記事(2025/10/16)、(2025/11/16)、(2025/11/29)、(2026/2/1)にて次のことを述べました。
①画文帯神獣鏡は三世紀前半に公孫氏(中国大陸の遼東半島を本拠地とする政治勢力)から大和政権の実力者にもたらされた。そして、三世紀半ばまで、この実力者はこの鏡を国内の親大和政権派の有力者に配布または寄贈した。
②画文帯神獣鏡は三世紀前半~250年代の墳墓・古墳に副葬された。その出土地は、東部瀬戸内地域および奈良盆地である〔注1、第十四章〕。奈良盆地におけるそれは上牧久渡3号墳とホケノ山古墳である。
③画文帯神獣鏡は、三世紀半ばまで、淀川水系流域から関ヶ原方面にかけての地域(摂津、山城、近江、美濃)の有力者に配布されなかった。
記事(2025/10/16)、(2025/11/16)にて次のことを述べました。
①三角縁神獣鏡は、西暦239年から266年までの数次に亘る遣使により、魏・晋王朝から卑弥呼・台与に下賜された。そして、240年以降、卑弥呼・台与政権は、この鏡を自らに従う国内豪族に配布した。
②三角縁神獣鏡は250年代の古墳に副葬された。その出土地は、淀川水系流域(摂津)およびその以西(播磨、筑前)である【具体例は後述の〔B〕】。
③大和川水系流域で三角縁神獣鏡の副葬が始まったのは260年代末以降である。その始まりが、奈良盆地の黒塚古墳である。つまり、260年代半ばまで、大和川水系流域(奈良盆地を含む)から伊勢方面にかけての地域の有力者に三角縁神獣鏡は配布されなかった。
記事(2026/2/8)にて次のことを述べました。
①倭製鏡は三世紀前半に我が国の中核的政権により製作された。そして、この政権はこの鏡を自らに従う国内豪族に配布した。
②倭製鏡は240年代~250年代の墳墓・古墳に副葬された。その出土地は、淀川水系流域(山城、宇陀)およびその以西(丹波、播磨、備前)である【具体例は後述の〔A〕】。
③大和川水系流域で倭製鏡の副葬が始まったのは270年以降である。その始まりが、奈良盆地の桜井茶臼山古墳および下池山古墳である。つまり、260年代末まで、大和川水系流域(奈良盆地を含む)から伊勢方面にかけての地域の有力者に倭製鏡は配布されなかった。
以上のことから、三世紀前半の近畿地方における銅鏡について、次のように結論します。
第一に、三世紀前半に倭製鏡を製造し、配布していた政権は、240年以降に中国製三角縁神獣鏡を配布していた政権と同一です。すなわち、それは卑弥呼政権です。
第二に、三世紀前半の近畿地方は二つの銅鏡流通圏に分かれていました。
一つは、倭製鏡・三角縁神獣鏡流通圏です。これは淀川水系流域です。私はこの地域を「淀川・関ヶ原ライン」と名付けました〔注1、第七章〕。現在のJR東海道本線の路線です〔注2〕。この流通圏を統括するのが卑弥呼政権です。
もう一つは、画文帯神獣鏡流通圏です。これは大和川水系流域です。私はこの地域を「大和川・青山峠ライン」と名付けました〔注1、第七章〕。現在の近鉄大阪線の路線です〔アイキャッチ画像〕。この流通圏を差配するのが大和政権有力者です。
本稿では、上記の結論を補強するものとして、玉類を取り上げます。
〔A〕倭製鏡が副葬された240年代~250年代の墳墓・古墳
記事(2026/2/8)にて、倭製鏡が出土した240年代~250年代の墳墓・古墳には次の五つがあると述べました(年代の根拠となる文献については、2026/2/8の記事をご覧ください)。
それらの被葬者に倭製鏡が配布されたのは三世紀前半~250年代です。
それらの所在地は、淀川水系流域〔④⑤〕ないしはその以西〔①②③〕です。大和川水系流域には皆無です。
そこで、これらにおける玉類の出土の有無をみて見ましょう。
①播磨の養久山1号墳
養久山(やくやま)1号墳〔兵庫県たつの市揖保川町養久〕は、庄内式併行期(弥生時代終末期)の終わり、すなわち250年頃の墳墓です。
ここから、獣形文鏡である四獣鏡が出土しました〔注3〕。
玉類については、第3主体部からガラス小玉が8点出土しました〔注4、頁201〕。すべて谷澤分類〔注4、頁56~60〕のIPB①型です。
②丹波の今林8号墓
今林(いまばやし)8号墓〔京都府南丹市園部町小桜町〕は、庄内式併行期(弥生時代終末期)の墳墓です。
その第1主体部から、獣形文鏡である四獣鏡が一面出土しました。
玉類については、第1主体部から、ガラス管玉が8点出土しました〔注5〕。
③備前の七つ𡉕1号墳
七つ𡉕(ななつぐろ)1号墳〔岡山県岡山市北区津島〕は、布留0式・布留1式移行併行期または布留1式期古相併行期の古墳です。
副葬品は、調査時に既に乱掘されていたため、全容は不明です〔注6、頁70〕。獣形文鏡である四獣鏡が出土しました。
玉類については、碧玉製管玉が1点出土しました〔注6、頁70〕〔注4、頁201〕。
④山城の芝ヶ原古墳 〔写真〕
芝ヶ原(しばがはら)古墳〔京都府城陽市寺田大谷〕は、庄内式新段階から布留式最古段階古相、すなわち240年代末の墳墓です。
この墳墓から、絵画文鏡である四獣鏡が出土しました〔注3〕。
玉類については、ヒスイ製勾玉が8点、碧玉製および緑色凝灰岩製の管玉が計187点、ガラス小玉が1264点出土しました〔注7〕。この膨大な数のガラス小玉は、すべてIPB①型です〔注4、頁190〕。
〔写真〕芝ヶ原古墳

⑤宇陀の見田・大沢4号墳
見田・大沢(みたおおさわ)4号墳〔奈良県宇陀市菟田野見田・菟田野大澤〕は、布留0式期古相併行期、すなわち250年代の古墳です。
ここから、獣形文鏡である四獣鏡が出土しました。
玉類については、ヒスイ製勾玉が1点、緑色凝灰岩製管玉が7点出土しました〔注8、頁63~64〕。
〔B〕三角縁神獣鏡が副葬された250年代の古墳
記事(2025/11/16)にて、三角縁神獣鏡が出土した250年代の古墳には次の五つがあると述べました(年代の根拠となる文献については、2026/11/16の記事をご覧ください)。
それらの被葬者に三角縁神獣鏡が配布されたのは240年~250年代です。
それらの所在地は、淀川水系流域〔⑤〕ないしはその以西〔①②③④〕です。大和川水系流域には皆無です。
そこで、これらにおける玉類の出土の有無をみて見ましょう。
①筑前の藤崎遺跡32次1号墓
藤崎遺跡(ふじさきいせき)32次1号墓〔福岡県福岡市早良区藤崎〕は、箸墓古墳併行期(久住編年のⅡA期)の墳墓です。
ここから、三角縁波文帯盤龍鏡(京大目録番号5)が1面出土しました。画文帯神獣鏡はありませんでした。
玉類は出土していません。
②筑前の那珂八幡古墳・第2主体部
那珂八幡(なかはちまん)古墳〔福岡県福岡市博多区那珂〕の第2主体部の年代は古墳時代初頭です。
ここから三角縁画文帯五神四獣鏡(京大目録番号56)が1面出土しました。画文帯神獣鏡はありませんでした。
玉類については、ヒスイ製勾玉が1点、碧玉製管玉が2点、ガラス小玉が1点出土しました〔注9〕〔注4、頁195〕。
③播磨の権現山51号墳
権現山(ごんげんやま)51号墳〔兵庫県たつの市御津町中島〕は、揖保川下流域にある前方後方墳であり、布留0式期古相段階すなわち250年代の古墳です。
ここから三角縁神獣鏡が5面(京大目録番号48a、21、26、16、86)出土しました。画文帯神獣鏡はありませんでした。
玉類については、ガラス小玉が約220点出土しました〔注10、頁96~98:執筆担当は、野田文〕。すべてIPB①型です〔注4、頁201〕。
④播磨の吉島古墳
吉島(よしま)古墳〔兵庫県たつの市新宮町吉島〕は、揖保川中流域にある最古段階の前方後円墳です。
ここから三角縁神獣鏡が4面(京大目録番号36、44、44、2)出土しました。画文帯神獣鏡はありませんでした。
玉類については、ガラス小玉が51点出土しました〔注11、頁17~18〕。すべてIPB①型です〔注4、頁201〕。
⑤摂津の安満宮山古墳
安満宮山(あまみややま)古墳〔大阪府高槻市安満御所の町〕は、淀川右岸にある古墳時代前期初頭の方墳です。
ここから三角縁神獣鏡が2面(京大目録番号29a、48)出土しました。画文帯神獣鏡はありませんでした。
玉類については、ガラス小玉が1641点出土しました〔注12、頁65~70〕。すべてIPB①型です〔注4、頁209〕。
以上の〔A〕〔B〕をまとめると、倭製鏡または三角縁神獣鏡が出土した、260年以前の墳墓・古墳には次の特徴があります。
第一に、その所在地は大和川水系流域ではないことです。
第二に、画文帯神獣鏡が出土しないことです。
第三に、その殆どで(9/10)玉類が出土することです。
第四に、画一的な材質のガラス小玉が大量に出土する古墳が目立つことです。
〔C〕大和川水系流域の古墳
大和川水系流域に所在する古墳において、主体部の発掘調査が実施された事例は少なくありません。そのため、ここでは275年以前(三世紀第3四半期の終わりまで)の古墳に限定します。となると、該当するのは以下の六つの古墳です。
①ホケノ山古墳
ホケノ山古墳〔奈良県桜井市箸中〕は、三世紀中頃の古墳です〔注13、②頁290〕。
発掘調査時に既に棺の南側は盗掘を受けていました〔注13、①頁40、②頁84・266〕。
ここから、画文帯同向式神獣鏡、画文帯神獣鏡、内行花文鏡が出土しました。三角縁神獣鏡はありませんでした。倭製鏡はありませんでした。
玉類は出土しませんでした〔注13〕。
②上牧久渡3号墳
上牧久渡(かんまきくど)3号墳〔奈良県北葛城郡上牧町〕は、古墳時代前期初頭〔注14、頁120〕、すなわち三世紀中頃の古墳です。
これは未盗掘の状態で発見されました。ただし、発掘調査時の不注意により埋葬施設が毀損されたため、副葬品の配置状況は分かりません〔注14〕。とはいえ、盗掘を免れていたことの意義の大きさは計り知れません。腐食により朽ち果てた物を除けば、発掘された物がそのまま埋葬時のものと言えるからです。もし激しい盗掘を受けていると、発掘調査時にない物を元々なかったとは断定できません。盗掘によって持ち去られた可能性があるからです。
ここから、画文帯神獣鏡(画文帯環状乳四神四獣鏡)が1面出土しました。三角縁神獣鏡はありませんでした。倭製鏡はありませんでした。
玉類は出土しませんでした〔注14、頁65〕。
③中山大塚古墳
中山大塚(なかやまおおつか)古墳〔奈良県天理市中山町〕は、三世紀中頃の古墳です〔注15、頁178〕〔注16〕。
学術調査が行われたものの、甚だしい盗掘により副葬品の多くが失われていました。銅鏡の破片2点が出土しました。
玉類は出土しませんでした〔注15〕。ただし、上記の事情により、実際になかったのかどうかは不明です。
④黒塚古墳
黒塚(くろづか)古墳〔奈良県天理市柳本町〕は、布留0式新相〔注17〕/布留式古段階古相〔注18、①②〕、集成編年の1期〔注16〕または2期〔注19、①〕、広域編年のⅡ期〔注20〕、新潟シンポジウム編年の7期〔注18、①②③〕の古墳です。暦年代では260年代末と推定されます。
石室はその床面まで石材が自然崩落し、それが幸いして、中世に行われた盗掘は石室南端部に限定されていました。そのため、石室床面の約九割に当たる、棺の内部および棺外の東・西・北側は手付かずのまま残っていました〔注21、頁69〕。黒塚古墳の学術的価値が比類なく高い所以です。そこにない物は元々なかったと概ね言い得ます。棺内からの出土品は、腐食により朽ち果てた物を除けば、それがそのまま副葬当時のものです。
ここから、画文帯神獣鏡(画文帯蟠龍乳四神四獣鏡)が1面、三角縁神獣鏡が33面出土しました。倭製鏡はありませんでした。
玉類は出土しませんでした〔注21〕。
⑤桜井茶臼山古墳
桜井茶臼山(さくらいちゃうすやま)古墳〔奈良県桜井市外山〕は、布留1式/布留式古段階新相〔注18、①②〕、集成編年の2期〔注19〕〔注16〕、広域編年のⅡ期〔注20〕、新潟シンポジウム編年の8期〔注18、①②〕の古墳です。歴年代では270~280年と推定されます。
発掘調査時に既に盗掘を受けていたため、副葬品の全容は不明です〔注22〕。
103面を超える大量の銅鏡の破片が出土しました。それらは、多数(26面超)の三角縁神獣鏡、画文帯神獣鏡、その他の中国鏡(方格規矩鏡、内行花文鏡など)であり、多数(21面超)の倭製鏡(倭製内行花文鏡、倭製鼉龍鏡など)です。
玉類については、管玉が数点、ガラス管玉が1点、ガラス小玉が数点出土しました〔注22〕。
⑥下池山古墳
下池山(しもいけやま)古墳〔奈良県天理市成願寺町〕は、布留1式/布留式古段階新相〔注18、①〕、集成編年の2期〔注19〕〔注16〕、新潟シンポジウム編年の8期〔注18、①③〕の古墳です。暦年代では270~280年と推定されます。
発掘調査時に既に大規模な盗掘を受けていたため、副葬品の全容は不明です〔注23〕。
ここから、超大型(面径37.6㌢)の倭製鏡(倭製内行花文鏡)が出土しました。
玉類については、ヒスイ製勾玉が2点、碧玉製管玉が7点、ガラス小玉が44点出土しました〔注23〕。
以上の〔C〕をまとめると、大和川水系流域の古墳には次の特徴があります。
第一に、画文帯神獣鏡が出土する三世紀中頃の古墳があることです。
第二に、三角縁神獣鏡が出土し始めるのは260年代末であることです。
第三に、倭製鏡が出土し始めるのは270年代であることです。
第四に、玉類が出土し始めるのは270年代であることです。
つまり、大和川水系流域では倭製鏡と玉類の副葬開始はほぼ同時期であり、270年以降のことです。それは淀川水系流域よりも20年以上も後です。
〔D〕まとめ
以上の考古学的事実に対する私の解釈を示します。
三世紀前半の近畿地方は二つの銅鏡流通圏に分かれていました。
一つは、倭製鏡の流通圏です。これは玉類の流通圏でもありました。240年以降、新たに加わったのが三角縁神獣鏡です。これは魏からもたらされた中国鏡です。この流通圏を束ねていたのが卑弥呼政権です。卑弥呼は自らに従う各地の豪族に鏡を配布しました。この時期の玉類を特徴づけるのが、大量の画一的なガラス小玉です。これを海外から輸入し、味方の有力者に配ったのは、おそらく卑弥呼です。
もう一つは、画文帯神獣鏡の流通圏です。240年以降、この流通圏の諸豪族は大和政権のもとに結集しつつありました。彼らは玉類を入手できませんでした。大和政権の勃興を警戒した卑弥呼政権が親大和派の豪族を玉類の流通網から斥けたからです。
魏志倭人伝によると、240年代半ばより、卑弥呼を女王に戴く「倭国」は「狗奴国」との戦争に突入しました。その最中の248年頃、卑弥呼は世を去りました。彼女を後継したのが、これまた女性である台与です。
私見では、この狗奴国政権こそが大和政権です。台与政権と大和政権とは敵対し続けました。台与は卑弥呼の政策を引き継ぎ、自陣営の豪族に三角縁神獣鏡と玉類とを配布しました。両者の対立の最前線が淀川水系領域です。倭製鏡と大量のガラス小玉を賜与された芝ヶ原古墳の被葬者や、三角縁神獣鏡と大量のガラス小玉を賜与された安満宮山古墳の被葬者は、山城・摂津という最前線で大和政権と対峙した、卑弥呼・台与政権陣営の豪族です。
局面が大きく変わったのは260年代末です。遂に大和政権は台与政権を滅ぼしました。その結果、台与政権が蓄えていた大量の威信財が大和政権の手に渡りました。かくして、大和政権のお膝元で三角縁神獣鏡の大量副葬が始まりました。それが大和の黒塚古墳であり、南山城の椿井大塚山古墳です。ここに至って、大和政権の有力者は玉類を手に入れました。同時に大和政権は独自の倭製鏡を製作し、それを配布し始めました。270年代になって漸く大和で倭製鏡と玉類とが副葬され始めたのはその故です。それが桜井茶臼山古墳であり下池山古墳です。とともに、大和政権は三角縁神獣鏡の国産に乗り出しました。ここにおいて大和政権は、傘下入りした全国各地の実力者に、中国製および国産の三角縁神獣鏡ならびに倭製鏡を下賜するという統治の仕組みを構築しました。
私は邪馬台国吉備説をとります〔注1〕。この立場からは、上記の卑弥呼・台与政権とは吉備の王権ということになります。
本稿は、2023年の全国邪馬台国連絡協議会(全邪馬連)論文集への寄稿論文〔注24〕の続編です。この論文は、2019年の拙著〔注1〕で説いたことの一部をブラッシュアップしたものです。
この2023年論文の本文、〔表〕、〔図〕は全邪馬連のホームページで公開されています。
その論文における〔表〕の一つを以下に提示します。
〔表〕

〔表〕において、「奈良盆地以外」の項にて、庄内式期最終段階の画文帯神獣鏡が有り(「〇」と表記)となっています。これは、阿波の萩原1号墓や播磨の綾部山39号墓などの庄内式期の東部瀬戸内の墳墓にて画文帯神獣鏡が出土していることに基づきます。
注:
〔注1〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房
〔注2〕「東海道本線」あるいは「東海道新幹線」という名称は誤解を招きます。なぜなら、名古屋駅と京都駅との区間、すなわち岐阜県の関ヶ原を経由する区間は本来の東海道ではないからです。それは、古代の東山道であり、江戸時代の中山道です。本来の東海道は三重県亀山市を経由するルートです。
〔注3〕本稿における「四獣鏡」という鏡式名および分類は、下垣仁志『日本列島出土鏡集成』(同成社 2016年)に依ります。
「獣形文鏡」という鏡式名および分類は、赤塚次郎「獣形文鏡の研究」『考古学フォーラム』10:考古学フォーラム(1998年)に依ります。
「絵画文鏡」という鏡式名および分類は、赤塚次郎「絵画文鏡の研究」『考古学フォーラム』12:考古学フォーラム(2000年)に依ります。
〔注4〕谷澤亜里 2020『玉からみた古墳時代の開始と社会変革』同成社
〔注5〕引原茂治・福島孝行(編著) 2001『京都府遺跡調査概報 第97冊』京都府埋蔵文化財調査研究センター
〔注6〕乗岡実・行田裕実(編著) 2000『吉備考古ライブラリー④ 吉備の古墳 上〔備前・美作〕』吉備人出版
〔注7〕中村大介 2014「発掘調査報告 出土遺物 玉類」岩本崇・岸本直文・小泉裕司ら九名(編著)『城陽市埋蔵文化財調査報告書 第68集 芝ヶ原古墳発掘調査・整備報告書』城陽市教育委員会
〔注8〕亀田博(編)奈良県立橿原考古学研究所(編) 1982『奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第44冊 菟田野 見田・大沢古墳群』奈良県教育委員会
〔注9〕井沢洋一・米倉秀紀(編著) 1986『福岡市埋蔵文化財調査報告書 第141集 那珂八幡古墳』福岡市教育委員会
〔注10〕権現山51号墳発掘調査団(団長:近藤義郎)(編) 1991『権現山51号墳』「権現山51号墳」刊行会
〔注11〕近藤義郎(編) 1983『吉島古墳』兵庫県新宮町教育委員会
〔注12〕鐘ヶ江一朗(編著) 2000『安満宮山古墳 発掘調査・復元整備事業報告書』高槻市教育委員会
〔注13〕①奈良県立橿原考古学研究所(編) 2001『大和の前期古墳Ⅳ ホケノ山古墳 調査概報』学生社
②岡林孝作・水野敏典(編) 2008『橿原考古学研究所研究成果 第10冊 ホケノ山古墳の研究』奈良県立橿原考古学研究所
〔注14〕関川尚功(編) 2015『上牧久渡古墳群発掘調査報告書』上牧町教育委員会
〔注15〕河上邦彦(編集総括) 1996『奈良県立橿原考古学研究所 調査報告第82冊 中山大塚古墳 附篇 葛本弁天塚古墳 上の山古墳』奈良県教育委員会
〔注16〕岡林孝作・水野敏典 2018「総括編 編年的位置」奈良県立橿原考古学研究所(編)『黒塚古墳の研究』八木書店
〔注17〕①寺沢薫 2018「研究編 出土土器からみた黒塚古墳の築造時期の位置づけ」奈良県立橿原考古学研究所(編)『黒塚古墳の研究』八木書店
②橋本輝彦 2017「纒向遺跡と纒向古墳群からみた初期ヤマト王権と黒塚古墳」『王権は移動したか ―纒向から柳本へ―』第37回奈良県立橿原考古学研究所公開講演会(2017/11/3 橿原市)資料集:奈良県立橿原考古学研究所
〔注18〕①市村慎太郎 2024「近畿の様相」『東日本における土器からみた古墳社会の成立』東日本古墳確立期土器検討会
②山本亮 2024「土器編年と前方後円墳集成2~4期」『東日本における土器からみた古墳社会の成立』東日本古墳確立期土器検討会
③山本亮 2024「大和南部」『出土土器からみた古墳の年代(第2分冊)』東日本古墳確立期土器検討会
〔注19〕①今尾文昭 2011「古墳文化の地域的諸相 近畿中・南部」広瀬和雄・和田晴吾(編)『講座 日本の考古学7 古墳時代(上)』青木書店
②東影悠 2012「畿内の展開 大和」一瀬和夫・福永伸哉・北條芳隆(編)『古墳時代の考古学2 古墳出現と展開の地域相』同成社
〔注20〕①岩本崇 2018「研究報告 副葬品と埴輪による前期古墳広域編年」中国四国前方後円墳研究会(編)『前期古墳編年を再考する』六一書房
②岩本崇 2020『三角縁神獣鏡と古墳時代の社会』六一書房
〔注21〕岡林孝作・水野敏典・奥山誠義(編著)・奈良県立橿原考古学研究所(編) 2018『黒塚古墳の研究』八木書店
〔注22〕奈良県立橿原考古学研究所附属博物館(編集・発行) 2025『王陵 桜井茶臼山古墳』奈良県立橿原考古学研究所附属博物館・令和7年度春期特別展図録
〔注23〕奈良県立橿原考古学研究所(編) 1997『大和の前期古墳Ⅱ 下池山古墳 中山大塚古墳 調査概報』学生社
〔注24〕若井正一 2023「大和の狗奴国政権が吉備=邪馬台国を平定した」みんなの邪馬台国編集委員会(編)内野勝弘(編集責任)『全国邪馬台国連絡協議会会員論文集 みんなの邪馬台国』創刊号:全国邪馬台国連絡協議会
2026年2月16日 投稿