以下は、2021年10月25日に投稿した記事です。
滋賀県と聞いて脳裏に浮かぶのは、何を措いても琵琶湖であるが、その都市というと、県庁所在地である大津市であり、彦根城で有名な彦根市であり、新幹線の駅がある米原市といったところであろう。しかし、あまり高名ではないものの、古代史を愛好する者にとって見過ごせない地域がある。それが、琵琶湖南岸に位置する、守山市およびその隣の野洲市である。
守山市は人口約8万3千、野洲市は人口約5万の小都市である。ここが地理的に重要であるのは、琵琶湖東岸に沿って米原方面に進めば、東山道で濃尾平野に抜け、琵琶湖西岸に沿って高島方面に進めば、北陸道で日本海に出られることだけではない。守山市と野洲市との境界を流れて琵琶湖に注ぐ一級河川が野洲川(やすがわ)である。この川を遡上すれば甲賀市に達し、更に奧へと進めば加太越(かぶとごえ)ないしは鈴鹿峠を越えて鈴鹿山脈を抜け、三重県の鈴鹿市で伊勢湾に出ることができる。このルートが国道1号である。つまり野洲川下流域は、近畿、北陸、東海北部、東海南部と繋がる交通の要衝なのである。戦国時代、この地を支配する六角氏は再三にわたり時の最高権力者から攻撃された。幕府将軍による二回の六角征伐、織田信長による近江攻略である。六角氏が乱世に攻撃の標的とされたのは、その領地が交通の結節点にあることも一因であろう。
遙かに遡ること弥生時代においても、野洲川下流域は特別な場所であった。それを象徴するのが、守山市の伊勢遺跡〔アイキャッチ画像〕である。これは、守山市と草津市とを隔てる境川の扇状地にある遺跡である。令制国の近江国において、この川は野洲郡と栗太郡との境界であった。川の右岸が野洲郡であり、左岸が栗太郡である。つまり、境川の右岸にある守山市や野洲市は旧・野洲郡に属し、左岸にある草津市や栗東市は旧・栗太郡に属する。現在の境川は小さな川に過ぎないが、かつては野洲川河口部の本流であった〔注1〕。境川こそが旧・野洲川の下流である。伊勢遺跡はそれに臨む集落であったわけだ。
伊勢遺跡は、東西700㍍、南北400㍍、面積約30㌶に及ぶ巨大集落である〔注2〕〔注3〕。弥生時代後期の集落遺跡としては国内最大級である。弥生時代後期中頃に突如出現し、弥生時代後期末に衰退した〔注2〕〔注3〕〔注4〕。つまり、二世紀の倭国の誕生とともに現れ、二世紀末の卑弥呼登場により役割を終えた集落である。現在、国の史跡に指定されている。
伊勢遺跡が特異であるのは、大型建物を二重の柵で区画する方形区画があり、独立棟持柱を有する大型建物がほぼ等間隔に円環状に建ち並んで方形区画を取り囲むという構成にある〔注2〕〔注3〕。ここからは一般の集落に通有する遺物が出土しないため、この領域は広大な祭祀空間であると推定されている〔注2〕〔注4〕。
邪馬台国の所在地を近江とする説があり、伊勢遺跡がある守山市ではそれを地域振興に役立てている。それが「もりやま卑弥呼」である。守山商工会議所青年部主催のコンテストで、令和三年には「第10代もりやま卑弥呼」が選出された(ウェブ情報による)。私としては、邪馬台国を材料にした町おこしに大いにエールを送りたい。だから野暮な口出しをしたくないが、敢えて一言もの申せば、邪馬台国近江説の当否はさておき、伊勢遺跡は卑弥呼の王宮の場ではありえない。なぜなら、先述の通り、それは卑弥呼登場の直前に活動を終えているからだ。
もっとも、卑弥呼との関わりにおいてこの遺跡に注目する有力な考古学者がいる。それが森岡秀人である。森岡は曰く、「原倭国の統合の場こそ近江南部、伊勢遺跡であり、クニグニの卑弥呼共立の儀礼の場とみています」〔注5〕と。
私説では、二世紀から三世紀半ばにかけての倭国の都は吉備である〔注6〕。従って、「原倭国」の中心を「近江を要とする北近畿」〔注5〕とする森岡説には賛同できない。とはいえ、弥生時代後期において伊勢遺跡が極めて重大な場であったとする点で、私見は森岡の見解に一致する。我が国成立の謎を解く上で、伊勢遺跡は重要な鍵の一つであることは間違いない。その意味において、伊勢遺跡を郷土の誇りとし、それを盛り立てている守山市民の感性の鋭さは見事と言うほかない。
つづく
〔注1〕用田政晴 2021『琵琶湖博物館ブックレット⑬ 琵琶湖と古墳 東アジアと日本列島からみる』サンライズ出版
〔注2〕田井中洋介・福西貴彦(執筆・編集) 2017『青銅の鐸と武器 近江の弥生時代とその周辺』開館25周年記念平成29年秋季特別展図録:滋賀県立安土城考古博物館
〔注3〕守山市教育委員会文化財保護課・守山市立埋蔵文化財センター 2012『国史跡 伊勢遺跡 発掘された「弥生の王国」』ウェブ公開冊子(平成二四年八月):
〔注4〕戸塚洋輔 2016「拡大例会シンポジウム記録集<事例報告> 近江地域」古代学研究会(編)『集落動態からみた弥生時代から古墳時代への社会変化』六一書房
〔注5〕森岡秀人 2015「倭国成立過程における『原倭国』の形成 近江の果たした役割とヤマトへの収斂」『纏向学研究センター研究紀要 纏向学研究』第3号:桜井市纏向学研究センター
〔注6〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』一粒書房
令和3年10月25日投稿
以上、2021年10月25日投稿記事
2025年8月17日 投稿