以下は、2021年5月27日に投稿した記事です。

 本稿は「その一」の続きである。

 まず関ヶ原である。これは濃尾平野の西端に位置し、ここから西に伊吹山地と鈴鹿山脈との間を抜ければ近江に出る。

 この関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を舞台にした大きな戦(いくさ)が三つある。どれもその後の歴史を決することとなった。関ヶ原という地が日本列島の東と西との結節点であるため、天下分け目の大舞台になりやすいのである。

 関ヶ原と言えば、すぐに脳裏に浮かぶのが、西暦1600年の関ヶ原の戦いである。

 慶長五年(1600年)9月14日夜に大垣城(岐阜県大垣市)を出た石田三成の西軍は、翌9月15日未明に関ヶ原に到着し、そこで布陣した。「三成動く」の報を受け、徳川家康の東軍も行動を起こし、同日早朝に関ヶ原に布陣した。こうして、両軍合わせて15万を超える軍勢がこの狭隘な地に集結し、対峙した。

 同日午前8時、東軍の松平忠吉・井伊直政隊が西軍の宇喜多秀家隊に発砲し、戦いの火蓋が切られた。東軍の猛攻撃に西軍はよく耐え、戦いの帰趨は見えなかった。

関ヶ原の戦い開戦地

 その時である。松尾山に陣取り戦況を見ていた小早川秀秋隊が、同日正午に遂に山を下って麓の西軍を攻撃した。そのことで東軍優勢の流れが一気に決まり、同日午後に戦いは決着した。この大一番を勝ち取った徳川家康が江戸時代への扉を開いたことは誰もが知ることである。

 知名度の点では関ヶ原の戦いに遠く及ばないものの、歴史の分岐点という点では決して引けを取らないのが、672年の壬申の乱(じんしんのらん)である。

 近江を都として国政に辣腕を振るってきた天智天皇(第38代)であったが、いよいよ肉体の衰えが顕わになった。もしもの時、後継するのは同母の弟である大海人皇子というのが既定路線であった。ところが天皇は、その晩年に、自らの子である大友皇子を太政大臣に指名し、既定路線を覆した。このことが後の内戦の元となった。そうして遂に天智天皇は崩御され、大友皇子が即位した。それが弘文天皇(第39代)である。その都は引き続き近江である。ただし、『日本書紀』は大友皇子の即位を記していない。弘文天皇の即位が正式に認められたのは明治三年(1870)である。一方の大海人皇子は出家して吉野宮(奈良県吉野郡吉野町)に隠遁した。しかしそれで一件落着とはならなかった。壬申の年に当たる672年、両者の争いが勃発したのである。それが壬申の乱である。大海人皇子が最初に打った手は、「不破道」を押さえることであった。この「不破道」こそが関ヶ原である。近江と濃尾平野との往来を遮断して、近江朝廷が尾張・美濃で兵を獲得するのを阻止するためである。とともに、その兵を自陣営に引き入れる狙いである。これに成功することで、大海人皇子陣営は尾張国司守・小子部連鉏鉤が率いる二万の兵を自軍に組み入れることができた。

壬申の乱

 決起と同時に吉野を出た大海人皇子は、伊賀の山中を抜け、桑名を経由して不破に入った。そこで「野上行宮」を設置するとともに、軍の指揮を実子の高市皇子に委任した。自らは野上行宮すなわち関ヶ原に陣取って、戦いを総覧したのである。優位に立った大海人皇子側は近江に攻め込み、近江朝廷の主力軍を撃破し、遂に弘文天皇を自決に追い込んだ。こうして壬申の乱は終結し、大海人皇子は即位した。それが天武天皇(第40代)である。結局、壬申の乱の一大ポイントは、関ヶ原の地をどちらの陣営が押さえるかであった。その要衝をいち早く確保した側が勝利を収めたのである。

 関ヶ原の戦いと壬申の乱の二つは高校教科書で必ず取り上げられるが、残る一つは学校でまず教えられることがない。それが、1338年の青野原の戦い(あおのがはらのたたかい)である。ただし、青野原(岐阜県不破郡垂井町)は関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)の隣接地ではあるが、厳密には同一地ではない。とはいえ、広い意味でこれも関ヶ原を舞台にした戦として扱えよう。

 元弘元年(1331)、大覚寺統の後醍醐天皇(第96代)は鎌倉幕府の打倒に失敗して隠岐に流され、持明院統の光厳天皇(北朝初代)が即位した。とはいえ、一旦火が付いた倒幕の気運は収まらず、後醍醐の失脚後も全国各地で不穏な動きは止まなかった。正慶二年〔元弘三年〕、後醍醐は隠岐を抜け出て、山陰の伯耆国に留まった。その報告を受けた幕府は後醍醐の討伐に大軍を派遣した。ところが、この軍勢中の名門御家人が幕府に反旗を翻し、京都の六波羅探題を襲撃した。この武将こそが、後に室町幕府の開祖となる足利尊氏である。これを機に政治情勢は一気に倒幕へ向けて流れ出した。尊氏の動きに呼応して決起した上野国の有力御家人・新田義貞は、鎌倉を攻め落とし、得宗・北条高時を始めとする北条氏の面々は一堂に会して自刃して果てた。正慶二年〔元弘三年〕(1333)五月、ここに鎌倉幕府は壮絶なる終焉を迎えたのである。同年6月、後醍醐天皇は京都の内裏に入った。こうして光厳天皇は廃位となり、後醍醐天皇は復権した。これが建武政権の誕生であり、建武の新政の始まりである。ただし、元号が建武になるのは翌年(1334)のことである。

 しかし、この政権が瓦解するのは早かった。天皇親政は至る所で軋轢を起こしたのである。建武二年、北条高時の遺児・時行が信濃で蜂起した。これが中先代の乱である。この反乱軍は関東各地で勝利し、建武二年七月にその勢いを以て鎌倉に入った。足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を得ないまま同年八月に京都を発し、東海道の各所で反乱軍を撃破し、鎌倉を北条時行から奪い返した。ところが、その尊氏は後醍醐天皇からの帰京命令に従わず、そのまま鎌倉に居座ったのである。そこで天皇は尊氏討伐のために新田義貞を鎌倉へ差し向けた。ところが新田軍は箱根で足利軍に押し返され、東海道を西へ敗走した。足利尊氏・直義の兄弟はそれを追って京都に入った。建武三年一月のことである。

 ここで登場するのが、本稿の主役・北畠顕家である。作家の北方謙三が『破軍の星』と題する小説でその生涯を描いている。

 北畠顕家は、南北朝時代初期のひとときを駆け抜けていった南朝の貴公子である。『神皇正統記』の著者として名高い南朝の指導者・北畠親房の長男として、文保二年(1318)年に生を享けた。朝廷における昇進は父よりも早く、後醍醐天皇の信任も厚かった。元弘三年(1333)十月、顕家は陸奥守に任じられ、後醍醐天皇の皇子・義良を奉じて陸奥将軍府へ下向した。この将軍府は、建武政権が多賀国府(宮城県多賀城市)に新設した東北地方の統治機関である。顕家は事実上その指導者であった。顕家16歳、義良6歳の時である。東北地方は北条氏の強固な支持基盤であり、この地方の親・北条勢力を駆逐することは、新政権の安定にとって不可欠であった。その意味で、顕家の東北下向は決して左遷ではなくて、全国統治の重要な一翼を担うものであった。天皇の御子が名目上のトップであることはその表れである。

 足利尊氏は建武二年(1335)八月に中先代の乱を鎮圧した。それを機に天皇に反逆した尊氏は、同年十二月に京都を目指して進軍を開始した。東北でその報を受けた顕家は、尊氏を討伐するため、同年十二月に義良親王を奉じて多賀国府を出発した。足利軍は建武三年一月に京都に入ったが、顕家率いる大軍も少し遅れて京都に到着した。顕家軍は激闘の末に足利軍を打ち負かし、尊氏は海路で西国へ敗走していった。こうして顕家は再び義良親王を奉じて奥州へ下向した。ただしそこでは顕家が離れている隙をついて足利方につく武士が続出していた。舞い戻った顕家を待っていたのは、こうした武士達との再度の戦いであった。

 建武の新政の軋みは東北だけではなかった。朝敵にされた足利尊氏と、皇位を追われた光厳上皇とが手を結んだのである。ここに光厳上皇は尊氏に院宣を発した。建武三年二月、九州へ向かう途上の備後国でそれを受け取った尊氏は、漸く官軍としての大義名分を得て、錦の御旗を立てたのである。同年三月に九州での戦いに勝利し、勢いを得た尊氏・直義の兄弟は、政権へ返り咲くべく、同年四月に京都を目指して九州を発った。摂津国の湊川(兵庫県神戸市)での戦いで楠木正成を倒し、足利軍は京都に入った。正成敗死の報を受けた後醍醐天皇は、京都を出て比叡山に逃れたものの、追い詰められて退位に応じた。こうして同年八月、光厳上皇の弟である光明天皇(北朝第二代)が践祚した。北朝の成立である。ところが、同年(1336)十二月に後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に赴き、そこで自らが正統な天皇であることを宣言した。南朝の成立である。ここに名実ともに南北朝時代が幕開けたのである。その上で、後醍醐天皇は足利尊氏の討伐を全国の諸氏に発令した。

 上洛督促の勅書を受け取ったものの、顕家は容易に動けなかった。本拠地である多賀国府でさえ維持できなくなり、延元二年〔建武四年〕(1337)一月には陸奥国霊山(福岡県伊達市)に後退を余儀なくされる程に厳しい戦況にあったからだ。同年八月、顕家は義良親王を奉じて、ようやく上洛への出立にこぎつけた。当初その進軍速度は非常に遅かった。ところが、同年十二月に武蔵国で足利幕府軍を破ると勢いを得て、一気に鎌倉を占拠した。この時、中先代の乱で破れて以後潜伏していた北条時行が伊豆で蜂起して、顕家の軍に合流した。時行は父の敵である後醍醐天皇に下り、同じく仇敵である足利尊氏への復讐に立ち上がったのである。

 延元三年〔暦応元年〕(1338)一月二日に鎌倉を発った顕家軍は、尋常ならざる速い足取りで東海道を西に進んだ。足利幕府が街道に配置していた有力者を次々と撃破して振り切り、破竹の勢いで進軍したのである。その大軍が通過する沿道で行った食料・物資の現地調達、すなわち略奪はすさまじかったという。そして同年一月二十八日、美濃国の青野原に入った。そこで立ちはだかったのが、美濃国守護・土岐頼遠、高師冬、高師泰の軍である。彼ら幕府軍は、顕家軍が関ヶ原を抜けて近江へ侵入するのを阻止すべく、背水の陣を敷いていたのである。こうして両軍は激突した。これが、青野原の戦いである。

 顕家軍は土岐頼遠らの幕府軍を撃破した。敗れた頼遠は、その消息が一時不明になった。しかしこの戦闘で激しく消耗したため、顕家軍には高師泰らが引く西の防衛ラインを突破する余力は残っていなかった。顕家は勢いそのまま近江に突入することを断念したのである。

 北畠顕家そして南朝にとって、運命の分かれ目はこの時であった。行く手を阻まれた顕家軍は南に折れて伊勢に向かった。壬申の乱で大海人皇子が通ったコースを逆に進んだのである。果たしてこの選択はどうであったのか?これ以外に活路を見出せなかったのか?

 佐藤進一は「北近江から越前に入る策があったはず」と言う。というのも、越前では新田義貞が健在だったからだ。にもかかわらずその策をとらなかったのは、佐藤によれば、「顕家が功を義貞に奪われることを嫌ったからだというのが『太平記』の観測である。(中略)。この観測はだいたい当たっているようである」という。これに対して岡野友彦は、「美濃・越前間の険峻な地形を無視した暴論に他ならない」として、越前行きという選択肢はそもそもなかったと述べる。

 いずれにせよ、顕家軍と義貞軍が上手く連携できれば、南朝に勝機はあったであろう。しかしそうはならなかった。伊勢から大和に入った顕家軍は、奈良から京都へ北上しようと試みたものの、般若坂で高師直の軍と激突し、手痛い敗北を喫した。顕家は義良親王を吉野の後醍醐天皇のもとに送った後、河内国へ転進した。そこで善戦したものの、大勢を覆すことはできなかった。延元三年〔暦応元年〕(1338)五月二十二日、和泉国堺浦(大阪府堺市)での高師直軍との決戦で、この稀代の英雄は花と散った。享年二十一であった。ここに南朝の大いなる希望の光が消えたのである。

 つづく

※本稿の執筆にあたって次の書籍・論説を参考にした。

①本郷和人 2018『壬申の乱と関ヶ原の戦い』祥伝社新書

②小和田哲男 2008「関ヶ原の戦い」歴史群像シリーズ特別編集『【決定版】図説 戦国合戦地図集』学習研究社

③倉本一宏 2007『戦争の日本史2 壬申の乱』吉川弘文館

④佐藤進一 1974『日本の歴史9 南北朝の動乱』中公文庫:2005年改訂版

⑤新田一郎 2001『日本の歴史11 太平記の時代』講談社

⑥森茂暁 2007『戦争の日本史8 南北朝の動乱』吉川弘文館

⑦岡野友彦 2009『北畠親房 大日本は神国なり』ミネルヴァ書房

⑧亀田俊和 2021「北畠顕家」『南北朝 武将列伝 南朝編』戎光祥出版

⑨谷口雄太 2021「新田義貞」『南北朝 武将列伝 南朝編』戎光祥出版

⑩牡丹健一 2021「北条時行」『南北朝 武将列伝 南朝編』戎光祥出版

 令和3年5月27日投稿

以上、2021年5月27日投稿記事

 2025年8月13日 投稿