以下は、2020年4月12日に投稿した記事です。

 『日本書紀』と邪馬台国

 以下の文章は、歴史研究会の機関誌の特集「日本書紀編纂千三百年」に寄稿した拙文である。
〔若井正一 2020「『日本書紀』と邪馬台国」吉成勇(編)『歴史研究』第680号(2020年4月号):歴研〕

 我が国でも人口に膾炙する『三国志』は、三世紀後半に晋の史官である陳寿が撰んだ三国(魏・呉・蜀)時代の正史である。その一部が所謂、魏志倭人伝である。つまりそれは、三世紀の我が国での出来事についての概ね同時代の史料である。
 それに対して、『古事記』(以下、『記』と略す)は七一二年、『日本書紀』(以下、『紀』と略す)は七二〇年の成立である。そのため現代の歴史学者や考古学者は、『記』『紀』が三世紀の我が国に関して真実を伝えているはずはないと頭から決めてかかる。実際に日本史の教科書では魏志倭人伝は大きく取り上げられるが、『記』『紀』は無視されている。卑弥呼の時代より約五〇〇年後に編まれた史書の価値は、それより約五〇年後に完成した史書の価値には遠く及ばないというのだ。
 しかし、本当にそれは正しい判断なのだろうか?不思議にも学者は殆ど言及しないが、実を言うと、『紀』と最新の考古学とが見事に合致している重大事がある。それは、大和政権の勢威が全国に及ぶ時代の始まりと古墳時代の始まりとが一致することだ。
 『紀』によれば、箸墓古墳(奈良県桜井市)は第十代・崇神天皇の御代に造営された。それに続いて、全国各地が四道将軍により平定された。そのため崇神天皇は「御肇国天皇」すなわち「初めて国を統一した天皇」と称えられた。
 ところで考古学によれば、三世紀半ばに箸墓古墳を嚆矢として古墳時代が始まる。具体的には、布留式土器が全国に拡散し、それと共に、大型の定型化前方後円墳、長い木棺を納める竪穴式石室、三角縁神獣鏡の副葬という大和の葬送文化が全国に波及した。皇室を中核とする統一国家の形成は、我が国の歴史上最も重大かつ根本的な出来事である。これについての『紀』の記述が考古学により裏付けられるわけだ。
 それだけではない。『紀』によれば、大和政権が北部九州の豪族を従わせ、朝鮮半島に介入し始めたのは第十四代・仲哀天皇および神功皇后の時代である。それは四世紀のことである。三世紀の段階で大和政権の覇権が北部九州に及んでいた徴候は『紀』に見られない。
 考古学によれば、北部九州の首長墓に副葬される大型・中型の倭製鏡は古墳時代前期後葉以降、すなわち四世紀半ば以降のものである〔注一〕。朝鮮半島南部の首長墓に倭系威信材が登場し、畿内各地への半島系土器の搬入が目立ち始め、沖ノ島祭祀の開始とそれに伴う新交易ルートが開拓されたのは四世紀半ば以降である。
 要するに、『紀』の記述は最新の考古学と合致している。だから、『紀』が語るのは決して絵空事ではない。それは間違いなく、我が国の黎明期に関して、その全貌ではないものの、その肝要部分を記している。従って、中国の史書にある倭に関する断片的な記事と考古学的な知見とを脈絡なく併記するだけで良しとする、今日の日本古代史の有り様は、抜本的に見直されなければならない。『記』『紀』を始めとする我が国の史書こそ、その骨格となるべきである。
 翻ってこのことは、邪馬台国の問題に光を当てる。
 第一に、『紀』によれば、最初の女帝は推古天皇であり、その御代は六世紀末~七世紀前半である。崇神天皇ならびにその前後の天皇は悉く男性である。つまり、皇統譜に女王・卑弥呼に該当する天皇は存在しない。
 第二に、『紀』によれば、三世紀には未だ北部九州は大和政権の勢力圏に入っていなかった。三世紀前半に北部九州の諸国を統治していたのは卑弥呼政権である。
 以上より、卑弥呼の政権は大和政権とは異なる。換言すれば、邪馬台国の所在地は畿内ではない。私説では邪馬台国は吉備である。その集大成を書籍〔注二〕にして、アマゾン等でネット販売を始めた。また、ブログ「ヤマトの国を旅する」(yamatonokuni.click)に関連記事を載せている。

〔注一〕下垣仁志『古墳時代の王権構造』(吉川弘文館 二〇一一年、頁一三二)
〔注二〕若井正一『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権
 物部氏と卑弥呼と皇室の鏡を巡る物語』(一粒書房 二〇一九年)

2020年4月12日投稿

以上、2020年4月12日投稿記事

 ※本記事のアイキャッチ画像は、大阪府立弥生文化博物館展示「卑弥呼の館」である。

 2025年9月18日 投稿