以下は、2021年2月23日に投稿した記事です。
書記史からみた邪馬台国 その五
本稿は、「その一」、「その二」、「その三」、「その四」に続くものである。
卑弥呼は魏と文書外交を行っていた。そう言い得るのは『三国志』魏志倭人伝による。そこには、以下のような記述がある。
「伝送の文書、賜遺の物を女王に詣すには差錯することを得ず。」(現代語訳:伝送する文書や下賜された品物を女王のもとに届けるに当たって、間違いが起こらないようにさせる。)
「倭王、使いに因りて上表し、恩詔に答謝す。」(現代語訳:倭王は使者に託して上表し、恩詔に答謝した。)
ここに「伝送の文書」、「上表」とある。これらは、三世紀の卑弥呼政権が魏王朝との間で文書を取り交わしていたことの紛うことなき証拠である。その当時、倭国の外交当局で漢文が読み書きされていたことは明白である。
それでは、我が国の書記史はどこまで遡るのだろうか?
それに対する一つの答えが、「その一」で紹介した、2016年3月のニュースである。
「福岡県糸島市教育委員会は1日、同市の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)とみられる硯の破片が出土した、と発表した。同遺跡は『魏志倭人伝』に登場する『伊都国』の中枢遺跡。外交上の文書のやりとりを実施したとする記述があり、同市教委は『文字を書くために使った』とした。これまでは国内での文字使用は3世紀ごろともされていた。今回の発見は日本における文字文化の始まりを考える上で貴重な成果といえる。」〔毎日新聞 2016/3/2付け記事〕
この発見により、我が国における文字使用の開始は弥生時代後期(1~2世紀)に遡ることが明らかになった。
書記史を考えるに当たって、「弥生時代後期(1~2世紀)」と耳にすれば、すぐさま想起すべき物がある。それが、「その四」で言及した国宝の金印、すなわち「漢委奴國王」印である。
「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉りて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以てす。」(『後漢書』倭伝)
紀元後57年(建武中元二年)に倭の奴国は後漢に朝貢した。その時に皇帝から賜与された印綬が件の「漢委奴國王」印である。福岡市博物館で常設展示されている。
奴国とは、弥生時代の国の一つで、現在の福岡県春日市・福岡市一帯に所在した。弥生時代、北部九州の国々は中国と交流しており、奴国はその主要な一国であった。問題は、西暦57年当時の奴国がどの程度の書記の実力を有していたのか、である。
そもそも、中国の皇帝から印綬を賜与されるとは何を意味したのであろうか?東洋史学の泰斗・西嶋定生によれば、それは次のようなことであった。
「つまり印章を与えられたということは、その職務として作成した文書の封印にこの印章を使用することが義務づけられたことを意味するのであり、印章使用を伴う文書作成こそ、その職務の最重要事項であったといいうるであろう。」〔注1〕
「ひとたび冊封された君主たちには、それ以後中国の皇帝に対して朝貢すべき義務が課せられる。この朝貢のばあいには、その使者はかならず国書を携行することが要求される。(中略)。そしてその国書は、被冊封国の君主が中国皇帝に対して提出する上表文であるということの証拠として、冊封の際に賜与された印章で、封印しなければならなかったのである。冊封関係の設定に際して、冊書とともに印綬が賜与されたということの意味は、まさしくここにあったということができよう。」〔注1〕

景初三年(239年)に魏に朝貢した卑弥呼は「親魏倭王」の称号と共に「金印紫綬」を賜った。正始元年(240年)に卑弥呼はその「恩詔に答謝」するため「上表」した。その上表文は、西嶋が説く通り、賜与されたばかりの金印で封印されたことは疑いない。「親魏倭王」に冊封された卑弥呼の政権は文書を以て外交する実力をその時既に保有し、遅滞なくそれを実践していたのである。
それでは、卑弥呼より182年も前に金印紫綬を与えられた奴国王はどうだったのであろうか?一世紀中頃の奴国は漢文の読み書きができたのだろうか?
それに肯定的であるのが九州の考古学者・高倉洋彰である。曰く、「後漢光武帝から奴国王が金印を下賜されたのは偶然ではない。奴国の王に与えられたのではなく、奴の統率者が『国王』の官爵に任ぜられたのだから、その意義は大きい。官印の用途を考えあわせれば、それは少なくとも、後漢との交渉において文書のやりとりを求められたことになる。それが実行できなければ相手にされないし、印を下賜されることもない。」〔注2〕と。
しかし、高倉の立場は少数派であり続けた。専門家の多数派はそれに否定的であった。そのことは次に引用する文章に顕わである。中国語学者の大島正二は曰く、「西暦一世紀ころには漢字は日本列島に伝えられた。しかし、文字の伝来とそれを用いることとは次元がまったくちがう。文字は文化の所産である。文字を用いるということは、ある高さまで進んだ文化水準を背景として初めて実現する営みである。金印や貨幣に刻まれた漢字は、まだ低い文化レベルにあった古代日本人の目には、およそ文化とは無縁の、ただの権威の象徴、あるいは呪力をもつもの、装飾的な模様としか映らず、漢字の文字としての機能などはまったく理解できなかったにちがいない。」〔注3〕と。
ところがどっこい、である。「その一」で述べたように、2019年2月に、2016年3月のニュースの続報があった。
「弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。」〔毎日新聞 2019/2/20付け記事〕
なんと紀元前の段階で北部九州では文字が書かれていた。奴国王が後漢に冊封されたのは紀元後一世紀のことである。となると、この驚くべきニュースから我々が汲み取るべきは、奴国王は外交文書の専門スタッフを抱えていたに違いないことだ。賜与された金印は「ただの権威の象徴、あるいは呪力をもつもの、装飾的な模様」ではなくて、官印本来の役割すなわち文書外交に用いることを意図されていた。そう見て誤りはない。当時の奴国は中国の求める漢文力を備えていたという高倉洋彰の主張は正しかったのである。
話はそれにとどまらない。
中国の前漢は紀元前202年から紀元後8年までである。ほんの僅かとはいえこの時代の我が国を記したのが『漢書』地理志の次の一節である。
「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国をなす。歳時を以て来たり献見すという。」
我が国には百余りの国があり、時期をみて朝貢していたというのだ。これら百余りの国々と漢王朝との外交はいかなるものであったのだろうか?
これについて先述の高倉洋彰は、「冒頭の奴国使来訪の状況、そしてこれに先立つ『漢書』に倭人が『歳時を以て来たりて、献見する』という伝が記されていること、つまり倭人は情報に長けていてタイミングよく使節を派遣しているという実績を考えれば、背景に正式の文書外交の展開を想定する必要がある。」〔注4〕と述べて、倭人は前漢時代に正式な文書外交を展開していたと推定する。
当然の如くこの説の評価は学者の間で散々であった〔注2〕。「旧来の蛮夷観・弥生社会観」〔注2〕が広く覆っていたからである。
ところが、先述の2019年2月のニュースはその状況に風穴を開けた。「弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯を製作していた」ことが判明したことである。日本列島における板石硯の出現は、北部九州の土器年代で須玖Ⅰ式新相に遡るのである〔注5〕〔注6〕。「その二」で述べたように、これは、歴年代で紀元前二世紀中頃~末となる。つまり、日本列島での文字使用は前漢王朝の時代に始まったことになる。倭人の国々が前漢王朝に「歳時を以て来たり献見」したのは文書外交であった。
紀元前一世紀、伊都国の三雲南小路遺跡1号墓(福岡県糸島市)や奴国の須玖岡本遺跡D地点墓(福岡県春日市)では、多数の中国鏡が副葬された。特筆すべきは、その中に大型鏡も含まれていることだ。前者からは重圏彩画鏡一面、四乳羽状地文鏡一面の計二面、後者からは草葉文鏡三面である。これらの大型鏡は「中国では王侯クラスに贈与される」品であり、楽浪郡や朝鮮半島南部では出土していない器物であるという〔注7〕。
紀元前一世紀の伊都国あるいは奴国が前漢王朝に「歳時を以て来たり献見」した「百余国」の一つであることは疑いない。件の大型鏡はその「献見」時に下賜されたものであろう。そうした貴重な品々が伊都国や奴国の首長に与えられたのは、なぜなのだろうか?もしその使者が国書を提出しなかったならば、それこそ文化レベルの低い国と見下され、相手にされなかったであろうし、王侯クラスが所持する品々を下賜されることはなかったであろう。ところが実際には、伊都国や奴国は前漢王朝が求めるレベルの文書外交を行っていた。だから東夷の国としては破格の厚遇を受けたのである。
つづく
〔注1〕西嶋定生 1985『日本歴史の国際環境』東京大学出版会
〔注2〕高倉洋彰 1995『金印国家群の時代』青木書店
〔注3〕大島正二 2006『漢字伝来』岩波新書
〔注4〕高倉洋彰 1997「金印が発する歴史の情報 『漢委奴國王』を読み解く」『週刊朝日百科 日本の国宝 023』朝日新聞社
〔注5〕柳田康雄 2020「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」『纏向学研究』第8号:桜井市纏向学研究センター
〔注6〕久住猛雄 2020「松江市田和山遺跡出土『文字』板石硯の発見と提起する諸問題」『古代文化』第72巻第1号:古代学協会
〔注7〕岡村秀典 1999『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館
以上、2021年2月23日投稿記事
2025年9月14日 投稿