以下は、2020年3月28日に投稿した記事です。
考古学者が邪馬台国畿内説から離れ始めた!?
 最近、坂靖氏(以下、敬称を略す)による『ヤマト王権の古代学』が上梓された〔注1〕。奥付の「著者紹介」によると、著者は同志社大学大学院文学研究科を修了し、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の学芸課長を経て、出版時は奈良県地域振興部文化財保存課の主幹を務める考古学者である。
 この著者経歴を見れば誰でも、邪馬台国畿内説に立つ、よくある著書の一つという予断を抱くはずだ。
 ところが、豈図らんや、坂は次のように宣言する。
 「私は、後者の邪馬台国北部九州説にたつ」〔注1、頁96〕と。
 畿内説のメッカにいるにもかかわらず、何と坂は九州説に立つというのだ。
 今時の考古学者としては余りに大胆なこの発言を、坂は文献の考証に基づき行っているのではなく、況んや単なる思いつきで行っているのではない。あくまでも考古学上の発掘成果に基づき表明しているのである。
 邪馬台国畿内説を採らない理由を坂は次のように説明する。
 「これまで述べてきたとおり、弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料はほとんど知られていない。楽浪系土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。ただし、纏向型前方後円墳が一定の影響力をおよぼしたことは考えられる。庄内式期に築造されたものは、『オウ』のレベルにとどまり、また布留式期に築造されたものが多くあって、倭国の王墓とみなすことはできない。(中略)。そののちの布留式以降に、新しく中国交渉の最前線にたったのがヤマト王権である。墳丘長200㍍を超える大型前方後円墳がつぎつぎと造営され、纏向遺跡の規模も拡大する。大型前方後円墳の嚆矢が箸墓古墳である。銅鏡をはじめとした中国との交渉を示す資料が顕在的になるのも布留式期以降である。」〔注1、頁96~97〕
 纏向遺跡(まきむくいせき)(奈良県桜井市)が倭国の中枢に相応しくなるのは布留式期以降のこと、すなわち箸墓古墳の登場以降のことであるというのだ。それ以前、すなわち庄内式期では、「遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない」というのだ。
 最新の年代観では、庄内式期は180年~250年頃に当たり、卑弥呼の時代と殆ど一致する。庄内式期の纏向遺跡は考古学的に倭国の都らしくなく、従ってそれは卑弥呼の居場所ではない。邪馬台国畿内説は、庄内式期の纏向遺跡が倭国の中枢であることを前提とする学説である。となると、邪馬台国畿内説は成り立たない。こう坂は主張するのだ。
 ここに坂の新著の真骨頂がある。
 弥生時代後期の奈良盆地が倭国(男王時代の二世紀の倭国)の王都に当たらないことは考古学者の共通認識である。ところが坂は、弥生時代後期はおろか弥生時代終末期(庄内式期)においても未だ纏向遺跡は日本列島の中心地の段階に達していないと言う。ここに坂の主張の新しさがある。
2009年に纏向遺跡で三世紀前半の大型建物跡が発見され、すわ「卑弥呼の宮殿か」、「卑弥呼の祭祀空間か」と大きく報道された〔アイキャッチ画像〕。
 実際に、優れた考古学者の一人、寺沢薫は卑弥呼の館という見立てに首肯する。曰く、「これらの建物群の性格が、すでに1978年段階で構想した『宮殿や神殿のように政治的かつ祭祀的色彩の強い建物のうちでもきわめて高次元の<場>の一部』であることにもはや躊躇はしない。それは本書の各所で検討、主張を重ねてきた、纏向遺跡のヤマト王権の大王都としての性格を示す直接的な資料ということもできよう。そして、この一群の施設を庄内式段階(三世紀前半代)に限定できるということであれば、それはまた卑弥呼の新生倭国大王都の中枢的な施設、あえていえば卑弥呼政権段階の宮殿域と考えることは論理上は当然の帰結であろうと思うのである」〔注2、頁186〕と。
 これに対して坂の主張に依るならば、件の建物群は卑弥呼とは無関係となる。なぜなら、それは庄内式期(三世紀前半)の建物群であるからだ。坂は、「大型建物の主人は、纏向遺跡の集落範囲を統治した『オウ』であって、その『オウ』が執行した祭祀であろう」〔注1、頁112〕とは述べるものの、その「オウ」を倭国王とは決して同一視しない。
 纏向遺跡は庄内式期の始まりとともに突如として現れた集落である。庄内式期(180年~250年)のそれを「前期纏向遺跡」と呼ぶ。集落規模は約1平方kmである。次の布留式期になると集落規模は一気に拡大する。布留式期(250年以降)のそれを「後期纏向遺跡」と呼ぶ。集落規模は約3平方kmである。
 後期纏向遺跡が倭国の中心であることに誰も異論はない。問題は前期纏向遺跡である。それをどう評価するかにおいて、寺沢薫と坂靖とは大きく異なるのである。「纏向遺跡の出現はまさにこうした中心に位置したわが古代史上のエポックメイキングなのであった」〔注2、頁159〕とする寺沢に対して、「この辻地区を含めた庄内式期の纏向遺跡の範囲は、約1平方キロほどである。西日本の集落遺跡のなかでは比較的大型といえるだろうが、大和川が河内湖に流入するあたりの河内平野には、これにまさる庄内式期の大規模集落遺跡がある。(中略)。同時期の北部九州の福岡県三雲・井原遺跡群や比恵・那珂遺跡群の規模や地形環境も、もちろん纏向遺跡にまさっている」〔注1、頁113〕とするのが坂である。
 日本列島全体という視点からの纏向遺跡の一大画期は、庄内式期にあるのか、はたまた布留式期にあるのか?それによって、邪馬台国の所在地を奈良盆地と見るのか、そう見ないのかの違いが生じるのである。
 この問題は、「古墳時代」の定義にも関わる。元々は、古墳時代は定型化前方後円墳の出現、具体的には箸墓古墳の登場を以て始まりとしていた。土器年代でいえば、布留式期が古墳時代の始まりを意味した。これに異を唱えたのが寺沢薫である。寺沢は、箸墓古墳の登場以前すなわち庄内式期の纏向遺跡で、墳丘長100㍍級の大型前方後円墳が造営されていたことに注目し、それらを古墳と見なすとともに、纏向型前方後円墳と命名した。その上で、庄内式期を古墳時代の始まりとすることを提唱した〔注3、頁289〕。その後、この考えに賛同する考古学者は増えている。そのため今では、考古学者によって「古墳時代」の意味することが異なるという事態に陥っている。
 庄内式期を古墳時代の幕開けとする寺沢らの考えは、純粋に考古学的な見解とは必ずしも言えない。その背後には邪馬台国の問題が隠れている。先に、卑弥呼の時代と庄内式期とは重なると述べた。魏志倭人伝によれば、卑弥呼の登場は倭国の歴史における大きな分岐点である。従って、纏向遺跡を卑弥呼の居場所とする説に立てば、庄内式期こそが一大画期であることになる。庄内式期を旧時代の終わりではなくて新時代の始まり、すなわち弥生時代の終わりではなくて古墳時代の始まりとする寺沢の提唱の陰には、邪馬台国畿内説を前提とした卑弥呼の姿が見え隠れするのである。
寺沢の考えは、考古学の枠組みを超えて、他の人文科学分野に影響を及ぼしている。例えば、法制史の研究で名高い水林彪は、「公孫氏が指名し、これを受けて列島諸国が『共立』した王は、卑弥呼であった。首都の地としては、列島の地理的中心に位置する邪馬台国(括弧内略)が選ばれ、その中でも、邪馬台国の中心地であった唐古・鍵遺跡からほど近い纏向が宮都建設の地とされた(第一次纏向)。」〔注4〕と説く。
 水林彪が三世紀の大和政権を描くに当たって依拠したのは、寺沢薫による纏向遺跡観である。それを強く批判するのが、考古学者の大久保徹也である。
 大久保、曰く、「以上、水林氏が報告で重視した纏向型『前方後円墳』と纏向遺跡の評価について私見を述べた。現状では纏向石塚墓など纏向墳墓群の成立に、前方後円墳の成立と同等の画期をみることに評者は同調できないし、纏向遺跡の特殊性を過度に強調することも難しい。早くに着手された纏向遺跡の調査とそれに基づく意欲的な研究は、学史的にみて前方後円墳成立前後の社会像を見直す上で多大な寄与をなしてきたことは間違いない。これに示唆を受けて各地で展開した研究は、初期に抱かれたいわば“唯一の文明の地”的な纏向のイメージに逆に修正を求める方向に進んだ。むしろ纏向遺跡の調査から提起された諸点は、この遺跡固有の特殊な現象ではなく、前方後円墳成立前後の一般的動向を示しているのだ。結論をいえば、水林氏が想定したような、前方後円墳成立におよそ半世紀遡る、三世紀初頭ないし二世紀末の時点における倭人社会の政治変革の可能性を考古資料(纏向遺跡)の側から立証することは難しい。」〔注5〕(太字は引用者による)(引用者注:大久保徹也にとっての前方後円墳とは定型化前方後円墳のことであり、それは寺沢が提唱する纏向型前方後円墳を含まない。)と。
これに対して寺沢薫は黙っていない。寺沢は、大久保による考古学上の批判に反論した上で、「大久保のコメントを読んで、最初に感じたのは纏向遺跡に対する予想以上の慎重かつ禁欲的な立ち位置である。斯界にあって、纏向遺跡=ヤマト王権大王都論が漸う定着しつつあり、邪馬台国首都論までが喧伝されつつある現状を見れば、時流に流されることなく、考古学者としての慎重さを固持し異論を挟む責任すら感じたことには満腔の敬意を払いたい。(中略)。大久保コメントは紙幅の制約もあって個別資料解釈への疑義に費やされたのであろうが、私の纏向型前方後円墳論も纏向都営論も、考古学的な個別案件の総合的理解と相互連関の上に立っての歴史的解釈であることは承知してほしい。この点で、大久保の視点からはどのような纏向遺跡像が見えるのか、対論を待ちたい。」〔注6〕と逆に挑発する。
以上、寺沢薫の説と、それに批判的な大久保徹也や坂靖の説とを見てきた。庄内式期に造営された纏向型前方後円墳がその当時の日本列島で圧倒的な規模を有していたことは明らかである。そのことは、大久保徹也も認めるところである〔注7〕。

だからといって、それらが築かれた纏向遺跡が、その当時の集落として絶対的な優位性や卓越性を誇っていたとは限らない。近年の考古学の深化により、寺沢による纏向遺跡観が揺らいでいるのが看取される。このことは、考古学者にあって、邪馬台国畿内説が盤石ではなくなりつつあることを示している。邪馬台国吉備説をとる私としては、考古学会の今後の動向を注視したい。
 寺沢薫による「どのような纏向遺跡像が見えるのか、対論を待ちたい」という挑発は、徳島文理大学教授(当時)の大久保徹也に対して向けられたものである。大久保がこれにどう応じるのかは知らないが、不肖私は次のように答える。
 庄内式期の纏向遺跡は、寺沢が説くような「邪馬台国首都」でもなければ「ヤマト王権大王都」でもない。それは物部氏が開発した集落である。先述した庄内式期建物群は物部氏の施設であり、纏向型前方後円墳は物部氏の墳墓である。纏向遺跡が皇都となったのは布留0式期以降であり、それに先鞭を付けたのが第十代・崇神天皇である。庄内式期建物群があったのは、JR桜井線の線路西側である。それに対して、第十代・崇神天皇の磯城の「水垣宮」、第十一代・垂仁天皇の磯城の「玉垣宮」、第十代・景行天皇の纏向の「日代宮」があった場所は線路東側である。

詳細については、拙著〔注8〕をご覧頂きたい。
注:
〔注1〕坂靖 2020『ヤマト王権の古代学 「おおやまと」の王から倭国の王へ』新泉社
〔注2〕寺沢薫 2011『弥生時代政治史研究 王権と都市の形成史論』吉川弘文館
〔注3〕寺沢薫 2000『日本の歴史02 王権誕生』講談社
〔注4〕水林彪 2017「広瀬・清家両報告に学ぶ―ヤマト政権=前方後円墳時代の国制像の革新」『法制史研究』67:法制史學會
〔注5〕大久保徹也 2017「『水林氏報告 ヤマト政権=前方後円墳時代の国制像の革新』によせて」『法制史研究』67:法制史學會
〔注6〕寺沢薫 2019「纏向遺跡そして纏向型前方後円墳への眼差し―大久保徹也の批判に寄せて―」白石太一郎先生傘寿記念論文集編集委員会(編)『古墳と国家形成期の諸問題』山川出版社
〔注7〕大久保徹也 2017「墳丘墓の成立と展開 そして前方後円墳」島根県古代文化センター(編)『山陰文化ライブラリー13 古代出雲ゼミナールⅣ―古代文化連続講義記録集―』ハーベスト出版
〔注8〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』一粒書房
2020年3月28日投稿
以上、2020年3月28日投稿記事
2025年9月20日 投稿