私は邪馬台国吉備説を唱えています〔注1〕。そこで本ブログでは、吉備について追い追い語っていくつもりです。本稿はその手始めです。
吉備と耳すると普通は岡山県のことと思います。もちろんそれは間違っていません。とはいえ、それだけが吉備であるかというと、決してそうではありません。広島県東部もまた吉備なのです。ともするとそのことを忘れがちになりますが、それでは吉備の全貌を捉えたことになりません。出雲(いずも)、石見(いわみ)、安芸(あき)などの周辺地域との通交の上で、広島県東部は要となります。本稿ではそのことを取り上げます。
令制国(りょうせいこく)に、備前(びぜん)、美作(みまさか)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)という四つの国があります〔写真1〕。元来の吉備はこれらすべてを併せた国です。それが邪馬台国時代の吉備です。それが中国地方随一の大国であったことは地図を見れば明らかです。ところが、後にそれが分割されてしまいました。そうして生まれたのが件の四つの令制国です。岡山県はこのうち備前、美作、備中の三つから成ります。ちなみに、美作国は備前国から分かれ出たものです〔注2〕。そして、広島県東部に当たるのが、本稿で取り上げる備後です。備後国に属する現在の都市を挙げれば、広島県の福山市、尾道市、三次市、府中市、庄原市などです。瀬戸内海沿岸部から中国山地にかけての領域です。
〔写真1〕広島県立歴史民俗資料館展示パネル(2023/5/28)

広島県東部が吉備の一部であったことを端的に示すのが一宮です。備前国の一宮は、岡山県岡山市北区一宮に鎮座する吉備津彦神社です。備中国の一宮は、岡山県岡山市北区吉備津に鎮座する吉備津神社です。そして、備後国の一宮は、広島県福山市新市町宮内に鎮座する吉備津神社です。要するに、広島県東部に所在する備後国の一宮は、吉備に由縁がある社なのです。
三次市(みよしし)は、広島県の北部、中国山地の真ん中に位置し、47286人の人口(令和7年11月30日現在)を擁します。その中心部が市街地であり、三次盆地という名の盆地です。
工芸品として三次人形が有名であり〔写真2〕、文化勲章を受章した奥田小由女やNHKテレビ人形劇『新八犬伝』『真田十勇士』の人形を担当した辻村寿三郎などの人形作家を輩出しています。
〔写真2〕三次人形 広島県立歴史民俗資料館展示物(2023/5/28)

瀬戸内海側から鉄道で三次市街地に行くには、①岡山駅からJR伯備線で備中神代駅(岡山県新見市)、備中神代駅からJR芸備線で三次駅まで〔注3〕、②福山駅からJR福塩線で塩町駅(広島県三次市)、塩町駅からJR芸備線で三次駅まで、③広島駅からJR芸備線で三次駅まで、という三つの交通手段があります。
備後の三次市が弥生時代の備中と深く繋がっていたことには考古学的な証拠があります。それが特殊器台・特殊壺です。
三次市に「みよし風土記の丘」という公共の場所があります〔アイキャッチ画像〕。その中に「みよし風土記の丘ミュージアム(広島県立歴史民俗資料館)」があります。
この資料館に、三次市の矢谷墳丘墓(やだにふんきゅうぼ)〔広島県三次市東酒屋町〕から出土した特殊器台・特殊壺が展示されています〔写真3〕。
〔写真3〕矢谷墳丘墓出土特殊器台・特殊壺 広島県立歴史民俗資料館展示物(2023/5/28)

特殊器台・特殊壺とは、弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての吉備において、有力者の葬送に際してその墓に据えられた大型の祭祀土器です。それが製作された場所は備中南部であると推定されています。
近年、吉備の考古学者である宇垣匡雅氏は吉備の特殊器台・特殊壺を次のように五段階に編年しています〔注4〕。順に、貝ヶ原型、立坂型、中山型、向木見型、宮山型です。本稿はこの編年に従います。
矢谷墳丘墓出土の特殊器台・特殊壺は向木見型です〔注4、①〕〔注5〕〔注6〕。それは備中南部から運び込まれたものです〔注4、②〕。
特殊器台・特殊壺は、数量の上でも分布域の上でも最も充実したのが向木見型の段階です〔注4、②〕〔注5〕〔注6〕。吉備の考古学のレジェンドである近藤義郎氏は、向木見型の段階について、「特殊器台・特殊壺を使う首長埋葬祭祀がいわゆる吉備の全域に広がったことを示している。このことは吉備各地の集団が、それぞれの首長埋葬にあたり共通の道具立てをもって祭祀を行うことによって結ばれていたこと、すなわち諸集団が祭祀的・政治的結合を形成したことを物語るものである。考古資料の示す限りでは、吉備の祭祀的一体性はここに名実ともに成立したと言ってよいであろう」〔注5〕と説きました。
つまり、向木見型の成立は、吉備の政治史上の一大画期であるわけです〔注4〕。
一般に向木見型は、吉備の土器形式の才の町Ⅰ・Ⅱ式、下田所式の時期であり〔注7、頁74~75〕〔注8〕、近畿の土器形式の庄内式併行期です〔注8〕〔注9、頁82〕。西暦で言えば、二世紀末から三世紀前半にかけての時期です〔注10〕。これはまさに卑弥呼の時代です。
すなわち、邪馬台国吉備説の立場からは、向木見型特殊器台・特殊壺を吉備全域に届けたのは卑弥呼です。矢谷墳丘墓での葬送に際してそれを備後の三次まで運ぶことを命じたのは、備中南部にいた卑弥呼なのです。
邪馬台国の話は脇に置くとしましょう。
ともあれ、大型の祭祀土器が岡山平野から中国山地の三次盆地まで運ばれたことは紛れもない事実です。それでは、それはいかなるルートで運搬されたのでしょうか?実は、それがよく分かっていません〔写真4〕。
〔写真4〕広島県立歴史民俗資料館展示パネル(2023/5/28)

先に、瀬戸内海側から三次市街地に行くルートを三つ挙げました。弥生時代、移動の目的や運ぶ物資の内容によって、採るルートは異なったでしょう。特殊器台に関して言えば、おそらく➀または②のルートで運ばれたのでしょう。
➀は、岡山中心部からJR伯備線で新見市(にいみし)に行き、そこでJR芸備線に乗り換えて三次市街地に至るというルートです。
古代にあって、これは岡山平野を発って、高梁川(たかはしがわ)に沿って北西に進んで新見盆地に入り、そこから西方に中国山地の山間を歩き、庄原(しょうばら)を経て、三次盆地に辿り着くという道程です。ここでは、これを高梁川ルートと呼びます。
新見市哲西町矢田に西江遺跡(にしえいせき)という遺跡があります。これは、新見市街地と庄原市街地との間の地点であり、ちょうどJR芸備線で廃止の是非が議論されている区間にあります。ここから向木見型の特殊器台・特殊壺が出土しました〔注4〕。おそらくこれは高梁川ルートで運ばれたものでしょう。
②は、福山市街地からJR福塩線で三次市街地に至るというルートです。
古代にあって、これは岡山平野を発って、小田川(おだがわ)沿いに陸路を西に、または瀬戸内海の海路を西に進み、福山に入ります。そこから、芦田川水系の芦田川(あしだがわ)、矢多田川(やただがわ)、次に江の川水系の上下川(じょうげがわ)を辿って北西に歩き、三次盆地に辿り着くという道程です。ここでは、これを芦田川・江の川ルートと呼びます。
果たしてこのルートは弥生時代にあり得たのでしょうか?実を言うと、古代における備後国の南北の交通について確かなことが分かっていません。古代史学者の遠藤慶太氏による最近の論文によれば、古代の備後において人々は南北に往来していました〔注11〕。これを参考にすれば、三次の矢谷墳丘墓の特殊器台が芦田川・江の川ルートで運ばれた可能性は十分にあると言えます。
注:
〔注1〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房
〔注2〕『続日本紀』和銅六年四月三日条による。和銅六年は西暦713年。
〔注3〕JR芸備線は赤字に苦しんでおり、苦肉の策として、備中神代駅(岡山県新見市)~備後庄原駅(広島県庄原市)の区間の運行を存続させるか廃止するかが現在(2025/12/28)議論されています。もし廃止されれば、①のルートは消えることになります。
〔注4〕①宇垣匡雅 2023「特殊器台の変化と画期」島根県古代文化センター(編)『島根県古代文化センター研究論集 第30集 古代出雲と吉備の交流』島根県教育委員会、②宇垣匡雅 2024「特殊器台の展開」広瀬和雄・草原孝典(編)『季刊考古学・別冊45 吉備の巨大古墳と巨石墳』雄山閣
〔注5〕近藤義郎 1992「弥生墳丘墓」近藤義郎(編)『吉備の考古学的研究(上)』山陽新聞社
〔注6〕宇垣匡雅 1992「特殊器台・特殊壺」近藤義郎(編)『吉備の考古学的研究(上)』山陽新聞社
〔注7〕古屋紀之 2007『古墳の成立と葬送祭祀』雄山閣
〔注8〕河合忍 2017「集落・墳墓からみた古墳出現期前後の吉備社会」大阪府立近つ飛鳥博物館平成二九年度秋期特別展『古墳出現期の筑紫・吉備・畿内 2・3世紀の社会と経済』ミニシンポジウム「古墳出現に至る吉備と畿内の交流」(平成29年10月15日 大阪府立近つ飛鳥博物館 開催)配付資料
〔注9〕岡山県立博物館(編集・発行) 2012『岡山県立博物館 平成24年度特別展 邪馬台国の時代 吉野ヶ里から唐古・鍵、纒向まで』図録
〔注10〕河合忍 2025「吉備南部における弥生時代後期から古墳時代前期の集落構造 備前・旭川下流域東岸の分析を中心として」古代学研究会(編)『弥生後期社会の実像 集落構造と地域社会』六一書房
〔注11〕遠藤慶太 2024「備後国の領域編成 瀬戸内海と陰陽連絡」小倉慈司(編)『国立歴史民俗博物館』第244集:国立歴史民俗博物館
2025月12月30日 投稿