最近、古代史家の水谷千秋氏が著した『なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか』という新書〔注1〕〔アイキャッチ画像〕が発刊されました。これは古代における我が国と朝鮮半島との関係史を概説するものです。そのメインテーマは朝鮮半島における前方後円墳です。水谷氏によれば、これは「今や日本の考古学者、文献史学者のみならず、韓国の考古学者たちにとっても喫緊のテーマになっている」〔注1、頁101〕とのことです。
水谷氏の本に触発されて、本稿ではこの大いなる謎を取り上げます。
朝鮮半島に前方後円墳が存在すると最初に主張したのは姜仁求氏であるとされます〔注2、頁236〕〔注3〕。1990年代になり前方後円形の古墳が次々と発見されたことにより、姜氏の主張は日韓の学会で受け入れられるに至りました。今では14基を数えるまでになっています。それらはすべて半島の西南部に当たる全羅道(全羅北道と全羅南道)、すなわち栄山江(ヨンサンガン)の流域にあります〔図1〕。
〔図1〕出典:『倭国の激動と任那の興亡』巻頭図

当初は、これを以て前方後円墳の起源は朝鮮半島にありと唱えられました。その後、朝鮮半島の前方後円墳の年代は、すべて、五世紀末から六世紀前半までの間に納まることが判明しました〔注4、頁235〕。日本列島におけるその登場は三世紀です。三世紀前半の纏向型前方後円墳であり、三世紀中頃の箸墓古墳です。このことから、前方後円墳朝鮮半島起源説は今では聞かれなくなっています。前方後円墳の起源が日本列島にあることは揺るがなかったのです。
そこで浮上したのが、全羅道の前方後円墳の被葬者はどういう人物だったのかという問題です。これには、百済が全羅道を領有したのはいつ頃なのかという問題が絡みます。百済とは、朝鮮半島の西側にあって、北の高句麗、東の新羅と激しい領土争いを繰り広げた国のことです。
ちなみに、下の写真〔写真1〕は、国立歴史民俗博物館が「5世紀の東アジア地図」と題して展示するパネルです(2025/6/15時点)。
〔写真1〕

この地図によれば、五世紀の段階で百済の勢力が全羅道に及んでいたことになります。しかし、これは誤りです。拙著〔注5〕で述べたように、全羅道が百済領となったのは六世紀前半のことです。
話を全羅道の前方後円墳に戻しましょう。
様々な説があるものの、概ね次の三つに分類されます〔注4、頁237~240〕。
第一に、「在地首長説」です。
これは、前方後円墳の被葬者を栄山江流域の在地豪族であるとする説です。田中俊明氏〔注6〕、高田貫太氏〔注4、頁252〕等がこの立場です。
田中氏は、百済による全羅道領有の時期が五世紀末から六世紀半ばにかけてであったと見ます〔注6〕。その上で曰く、「造墓を推進したのは、倭と頻繁に往来し、在倭の勢力とも交流・政治的な関係をもった、この地域の特定の首長層と考えられる。その場合に、倭に固有な墳形を選んだのは、単なる影響というよりは、対外的な政治的アピールを込めたものとして、理解すべきであろう。百済の領有化がすすむ中で、それを全面的に受け入れることに抵抗のある勢力が、倭の勢力とも通じていることを可視的に表現することができるのが、墳形であった」〔注6〕と。
つまり、百済が栄山江流域の併合を目論む中、在地豪族たちは、前方後円墳を築くことで、自らの背後に倭がいることを百済に見せつけ、その南下政策を牽制したというのです。
第二に、「倭系百済官僚説」です。
この説の代表が朴天秀氏です〔注7〕。曰く、「この地域(引用者注:栄山江流域)での前方後円墳の造営時期が熊津期であることから、その被葬者は四七〇年代前後に百済に渡った九州の首長であり、その人物が帰国せず、新徳古墳の被葬者のように百済王権に仕えて全南地域の一帯に配置され、栄山江流域に埋葬されたものと推定される」〔注7、頁151(電子書籍)〕と。
「その被葬者は独立的に割拠した勢力ではなく、土着勢力の牽制と対倭、対大伽耶攻略のために、王侯制のような支配方式の一環として百済王権によって一時的に各地に派遣された倭系百済官人である」〔注7、頁172(電子書籍)〕というのです。
上の引用文における「熊津期」とは、百済の首都が「熊津」、現在の忠清南道公州市に在った時期のことを指します。475年から538年までに当たります。朴氏によれば、この時期の百済王室は全羅道を統治するために、その地に倭人の官僚を赴任させた。彼らはそこで最期を迎えた。その墓が栄山江流域の前方後円墳であるというのです。
仁藤敦史氏は、「この前方後円墳の埋葬者たちは筑紫出身の倭系であり、その一部がその後、倭系百済官僚になったと考えられる」〔注8、頁148〕と述べて、朴氏の説を概ね支持します。
第三に、「倭人説」です。
この立場をとる一人が東潮氏です〔注9〕。その説は次のようにまとめられます。「五世紀後半から六世紀にかけて、加耶をめぐる国際情勢のなかで、倭系集団は洛東江・南江流域や栄山江流域、さらに錦江流域に住み着いた倭人がいた」。当時の栄山江流域は「国家への帰属意識をもたない倭・韓人の世界」であった。そうした倭人が栄山江流域の前方後円墳の被葬者である。ただし五世紀末には、日本列島においても朝鮮半島においても、「政治的諸権力の象徴としての前方後円墳の意味が失われ」ていた。したがって、前方後円墳に葬られたからといって、彼らが大和政権の支配体制に組み込まれていたわけではない。以上が東氏の主張です。
栄山江流域の前方後円墳の被葬者を倭人とする点で、東氏の説は朴氏の説と同じです。朴説との大きな違いは、東説が想定するその被葬者は百済の官人ではないことです。
以上、三つの説を見てきました。
「在地首長説」は被葬者を馬韓在住の韓人とするものです。「倭系百済官僚説」と「倭人説」とは被葬者を九州から渡った倭人とするものです。日韓の考古学者や古代史学者が長年にわたって熱い論争を繰り広げてきたにもかかわらず、百家争鳴のまま、未だに見解が全く集約していないのは、どの説にも問題があるからです。
「在地首長説」は、百済に対する抑止効果を狙って、馬韓の韓人有力者が倭の前方後円墳を導入したというものです。百済に対抗するという目的のために韓人が倭人の墓制を採用したという説明は机上の空論という印象を否めません。
「倭系百済官僚説」にしろ「倭人説」にしろ、リアリティーに乏しいことにおいて、「在地首長説」と五十歩百歩です。前方後円墳を築く程の実力者が九州から全羅道に移住し、そこに骨を埋めた理由、ましてや百済の官僚になった理由が見えないからです。
「在地首長説」から離れて朴天秀氏の説に近づいたと表明する柳沢一男氏は、「このような状況下に倭系古墳が築造された背景には、漢城陥落と遷都にともなって動揺する百済中央と栄山江流域情勢の安定化、その後の百済への編成(領有化)の支援、さらに大加耶西部への進出をめざす百済からの要請のもとに、倭王権から派遣された九州中北部勢力を中心とする倭人勢力の存在が想定される。九州勢力の派遣には、継体大王との信頼関係を結んだ筑紫君磐井が大きな役割を果たしたに違いない」〔注10、頁83〕と説きます〔引用者注:「漢城陥落と遷都」とは、475年に百済が漢城を高句麗により攻め落とされ、やむなく熊津に遷都したことを指す〕。
しかし、柳沢氏のこの説明には合点がいきません。何故に大和政権は、人員を派遣するまでして、百済による栄山江流域の領有化を支援したのでしょうか?そのために派遣された九州の有力者は、何故に帰国しなかったのでしょうか?筑紫国造・磐井が継体天皇と信頼関係を結んだというのは、如何なる根拠に基づくのでしょうか?磐井が結託した相手は百済ではなくて新羅であるはずなのに、その磐井が百済支援のための人員派遣に大きな役割を果たしたとは、如何なる根拠に基づくのでしょうか?
以上見てきたように、全羅道の前方後円墳の謎に取り組む学者たちの答えは十人十色です。ところが彼らは、意識することなく、当然の如く、同じ土俵の上に立っています。それは馬韓の領域のことです。
『後漢書』東夷列伝・韓の条の冒頭に、「韓には三種類ある。第一が馬韓といい、第二が辰韓といい、第三が弁辰という。馬韓は西にあり、五十四ヶ国からなる。その北は楽浪郡と、南は倭と接する。辰韓は東にあり、十二ヶ国からなる。その北は濊貊と接する。弁辰は辰韓の南にあり、十二ヶ国からなる。その南は倭と接する。(以下省略)」とあります。
『三国志』魏志東夷伝・韓の条の冒頭に、「韓は帯方郡の南にあり、東西は海で限られており、南は倭と接している。その四方は四千里ほどである。三つの種族がある。一つ目は馬韓といい、二つ目は辰韓といい、三つ目は弁韓という。辰韓とは古の辰国のことである。馬韓は西にある。(以下省略)」とあります。
これら中国の正史によれば、後漢および三国時代、韓は三つに分かれていました。その一つが馬韓であり、それは朝鮮半島の内の西側に位置していました。ところで、全羅道は半島の西南部です。そこで問うべきは、全羅道が馬韓の一角であったか否かです。
朝鮮古代史家の井上秀雄氏は曰く、「まず馬韓の居住地は現在の全羅南北道・忠清南北道および京畿道の漢江以西の地域とみられる」〔注11、頁65〕と。
全羅道は馬韓の一部であったというのです。
朝鮮古代史家の武田幸男氏は曰く、「臣雲新国は光州(全羅南道)付近と推定される。それならば、そこは栄山江流域であり、後ほど、前方後円古墳が分布する特殊地域として登場する」〔注12、頁299~300〕と。
引用文中の「臣雲新国」とは、『三国志』魏志東夷伝・韓の条が挙げる、馬韓の五十余国のうちの一国です。全羅南道の光州市が「臣雲新国」に当たるならば、全羅道は馬韓の一部であったことになります。
朝鮮古代史家の田中俊明氏は曰く、「臣雲新国は現在の全羅道方面」〔注13、頁46〕と。
武田氏と同じく田中氏も、馬韓諸国の内の一つである「臣雲新国」は全羅道にあると言います。
これらを総括するように、日本古代史家の水谷千秋氏は曰く、「まず重要なのは、この時期の栄山江流域がどういう状況にあったかだ。これについてはおおむね多くの研究者の意見は一致している。この地域は、もとは馬韓(慕韓)と呼ばれた地域で『日本書紀』が記す『任那四県割譲』の対象となった地域と重なる」〔注1、頁105〕と。
以上見てきたように、栄山江流域すなわち全羅道は元は馬韓であったというのは専門家のコンセンサスです。
だからこそ、全羅道の前方後円墳について、「在地首長説」に立つ学者は、その在地首長とは馬韓の韓人社会の首長であることを所与のこととしています。同様に、「倭系百済官僚説」・「倭人説」に立つ学者は、北部九州出身の倭人が移住した先である全羅道とは馬韓の韓人社会であることを当然視しています。
しかし、本当に全羅道は馬韓の一部だったのでしょうか?
先述した『後漢書』東夷列伝・韓の条および『三国志』魏志東夷伝・韓の条をもう一度見て下さい。そこに、馬韓の南は倭と接する、とあります。馬韓の南に倭があるというのです。これは一体どういうことでしょうか?
これについて田中俊明氏は、「その場合まず『南は倭と接す』について考える必要がある。(中略)。これらによれば、倭が朝鮮半島にあったかのようにみえる。しかし、『接す』とは、必ずしも陸続きで接している場合に限らず、海をはさんでも『接す』ということがあり、これのみでは決めがたい」〔注14〕と言います。そして、「倭と呼ぶ地域が朝鮮半島南部にもあったという考えがあるが、史料解釈の誤りであり、倭は日本列島に限定して考えてよい」〔注15〕と決めつけます。
田中氏によれば、『後漢書』や『三国志』の韓の条がいう「南は倭と接する」とは、陸続きの意味ではなくて、海をはさんで接するという謂いであり、よって、この倭とは日本列島の倭のことを指すのだそうです。
ここでは結論だけを言えば、この田中氏の説明は誤りです。従って、全羅道の前方後円墳についての既存の学説はすべて的外れです。詳しくは近著〔注5〕で論じました。
注:
〔注1〕水谷千秋 2025『なぜ朝鮮半島に前方後円墳があるのか 古代日本と韓国の謎をさぐる』(宝島社新書)宝島社
〔注2〕高田貫太 2017『海の向こうから見た倭国』(講談社現代新書)講談社
〔注3〕権五栄 2019「栄山江流域の古代政治体を見とおす多様な視角」『国立歴史民俗博物館研究報告』第217集:国立歴史民俗博物館
〔注4〕高田貫太 2019『「異形」の古墳 朝鮮半島の前方後円墳』(角川選書)KADOKAWA
〔注5〕若井正一 2025『倭国の激動と任那の興亡 列島国家への軌跡』一粒書房
〔注6〕田中俊明 2002「韓国の前方後円形古墳の被葬者・造墓集団に対する私見」朝鮮学会(編)『前方後円墳と古代日朝関係』同成社
〔注7〕朴天秀 2007『加耶と倭 韓半島と日本列島の考古学』(講談社選書メチエ)講談社〔本稿は2015年発行の電子書籍に拠る〕
〔注8〕仁藤敦史 2024『加耶/任那 古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書)中央公論新社
〔注9〕東潮 2002「倭と栄山江流域 倭韓の前方後円墳をめぐって」朝鮮学会(編)『前方後円墳と古代日朝関係』同成社
〔注10〕柳沢一男 2014『シリーズ「遺跡を学ぶ」094 筑紫君磐井と「磐井の乱」 岩戸山古墳』新泉社
〔注11〕井上秀雄 2004『古代朝鮮』(講談社学術文庫)講談社(原本は1972年に日本放送出版協会より刊行)
〔注12〕武田幸男 1997「朝鮮の古代から新羅・渤海へ」礪波護・武田幸男(著)『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社
〔注13〕田中俊明 2000「古朝鮮から三韓へ」武田幸男(編)『新版世界各国史2 朝鮮史』山川出版社
〔注14〕田中俊明 2005「『魏志』東夷伝の韓人と倭人」武田幸男(編)『古代を考える 日本と朝鮮』吉川弘文館
〔注15〕田中俊明 2013「朝鮮三国の国家形成と倭」大津透ら五名(編)『岩波講座 日本歴史 第1巻 原始・古代1』岩波書店
2025年12月7日 投稿