2023年の夏に対馬と壱岐に旅行しました。対馬での観光の後、対馬の厳原港から壱岐の芦辺港〔図〕まで船で移動しました。

 壱岐は玄界灘に浮かぶ島です〔図〕。その大きさは、東西14.8km、南北17.2km、面積138.1㎡です〔注1〕
 壱岐島は、玄武岩を主とする火成岩により形成されています。丘陵性の平坦な地形を成し、最も高い場所は岳ノ辻(たけのつじ)という山であり、それは標高212.8㍍に過ぎません。標高648.4㍍の矢立山(やたてやま)を筆頭に500㍍を越える山々が連なる対馬とは対照的です。

〔図〕壱岐島の地図(壱岐市立一支国博物館作成リーフレット「弥生遊歩道」より転載:一部改変)

〔図〕

 壱岐は弥生時代の倭の一国として『三国志』魏志倭人伝に登場します。それが「一支国」(原文では「一大国」)です。一支国の中心集落が、国の特別史跡、原の辻遺跡(はるのつじいせき)〔アイキャッチ画像〕〔写真1〕です。これは島の南東部に所在します〔長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触〕〔図〕

〔写真1〕原の辻遺跡

〔写真1〕

 遺跡の北側には幡鉾川(はたほこがわ)という川が西から東に流れて、内海湾(うちめわん)に注いでいます。この河川の流域には水田が広がります。弥生時代、これを基盤として原の辻遺跡が営まれていたわけです。

 この遺跡にて国内最古の船着き場が発見されました〔写真2〕
 この船着き場は弥生時代中期前葉から弥生時代後期初頭まで機能しました〔注2、頁28〕。「敷粗朶工法」(しきそだこうほう)という、その当時の最先端の土木技術で造られたものです〔注2、頁27〕

〔写真2〕原の辻遺跡の船着き場の想像図

〔写真2〕

 原の辻遺跡は弥生時代を通して変遷します。壱岐の考古学者である松見裕二氏は、それを年代順にⅠ期からⅥ期までの6期に分けます〔注2、頁33~52〕

➀原の辻Ⅰ期:弥生時代の前期末から中期初頭まで
 人々の定住が始まった時期です。

②原の辻Ⅱ期:弥生時代中期前葉から中期中葉まで
 Ⅰ期の居住域を中心に集落域が拡大する時期です。この時期に環濠がつくられます。
 上述の船着き場が造設されたのがこの時期です。

③原の辻Ⅲ期:弥生時代の中期後葉から中期末まで
 環濠内の人口が増大する時期です。祭祀が盛んとなり、対外交流が本格化します。

④原の辻Ⅳ期:弥生時代の後期初頭から後期前葉まで
 船着き場が機能を失い、多重の環濠が埋没します。人々は集落を離れます。その原因は自然災害により農作が不能になったからとみられています。

⑤原の辻Ⅴ期:弥生時代の後期中葉から後期後葉まで
 人々が戻ってきます。集落の規模はⅢ期よりも拡大し、多重の環濠が復活します。交易拠点として繁栄します。集落の最盛期です。

⑥原の辻Ⅵ期:弥生時代後期末から古墳時代初頭まで
 環濠の一部が埋まりはじめ、古墳時代の幕開けとともに人口が減少します。

 この一連の変遷の中で、大きな画期はⅤ期です。なぜこの時期に最盛期を迎えたのでしょうか?私見では、それは邪馬台国を中核とする倭国の時代に当たるからです。

 『後漢書』倭伝に、「安帝の永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」(現代語訳:安帝の永初元年に、倭国王である帥升らが、奴隷百六十人を献上して、皇帝の謁見を願い出た)という有名な一節があります。
 安帝の永初元年とは、西暦107年に当たります。

 私は、2019年の拙著において次のことを説きました〔注3〕
 倭国の建国は西暦100年頃であり、初代の倭国王が「帥升」です。倭国王の居住地すなわち倭国の都が「邪馬台国」であり、それが吉備です。吉備を中心とするこの倭国は、二世紀末の「倭国乱」による一時的な崩壊を経て、二世紀末の卑弥呼共立により復活しました。しかし、260年代末に「狗奴国」により滅ぼされました。狗奴国の中核が大和政権です。

 西暦100年は、考古学の区分では弥生時代後期中頃に該当します。これは上述した原の辻Ⅴ期の始まりに当たります。つまり、私見では、原の辻Ⅴ期にこの遺跡に人々が集まり、最盛期を迎えたのは、産声を上げた倭国の体制に原の辻が組み込まれたことに因ります。

 三世紀の中頃から、原の辻遺跡をはじめとして、カラカミ遺跡、車出遺跡など、壱岐の拠点集落は衰退し始めます。そして四世紀初頭には集落の存在が不明確となります〔注1〕。これが上述の原の辻Ⅵ期です。
 その後、四世紀末に至るまで、壱岐は考古学的な空白期となります〔注1〕。この空白期における壱岐の人口はかなり少なかったと見られています。
 それは何故でしょうか?それは、「造船・操船技術の向上によって長距離航行が可能となった結果、物資集積や補給のための中継地としての壱岐島の役割が相対的に低くなったために、大規模な集落を構えて長期滞在する必要性がなくなったことも衰退の一因として考えられる」〔注1〕と理解されています。
 一方、私は、壱岐衰退の最大のきっかけは、248年頃に卑弥呼が世を去ったことにあると推定します。それを契機に邪馬台国を中心とする倭国が弱体化し、それと連動して、原の辻などの壱岐の集落が廃れていったのです。それに拍車をかけたのが、「造船・操船技術の向上によって」、「中継地としての壱岐島の役割が相対的に低くなった」ことだと考えます。

 原の辻遺跡の近くにあるのが、壱岐市立一支国博物館〔長崎県壱岐市芦辺町深江鶴亀触〕です〔写真3〕

〔写真3〕壱岐市立一支国博物館

〔写真3〕

 この博物館は、弥生時代の一支国についての充実した展示・解説を提供しています〔写真4〕〔写真5〕。そのジオラマは傑作です。その中の一人一人の表情や仕草を具に見れば、彼らの声が聞こえ動きが見えるようです。弥生時代の人々とその生活のイメージが脳裏に膨らみ、時が経つのを忘れて楽しい気分に浸れます。

〔写真4〕壱岐市立一支国博物館展示のジオラマ

〔写真4〕

〔写真5〕壱岐市立一支国博物館展示のジオラマ

〔写真5〕

 上述の船着き場のジオラマもあります〔写真6〕

〔写真6〕壱岐市立一支国博物館展示のジオラマ

〔写真6〕

 この博物館には展望室があります。そこから九州本島を展望することができます〔写真7〕
 向かって左に見えるのが馬渡島(まだらしま)、その遠方にうっすらと見える陸地が九州本島です。

〔写真7〕一支国博物館展望室からの眺望

〔写真7〕

 以下、壱岐の観光を紹介します。

 旅行の大きな楽しみはその土地の食材を使った料理です。壱岐はマグロ、イカ、カキ、ウニ、サザエ、アワビ〔写真8〕など、海の幸に恵まれています。

〔写真8〕海の幸

〔写真8〕

 ビーチの美しさには思わず見とれてしまいます。〔写真9〕は壱岐を代表する浜辺の一つ、清石浜(くよしはま)です。砂浜と海とのコントラストが見事です。

〔写真9〕清石浜

〔写真9〕

 壱岐の名所といえば、海岸に切り立つ奇岩の数々です。これらは海食崖、すなわち、岸壁に打ち寄せる波が作り上げた造形物です。

 その代表が「猿岩」(さるいわ)です〔写真10〕
 これは、黒崎半島の先端に立つ、高さ45㍍の玄武岩です。猿の横顔にそっくりであるためこの名があります。

〔写真10〕猿岩

〔写真10〕

 牧崎公園にあるのが、「鬼の足跡」(おにのあしあと)〔写真11〕と「微笑むゴリラ岩」〔写真12〕です。

〔写真11〕鬼の足跡

〔写真11〕

〔写真12〕微笑むゴリラ岩

〔写真12〕

 八幡半島の先端にあるのが「左京鼻」(さきょうばな)〔写真13〕です。

〔写真13〕左京鼻

〔写真13〕

 「壱岐のモン・サン・ミシェル」と言われるのが、小島神社(こじまじんじゃ)〔長崎県壱岐市芦辺町諸吉ニ亦触〕です。
 モン・サン・ミシェルとは、フランスが誇る世界遺産、海に浮かぶ小島とその修道院であり、観光強国フランスで1、2位を争う人気スポットです。
 壱岐が誇る小島神社は内海湾(うちめわん)に浮かぶ小島に鎮座します。ただし干潮時だけ小島が陸地とつながり、それを参道として参拝することができます〔写真14〕

〔写真14〕小島神社

〔写真14〕

<注>

〔注1〕田中聡一 2020「壱岐島の古墳時代」河合恭典(編)一支国・長崎県埋蔵文化財センター 収蔵品展』図録:壱岐市立一支国博物館

〔注2〕松見裕二 2025『シリーズ「遺跡を学ぶ」171 魏志倭人伝の海上王都 原の辻遺跡』新泉社

〔注3〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房

<参考文献>

・地球の歩き方編集室(編)地球の歩き方 島旅06 壱岐 4訂版』地球の歩き方(初版は2022年)

・宮﨑貴夫 2008『日本の遺跡32 原の辻遺跡 壱岐に甦る弥生の海の王都』同成社

 2026年1月25日 投稿