以下は、2021年6月27日に投稿した記事です。

 2016年10月18日に興味深い考古学ニュースがあった。滋賀県彦根市の稲部遺跡(いなべいせき)〔アイキャッチ画像〕で三世紀前半の鉄器工房群の遺構が見つかった。とともに、三世紀後半の大型建物跡も発見された。これはまさに、卑弥呼時代の鍛冶工房であり、それに続く台与時代の首長居館ないしは巨大倉庫である。

 この遺跡を大和政権と結びつける向きもある。しかし、私はその見方に賛同できない。というのも、遺跡が所在する滋賀県彦根市は二つの大きな街道の要衝であるからだ。一つは北陸道である。これにより北陸地方と往来できる。もう一つは東山道(中山道)である。これにより東海地方と往来できる。つまり、稲部遺跡が地理的に強く繋がる地域は北陸や東海であって、大和ではない。

 実際、古墳時代の直前まで大和政権は鉄の流通を掌握していなかった。

 最近の研究によると〔注1〕、弥生時代中期において既に神奈川や千葉などの関東地方南部で鉄器が流通していた。同時期の近畿地方では、大阪、兵庫、京都北部などで鉄器が多く出回っていた。それに対して、奈良、和歌山、三重などの近畿地方南部では相対的に僅少であった。弥生時代後期においても、弥生時代終末期においても、近畿地方の鉄器の分布は北部優位である傾向は変わらなかった。

 別の調査研究でも同じ結果が出ている〔注2〕。近畿地方の鉄器出土遺跡は、弥生時代中期から古墳時代初頭にかけて、京都府、大阪府、兵庫県に多い。それに対して奈良県は相対的に少ない。弥生時代に限定しても、奈良県は僅少である。

 こうしたデータから、私は次のように推定する。弥生時代を通して、近畿地方から南関東への鉄器流通の主要ルートは、近江から関ヶ原を抜けて濃尾平野に入るコース、すなわち淀川・関ヶ原ライン〔注3〕である。そして、日本列島での鉄器の東西流通に大和の勢力の関与は乏しかった。

 近江南部では弥生時代後期後半~庄内式併行期に多数の集落が形成され、竪穴建物、掘立柱建物がともに増加した〔注4〕。弥生中期末~庄内式併行期の鉄鏃、鉄斧、ヤリガンナ、刀子などが方形周溝墓などから見つかっている。そして、彦根市の稲部遺跡で三世紀前半の鉄器工房群跡が発見された。弥生時代終末期の近江南部は鉄器の単なる流通中継地にとどまらず、その生産センターでもあった。

〔注1〕杉山和徳 2019「関東地方の地域間交流の実態と東西交流の解明に向けて シンポジウム趣旨説明を兼ねて」西相模考古学研究会・兵庫考古学談話会合同シンポジウム『弥生時代における東西交流の実態 広域的な連動性を問う』〔二〇一九年二月九~一〇日 神奈川県横浜市〕予稿集

〔注2〕禰宜田佳男 2019『農耕文化の形成と近畿弥生社会』同成社

〔注3〕若井正一 2019『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』一粒書房

〔注4〕戸塚洋輔 2016「事例報告 近江地域」古代学研究会(編)『集落動態からみた弥生時代から古墳時代への社会変化』六一書房

 令和3年6月27日投稿

以上、2021年6月27日投稿記事

 2025年8月17日 投稿