以下は、2020年2月18日に投稿した記事です。
箸墓古墳に眠るのは卑弥呼ではない(1)
縄文時代、弥生時代と来て、次に来るのが古墳時代であることは、原始・古代史の基礎中の基礎である。それでは、何を以て古墳時代と言うのか?今日、この肝心な点において大いに混乱している。或る事典の解説を見てみよう。
「古墳時代の開始時期や終了時期については、古墳の概念規定の違いによって差異が生じている。とくに弥生時代の墳丘墓から定型化した古墳が成立する過程が明らかになるにしたがって、奈良箸墓古墳が代表するような定型化した大型前方後円墳の出現に画期を求めてこの段階を古墳の成立と認識し、この段階からを古墳時代とする立場に対して、こうした大型前方後円墳に先立つ段階に認められる比較的大型の円丘の一方に突出部をもつ前方後円形の墳丘墓の成立の時点を古墳時代のはじまりとし、古墳時代のはじまりを古くへさかのぼらせようとする立場があり、両説が対峙している」〔注1〕。
要するに、時代の大きな画期を、「奈良箸墓古墳が代表するような定型化した大型前方後円墳」の出現と捉えるか、「比較的大型の円丘の一方に突出部をもつ前方後円形の墳丘墓」の出現と捉えるかで立場が分かれているわけだ。前者はいわゆる定型化前方後円墳であり、その代表が箸墓古墳である。後者はいわゆる纏向型前方後円墳であり、その代表が纏向石塚古墳や纏向ホケノ山古墳である。土器形式で言えば、前者が布留式土器、後者が庄内式土器である。
 以上のような事情から、考古学者の著述を読むに際して注意が必要である。その著者が何を以て「古墳時代」とするのかが明示されていないと、読者は論旨をたどるためには、文脈から著者の立場を予察しなければならない。
 ちなみに、代表的な高等学校日本史教科書、『詳説 日本史B 改訂版』(山川出版社 2017年発行)では、その本文で「3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室におさめた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた」とし、その註で「古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び」とある。
私は、この教科書と同じ立場、すなわち箸墓古墳の出現を以て古墳時代とする立場をとる。本来この立場では、纏向石塚古墳や纏向ホケノ山古墳は、古墳ではなくて墳丘墓と呼ぶべきである。しかし、これらの名称は既に定着しているため、敢えて換えることなく、石塚古墳、ホケノ山古墳と呼ぶとする。
前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
箸墓古墳の出現を古墳時代の始まりとするか否かはともかく、それが考古学上の重大事であることを否定する者はいない。墳丘長280㍍のこの古墳が、100㍍級の従来の纏向型前方後円墳から大きく飛躍していることは、誰の目にも明らかである。そのため、邪馬台国畿内(大和)説では、これこそが女王・卑弥呼の墓であると目されている。
白石太一郎氏、曰く、「247年ないしその直後とみられる卑弥呼の没年と、筆者らが想定する箸墓古墳の三世紀中葉すぎという年代の間には10年余りの違いがある。しかし、きわめて整美な箸墓古墳の形状やその規模、さらにこうした巨大古墳の造営が倭人たちにとってまったく初めての大土木事業であったことを考えると、その造営に10年余りの年数を要したことは当然であろう。こうした状況から、筆者は箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性はきめわて大きいと考えている」〔注2、頁72〕と。
 これは白石氏に限らず、箸墓古墳=卑弥呼の墓説を支持する大方の考古学者に共通する思考と言えよう。後述するように、私は白石氏による箸墓古墳の年代観を支持する。しかし、氏による上の論考は、それ自体、相当な無理を内包し自家撞着に陥っており、到底首肯することはできない。一般に考古学者は、古墳の考古学には知悉していても、そこで行われた人々の営為には無頓着である。
 確かに、『三国志』魏志倭人伝によれば、卑弥呼が世を去ったのは、247~248年である。白石によれば、箸墓古墳の登場はその10年余り後のことであるという。ところが、そのズレは箸墓古墳が卑弥呼の墓であることに矛盾しないという。なぜなら、「こうした巨大古墳の造営が倭人たちにとってまったく初めての大土木事業であったことを考えると、その造営に10年余りの年数を要したことは当然」であるからだ、というのだ。
 もし白石の言う通りであるならば、箸墓古墳が造営されていた10年余りの間、卑弥呼の遺骸はどうなっていたのだろうか?ミイラの処理を受けない限り、当然白骨化したであろう。
 となると、箸墓古墳の埋葬施設が出来た250年代後半に、卑弥呼の骨が入った骨壺がそこに納められたのであろうか。箸墓古墳は未調査であるために、その埋葬施設の実態は明らかになっていないが、これまでに調査された大和の古墳で、その長大な割竹形木棺の中に骨壺が納められたと推定される事例を寡聞にして知らない。
 とすると、卑弥呼が他界した248年頃にその遺骸は割竹形木棺に入れられ、厳重に密封され、その木棺はどこかに安置された。とともに箸墓古墳の造営が始まった。やがて遺骸は木棺の中で白骨化していった。10年余り経て、漸く埋葬施設が完成するや、その木棺が安置所から古墳に運び込まれたのだろうか。
そうではないと私は思う。被葬者が卑弥呼であるか否かはさておき、その人物が亡くなった時に、箸墓古墳の盛り土はあらかた完了していた。換言すれば、箸墓古墳は、その主となるべき人物の存命中に造営された墓、すなわち寿陵である。だとすると、それは卑弥呼の墓ではあり得ない。こう私は考える。その理由を以下で説明する。
 古代において、貴人は亡くなる否やすぐさま墓に埋葬されたわけではない。遺骸は棺に納められ、その後一定期間、埋葬されずに留め置かれ、その間に様々な儀式が執り行われた。これを殯(もがり)という。
 古代の殯に関して『日本書紀』等の文献を調査した研究によれば〔注3〕、571年崩御の第29代・欽明天皇から806年崩御の第50代・桓武天皇までにおいて、殯の期間(崩御から埋葬まで)は千差万別であった。短くは第43代・元明天皇の6日間、長くは第30代・敏達天皇の5年8ヶ月である。
 中国の文献である『隋書』は、七世紀初頭の推古朝につき記している。それが『隋書』倭国伝である。
 そこには、「死者は斂むるに棺槨を以てし、親賓は屍に就きて歌舞し、妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴人は三年外に殯し、庶人は日を卜して瘞む。葬に及べば屍を船上に置きて、陸地にて之を牽く。或いは小輿を以てす。」とある〔注4〕。
(現代語訳:死者は棺と槨とを以て葬る。親戚や客人は遺体の傍らで歌い踊って弔い、妻子と兄弟は白い布で喪服をつくる。死者が貴人の場合は、三年間、家の外で殯を行い、死者が一般民衆の場合は、占いで埋葬日を決める。埋葬に際しては遺骸を船の上に乗せ、地上を綱で引く。遺骸を小さい輿に乗せることもある。)
 これによれば、貴人の死に際しての殯は三年間であるという。
 ただし、こうした内外の記述は、組織的な統治機構が整い始めた六世紀以降のことである。我々がここで知りたいのは三世紀の状況である。
 それには『古事記』の神話が参考になる。それは、天若日子という神が死んだ時のことである。
 「乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈をきさり持とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人とし、雀を碓女とし、雉を哭女とす。如此く行ひ定めて、日八日夜八夜以ちて遊ぶ。」
(現代語訳:すぐさまそこに喪屋を建て、河鴈をきさり持とし、鷺を掃持とし、カワセミを調理人とし、雀を臼で米を作る女とし、雉を泣き女とし、このように役割を決めて、八日八晩の間、歌い舞った。)
これによれば、天若日子の殯は八日間行われたことになる。『日本書紀』神代下・第九段・本文にもこれに当たる神話があり、そこには「而して八日八夜、啼び哭き悲び歌ぶ」とある。やはり、殯の期間は八日である。
 実を言うと、『三国志』魏志倭人伝にも倭人の殯について記述がある。それは次の一節である。
 「其の死には棺有れども槨無し。土を封じて冢を作る。始め死するや、停喪すること十余日、時に当りて肉を食わず、喪主は哭泣し、他人は就きて歌舞飲酒す。已に葬ば、家を挙げて水中に詣りて澡浴し、以て練沐の如くす。」
(現代語訳:倭人の葬式には棺あるが槨はない。土を盛り上げて墓を作る。人が死ぬと始めに殯を十日余り行う。その期間は肉を食さず、喪主は声をあげて泣くが、その他の人々はその場にいて歌い踊り酒を飲む。埋葬を済ませたら、家中の者は水浴に出かけ、禊ぎを行う。)
 これは、中国の史書による、三世紀の倭の葬儀についての貴重な記述である。「土を封じて冢を作る」とあることから、そこに記される習俗は、墳丘墓に関わる葬礼である。それによれば、その当時の殯の期間は十数日であった。『記』『紀』神話の八日間よりは長いが、大差はないと言えよう。
 以上から、箸墓古墳の被葬者が世を去った時、行われた殯の期間は約10日と推定する。ともあれ、殯が10年以上も続いたはずはない。すなわち、箸墓古墳について、卑弥呼の死後「10年余りの年数」をかけて墓が造営されたという白石太一郎の主張は成り立ちがたいのである。
 巨大前方後円墳である箸墓古墳は、自然の丘陵を削って形成した墳墓ではなくて、「墳丘のほとんどが盛土で形成された古墳」〔注5〕である。その盛り土に要した期間はどの程度であろうか?或る考古学者によれば、一年のうちで250日、一日に500人を動員したとして試算すると、工期は7.9年かかったという〔注6〕。
 埋葬施設は、未調査なので詳らかではないが、五段から成る後円部の最上段に位置すると推定されている〔注7、頁34~35〕。後円部の墳頂を掘り込んで墓壙を作り、そこに石室を構築したわけだ。とすると、後円部の盛り土が完成していないと埋葬施設は造れないことになる。
 従って、死後10日程の殯を経て遺骸を埋葬するには、亡くなってから箸墓古墳の造営に取り掛かるのでは到底間に合わない。被葬者が亡くなった時点で、少なくとも後円部の盛り土は完成していたはずだ。つまり、箸墓古墳は寿陵なのである。
『日本書紀』は、箸墓古墳を、孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命の陵であるとし、その上でその造営について、「是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民相踵ぎて、手遞傅にして運ぶ。」と記す。
(現代語訳:この墓は、昼は人が造り、夜は神が造った。大坂山の石を運んで造ったのである。山から墓に至るまで、人民が立ち並び、石を手から手に渡して運んだ。)
 この記述から相当な突貫工事であったことが窺える。この皇女が亡くなった時点で埋葬施設が出来ていたかどうかは分からない。殯の間に突貫工事で後円部に竪穴を掘り、石室を造ったかもしれない。ただし、盛り土は大凡完了していたはずだ。倭迹迹日百襲姫命の存命中に古墳の工事は始まっていたのである。
 以上から、次のように結論する。箸墓古墳が、白石太一郎の推定通り「三世紀中葉すぎ」の古墳であるならば、それは248年頃に他界した卑弥呼の墓ではありえない、と。
それならば、間違っているのは「三世紀中葉すぎ」という年代ではないのか?もしかしたら、それは240年代に造営されたのではないか。なるほど、それならばそれは卑弥呼の墓でありえる。これについては、次の記事で論考することとする。
注:
〔注1〕白石太一郎 2002「古墳時代・古墳文化」田中琢・佐原真(編)『日本考古学事典』三省堂
〔注2〕白石太一郎 2002「倭国誕生」白石太一郎(編)『日本の時代史1 倭国誕生』吉川弘文館
〔注3〕三上真由子 2005「日本古代の喪葬儀礼に関する一考察 奈良時代における天皇の殯期間の短期化について」奈良大学史学会(編)『奈良史学』23:頁11~31
〔注4〕藤堂明保・竹田晃・影山輝國(全訳注) 2010『倭国伝 中国正史に描かれた日本』講談社学術文庫
〔注5〕寺沢薫 2002「箸墓古墳の築造手順と築造時期」寺沢薫・佐々木好直(編著)『奈良県文化財調査報告書 第89集 箸墓古墳周辺の調査』奈良県立橿原考古学研究所
〔注6〕北條芳隆 2019「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」北條芳隆(編)『考古学講義』ちくま新書
〔注7〕今尾文昭 2018『天皇陵古墳を歩く』朝日新聞出版
2020年2月18日投稿
以上、2020年2月18日投稿記事
2025年9月16日 投稿