番号1~3〕が「癸未年」であることには概ねコンセンサスがあります。これは干支であり、この鏡が製作された年を示します。問題はこの癸未(みずのとひつじ)の西暦年です。443年説と503年説とがあります〔干支は60年周期であるため〕。近年では、銅鏡についての考古学的見地から503年説が有力です〔注5〕〔注6、頁252〕。そこで本稿も503年説に立ちます。つまり、この鏡は503年に製作された仿製鏡であるわけです。
西暦503年は『日本書紀』武烈天皇五年に当たります〔注7〕。すなわち、武烈天皇〔第25代〕の御世です。ちなみに、武烈天皇は仁賢天皇〔第24代〕十一年十二月(西暦498年)に即位し、武烈天皇八年十二月(西暦507年)に崩御されました。その治世は8年間です。
番号11から番号20までの10文字が「□弟王在意柴沙加宮時」です。このうち番号11の□は「男」と読み取るのが有力です。これを採れば、この10文字は、「男弟王」が「意柴沙加」の「宮」に「在」る「時」と訓読されます。文脈上、この「時」〔番号20〕は、「癸未年」〔番号1~3〕と同じです。つまり、西暦503年の時、「男弟王」は「意柴沙加」の宮に在住していたわけです。
ここで「意柴沙加」は「おしさか」と読むのが定説です。「おしさか」は「忍坂」であり、それは今の奈良県桜井市忍阪〔写真3〕のことという見解が有力です〔注8、頁103頭注〕〔注9、頁48〕。ちなみに現在の忍阪はオッサカと読みます。
〔写真3〕奈良県桜井市忍阪

『日本書紀』允恭天皇元年十二月、允恭天皇の妃である「忍坂大中姫」(おしさかのおほなかつひめ)は允恭天皇〔第19代〕の即位に大いに貢献しました。允恭天皇二年二月十四日、天皇は忍坂大中姫を皇后に立てました。そして、この日に「皇后の為に刑部(おしさかべ)を定めました」。刑部は名代・子代(なしろ・こしろ)の一つです。名代・子代とは、后妃・皇子の日常生活を支えるために設置された部民集団です。つまり、この皇后は允恭朝における実力者だったのです。皇后が居住していた地が忍坂であり、それを忍坂宮(おしさかのみや)といいます〔注10、頁136〕〔注11、頁27〕。
忍坂大中姫は「稚渟毛二岐皇子」(わかぬけふたまたのみこ)の娘です〔『記』応神天皇段、『紀』安康天皇即位前紀〕。そして、稚渟毛二岐皇子の後裔氏族の一つが、息長(おきなが)氏です〔注12〕。
忍坂宮および刑部は、忍坂大中姫の後、中大兄皇子の時代まで継続されました。それを営んだのが、息長氏の祖先です〔注10、頁137〕。敏達天皇〔第30代〕の最初の皇后が「広姫」(ひろひめ)です。「息長真手王」(おきながのまてのみこ)という傍系皇族の娘です。広姫が産んだ子の一人が「押坂彦人大兄皇子」(おしさかのひこひとのおほえのみこ)です。『古事記』では「忍坂日子人太子」(おしさかのひこひとのおほみこ)と表記されます。舒明天皇〔第34代〕の父です。その名前から、忍坂の地に関わる皇子と推定されます。成人前の押坂彦人大兄皇子は、その母である広姫と共に忍坂宮で暮らしていたと思われます。
考古学的には、桜井市の忍阪(おっさか)の地に忍坂遺跡(おしさかいせき)があります。五世紀後半から六世紀後半にかけての遺跡です。そこにおいて掘立柱建物、塀、溝などの遺構が見つかり、鉄鉾などの遺物が出土しており、一般集落とは異質の集落であったと見られています〔注6、頁258〕。これが忍坂宮の跡であると考えられます。
人物画像鏡銘文の「意柴沙加宮」〔番号15~19〕とは、忍坂大中姫に始まる忍坂宮のこととする説が有力です〔注1、頁543補注〕。
結局、「男弟王在意柴沙加宮時」〔番号11~20〕は、武烈天皇の御代である503年に、「男弟王」が忍坂宮すなわち今の奈良県桜井市忍阪に居住していたことを意味するのです。
そこで問題は、「男弟王」とは誰なのか、です。
「男弟王」は「男大迹王」であるという説があります。人物画像鏡銘文の男弟王とは、即位前の継体天皇のことであるという説です。これは、「男弟」の読みである「をおと」を「男大迹」の読みである「をほど」と同一視するものです。
503年に男大迹王(後の継体天皇)は大和の忍坂宮にいたというこの説をとるのが、古代史学者の大橋信弥氏であり〔注13〕、古代史学者の古市晃氏であり〔注14〕、考古学者の坂靖氏です〔注6〕。
彼らによれば、男大迹王は皇位に就く前に既に大和政権の実力者であり、大和の忍坂宮を拠点に東アジア外交を執り行っていたのだそうです〔注13、頁168〕〔注14、頁237〕。その証拠が隅田八幡神社人物画像鏡だというのです。
彼らの主張が『日本書紀』の記述とあらゆる点で食い違っていることは改めて言うまでもありません。
しかし、彼らの説は成り立ちません。なぜなら、「男弟王」と「男大迹王」とは別人だからです。
推定される六世紀初頭の音韻からすると、「をおと(男弟)」を「をほど(男大迹)」と同じとするのには無理があることが、権威あるテキストである『日本古典文学体系 日本書紀』(岩波書店)により早くから指摘されています〔注1、頁543補注〕。
近年においても、二人の専門家、石和田秀幸氏と沖森卓也氏とがこれと同じ見解を述べています〔注15〕〔注9、頁50〕。石和田氏によれば、「(引用者挿入:男弟王と男大迹王とは)違う名前と言わなければならない。これはすでに大野晋氏が岩波日本古典文学大系『日本書紀下』の注で詳しく音韻考証をしており、それに対して国語学的に例証を挙げて反駁した説を見ない」〔注15〕のです。要するに、国語学的にも、「男弟王」=「男大迹王」説は成り立ちがたいのです。
2025年2月19日、新聞各紙は次のニュースを報じました。「弟国」の候補地である京都府長岡京市の井ノ内遺跡(いのうちいせき)から、六世紀前半の複数の竪穴式建物跡と遺物が発掘されたことです。
宮殿そのものが発見されたわけではないようですが、継体天皇が518年(継体十二年三月)から526年(継体二十年九月)まで営んだ「弟国」の都の一部とみて間違いありません。これは『日本書紀』の記述を裏付ける考古学上の発見です。
以上、継体天皇は即位前に既に大和で活躍していたという、一部の学者が宣う説はトンデモ説であるわけです。継体天皇の大和入りは『日本書紀』の通りなのです。
それでは、隅田八幡神社人物画像鏡の銘文はどう読み解くべきなのでしょうか?
次回にて私案(試案)を提示します。
つづく
注:
〔注1〕坂本太郎ら四名(校注) 1993『日本古典文学大系新装版 日本書紀 下』岩波書店〔旧版は1965年に発行〕
〔注2〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注3〕田辺征夫(執筆)小田誠太郎(責任編集) 1997「人物画象鏡(隅田八幡神社)」『週刊朝日百科 日本の国宝 040』朝日新聞社
〔注4〕森下章司 2004「鏡・支配・文字」平川南ら四名(編)『文字と古代日本1 支配と文字』吉川弘文館
〔注5〕東野治之 2006「七世紀以前の金石文」『列島の古代史 ひと・もの・こと 6 言語と文字』岩波書店
〔注6〕坂靖 2021『倭国の古代学』新泉社
〔注7〕内田正男(編著) 1993『日本書紀暦日原典〔新装版〕』雄山閣〔旧版の初版は1978年〕
〔注8〕小島憲之ら五名(校注・訳) 1996『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館
〔注9〕沖森卓也 2024『日本漢字全史』(ちくま新書)筑摩書房
〔注10〕熊谷公男 2001『日本の歴史 第03巻 大王から天皇へ』講談社
〔注11〕宝賀寿男 2014『古代氏族の研究⑥ 息長氏 大王を輩出した鍛冶氏族』青垣出版
〔注12〕『古事記』応神天皇段および『新撰姓氏録』左京皇別・息長真人の項によると、息長氏は稚渟毛二岐皇子の後裔氏族です。
〔注13〕大橋信弥 2020『継体天皇と即位の謎 新装版』吉川弘文館〔旧版の初版は2007年〕
〔注14〕古市晃 2021『倭国 古代国家への道』(講談社現代新書)講談社
〔注15〕石和田秀幸 2001「上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘 ―『男弟王』と『斯麻』は誰か―」藤井俊博・田中励儀(編)『同志社国文学』第54号:同志社大学国文学会
2026年3月27日 投稿