以下は、2019年11月30日に投稿した記事です。
魏志倭人伝と『古事記』『日本書紀』
中国の史書である『三国志』魏志倭人伝は三世紀の我が国の状況を記す。我が国の史書である『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』)もまたその当時の自国の出来事を物語る。ところが、今日の正統的な史学は、前者と後者との取り扱いを大きく異にする。有り体に言えば、前者は取り上げるが、後者は無視するのだ。
日本史教科書(『詳説 日本史B 改訂版』山川出版社 2017年)を見てみよう。そこでは、魏志倭人伝の一部が囲み記事として掲載され、教科書本文で「卑弥呼は239年、魏の皇帝に使いを送り、『親魏倭王』の称号と金印、さらに多数の銅鏡などをおくられた」、「266年、魏にかわった晋の都洛陽に倭の女王(壱与のことか)が使いを送ったのを最後に、以降約150年間、倭国に関する記載は中国の歴史書から姿を消している」と記述されている。それに対して、『記』『紀』は一顧だにされていない。従ってその当時の大和政権の天皇には一切言及がない。
その理由には様々あるが、そのうちで誰もが受け容れられるのが成立時期の違いである。 我が国でも人口に膾炙する『三国志』は、三世紀後半(285年頃)に晋の史官である陳寿が撰んだ三国(魏・呉・蜀)時代の正史である。その一部が所謂、魏志倭人伝である。つまりそれは、三世紀の我が国での出来事についての概ね同時代の史料である。それだけではない。その撰述に際して陳寿の手元には倭に関する様々な史料があったはずだ。その一つと推定されるのが、魏代に帯方郡(朝鮮半島における中国王朝の出先機関)から倭国に赴き無事に帰国した、武官・張政による報告である。つまり魏志倭人伝は、中国の史書であるとはいえ、我が国に関して、単なる海外の伝聞記事ではなくて、実際に現地に赴いて得られた情報を元にしている可能性が高い。その意味で、その信憑性は高い。とりわけ政治情勢に関わる記事については。
それに対して、『古事記』は712年、『日本書紀』は720年の成立である。そのため現代の歴史学者や考古学者は、『記』『紀』が三世紀の我が国に関して真実を伝えているはずはないと頭から決めてかかるのである。卑弥呼の時代より約500年後に編まれた史書の価値は、それより約50年後に完成した史書の価値には遠く及ばないというのだ。これが、魏志倭人伝は重視するが、『記』『紀』は無視する大きな理由である。
しかし、本当にそれは正しい態度なのだろうか?不思議にも学者は殆ど言及しないが、実を言うと、『記』『紀』と最新の考古学とが見事に合致している重大事がある。それは、皇室の勢威が全国に及ぶ時代の始まりと古墳時代の始まりとが一致することだ。
『日本書紀』によれば、箸墓古墳(奈良県桜井市)は崇神天皇の御代に造営された。そして『記』『紀』によれば、それに続いて、天皇が四方に放った将軍が全国各地を軍事的に平定した。そのため崇神天皇は「初国を知らす御真木天皇(はつくにをしらすみまきのすめらみこと)」すなわち「初めて国を統一した天皇」と称えられた。そして、ここでは詳細は省くが(詳しくは拙著『邪馬台国吉備説からみた初期大和政権』をお読みください)、『記』『紀』を検討することで崇神天皇の御代が三世紀であることが分かる。つまり、『記』『紀』によれば、三世紀に大和政権を中心とする統一国家の形成が始まった。
他方、最新の考古学は、三世紀中頃に、箸墓古墳(本記事のアイキャッチ画像)を嚆矢として古墳時代が始まることを明らかにした。具体的には、大和に端を発する布留式土器が全国に拡散し、それと共に、前方後円墳の造営、三角縁神獣鏡の副葬という大和に始まる葬送文化が全国に波及していった。先ほどの教科書を再び紐解こう。そこには、「弥生時代の後期には、すでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが、3世紀中頃から後半になると、より大規模な前方後円墳をはじめとする古墳が西日本を中心に出現した。これら出現期の古墳は、多くは前方後円墳もしくは前方後方墳で、長い木棺を竪穴式石室におさめた埋葬施設や、多数の銅鏡をはじめとする呪術的な副葬品をもつなど、画一的な特徴をもっていた。それは古墳が各地の首長たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、その背景には古墳の出現に先だって広域の政治連合が形成されていたことが考えられる。出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。」(『詳説 日本史B 改訂版』山川出版社 2017年)とある。
皇室を中核とする統一国家の形成は、我が国の歴史上最も重大かつ根本的な出来事である。これについての『記』『紀』の記述が考古学により裏付けられている。この事実に我々は鈍感であってはならない。この事実を我々は看過してはならない。ここでは触れないが、これ以外にも、『記』『紀』の記述と考古学とが見事に合致する事例は枚挙にいとまがない。要するに、『記』『紀』は決して絵空事を語っているのではない。それは間違いなく、我が国の黎明期に関して、その全貌ではないものの、その肝要部分を描いている。だから、中国の史書にある倭に関する断片的な記事と考古学的な知見とを脈絡なく併記するだけで良しとする、今日の日本古代史の有り様は、抜本的に見直されなければならない。それは骨格を欠いているからだ。その抜け落ちているものこそが『記』『紀』を始めとする我が国の史書である。
以上、2019年11月19日投稿記事
2025年5月5日 投稿